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【アメリカ文化メモ③】ニューヨーク旅行記

ニューヨークに3日間滞在したので、そのことを以下に記録しておこうと思う。長いので適当に興味があるところだけつまみ食いするような感じで読んでほしい。


1日目

到着

ニューヨークのJFK空港に着いたのは、金曜日の朝6時。私の住むロサンゼルスとは3時間の時差があるので、体内時計は深夜3時ではあるが、重たい体を引き摺ってとりあえずNYに住む友人宅を訪ねるべくManhattanへ向かう。

ニューヨークというのは、5つの区からなっていて、その中心が半島の先の中州であるManhattanであり、その半島の北にBronxがあり、両区がある半島に沿うように存在しているLong Islandの西端がBrooklynであり、その東側に接するのがQueensである。(文字での説明には限界があるので、気になる方はぜひGoogle Mapを見てほしい。)飛行機の到着したJFK空港があるのはQueensで、電車でBrooklynを通ってManhattanへ向かう。

Manhattanの地区分類

ものの本によれば、Manhattanは、14丁目くらいから南がDowntown、そこからセントラル・パークの南端までがMidtown、その上がUptownと呼ばれているようである。友人によれば、Uptownと言っても性質が異なる街が混在しているようで、高級住宅街であるUpper East及びUpper West(前者がセントラル・パークの東側、後者が西側)とその北に広がる黒人比率の高いHarlemとではかなり性格が異なるようである。

なお、ロースクールでいえば、NYUとColumbiaはいずれもManhattanにあるが、NYUはDowntownにあり、ColumbiaはHarlemにある。どの大学に行くかで大学生活がかなり違いそうなのが面白い。

Empire State Building

話が逸れたが、Midtownの真ん中あたりにある友人宅に向かっていたところに話を戻す。友人宅の最寄駅を降りると、Midtownの真ん中に聳え立つEmpire State Buildingがまず目に入る。ニューヨークに来たことを実感するに十分な立ち姿である。

"Empire State"とはニューヨーク州の別名らしく、英語版のWikiによれば、その起源は歴史家の中でも争いがあるようである。
なお、アメリカでは、車のナンバープレートには、各州ごとに当該州を表すニックネームが記載されることが多いが、やや古いNY州登録の車を見ていると州のニックネームとして「Empire State」と書かれていたから、その異名の浸透度合いは高いのであろう(インターネットには、2010年までがEmpire State、2010−2020年がEmpire Gold、それ以降がExcelsiorという表現になっていると記載があった。)。

A Californian in New York

友人の家は、Empire Stateの南にあるKorean Townの程近くにある高層マンションの高層階であり、眺望も最高であった。私の貯金ではとても住めない代物だ。

友人の家には受付がちゃんとあり、受付係が常駐しており、友人の家に入ろうとして受付を通り抜けようとすると、私は止められてしまった。友人曰く、その受付係が人を止めることはあまりなく、また、アジア人も多く入居しているからアジア人だから止められたというわけではなさそうであり、ニューヨーカーにはニューヨーカーとそれ以外の者を嗅ぎ分ける嗅覚があるということであろう(まぁ要するにカリフォルニアのカジュアルすぎる空気感に慣れすぎてすごく私の恰好がダサかったわけだ。。。笑)。

メトロポリタン美術館とMoMA

友人宅を離れて、一人でMidtownにあるAlidoroというイタリアン・サンドウィッチのお店で腹ごしらえをして、バスでUpper Eastにあるメトロポリタン美術館へ向かう。

僕が美術について言えることは特にないが、メトロポリタン美術館はかなり大きいので、全体を万遍なくみようとするとかなり時間を食うので、滞在時間が長くない人は、事前にネットや本を見るなどして、この分野を見ようなどと決め打ちしておくとよいと思う。個人的には(特に造詣が深いわけではないが)ルネサンスやバロックの時期の絵画が好きだが、そのあたりはヨーロッパの有名な美術館に比べると、そこまで圧倒的な感じはしないが、印象派以降の作品は非常に豊かで圧巻である。印象派ではアルフレッド・シスレーが好きな私には、彼の”The Bridge at Villeneuve-la-Garenne”が見れたことが最高の喜びであった。

そのあとにはMidtownの北側にあるMoMAに行ったが、本で見たことがあるような現代アート(ゴーギャン、ゴッホ、モディリアーニ、マティス、ピカソ、ウォーホル等々)が当然のように置かれていて、圧巻である。こちらもメトロポリタン美術館と合わせて行くべき美術館であろう。

セントラル・パーク

話は少し戻るが、メトロポリタンからMoMAへはやや距離があるが、徒歩で向かった。セントラル・パークを歩くためである。ちょうど桜の季節のようで、花見をしている人も多く、新婚記念で写真を撮っている夫婦も多かった。

現在のニューヨークのベースとなっている都市計画は、当時の指導者のド・ウィット・クリントンによって1811年に策定されたそうで、当時はManhattan島の南端にのみ人が集中しており、その人口は10万を下回っていた。計画では、Manhattan島の北部までを含め、島全体を平坦にならして格子状の街路で覆い、当時の人口の10倍は住めるような街を目指していた。この計画は1825年には完成し、起伏ある荒野が北に広がっていたManhattan島は、街路の張り巡らされた平坦な人工的な島になった。

この都市計画の素晴らしい点は、その人工性がもたらす便利さ・わかりやすさにあったが、その反面、欠点もその人工性にあり、街に自然が完全に失われてしまった。そこで、公園の設計コンテストが1857年に行われ、その結果、Manhattan島のど真ん中に巨大な公園を建て、人口で湖を作り、森を作った。都市開発として平坦にした土地に穴を掘って湖を作り、木を植えるというのは、なんとも無駄な話に思えるが、1811年と1857年の間にニューヨークの人びとの都市観の成熟があったのだろう。

せっかく開拓したこんな広大な土地を公園にしようだなんて先進的なニューヨークなんだ!と驚きたいところだが、この地の中にはセネカ・ヴィレッジと呼ばれる自由黒人たちの居住区が含まれていたという。1855年にニューヨーク市長のフェルナンド・ウッドは、土地収用権を用いてヴィレッジの住民を微々たる補償金と引き換えに追い出して、公園を建てたのだ。土地収用に応じない者には、当然暴力的な立ち退きが行われた。

そんなことを考えながら、セントラル・パークの南にある湖の前のベンチに座っていたら、ふと、J. D. サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』のことを思い出した。主人公ホールデン少年が高校を追い出されてニューヨークをさまよっているときに、セントラル・パークの湖が凍ってしまう冬にはアヒルたちは大丈夫だろうかと心配するシーンである。
私が行った4月頭には湖は全く凍っている様子もなく、カモたちも元気に泳いでいた。彼らが冬をしのげたようでなによりである。(ただ、友人によれば、冬はセントラル・パークの湖は凍っていると思うとのことであった。鳥たちがどのように冬をしのいでいるかという疑問は、僕が18歳で初めて『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ時から、14年経っても解けないままである。)

Downtownの散策〜NYUーSOHOーChinatown〜

友人と合流して、まずはDowntown北部にあるNYUへ向かう。NYUがあるのがGreenwich Villageと呼ばれる地域で、ヘンリー・ジェームズ、エドガー・アラン・ポー、ジャクソン・ポロック等々の名だたる文化人が住んだ場所であるらしい。そのオシャレな都心に広がる建物群がNYUである。「キャンパスはなく、ビルがあるだけ」と聞いていたが、確かに大学を囲む塀のようなものはないが、統一感のある大学の建物が集まって建っていて、キャンパスの雰囲気があった。おしゃれなSOHOにも程近く、都心で学ぶという感じにはもってこいの場所であろう。

SOHOを見て、そこから南東に向かって歩き、Chinatownのやや外れLittle Italyにある点心の店であるJing Fongで夕食前の軽食をした。LAも中華料理のレベルは高いので、LAから来てNYでわざわざ中華料理を食べる必要はなかったかもしれない。。笑。

Chinatown
Louisiana発のPopeyesもChinatownでは中国名併記である。

Manhattan Bridge

ManhattanとBrooklynを繋ぐManhattan BridgeのManhattan側はChinatownの近くに出口があるので、そこから橋を徒歩で渡った。

Manhattan橋のManhattan側の出口

Manhattan BridgeからManhattanを見ると巨大なビルがひしめき合う様が美しい。私が愛してやまないフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』にニックがQueensからManhattanに橋を越えて入るシーンがあったことを思い出した。

“The city seen from the Queensboro Bridge is always the city seen for the first time, in its first wild promise of all the mystery and the beauty in the world.”

"The Great Gatsby"

ニックは、自分が何者にでもなれる、何だってやれるとManhattanの街を見て思い、この街に魅了される。この本は、中西部育ちのアメリカ人たちが成功を求めて東部ニューヨークに移りもがく小説だが、結局はニックはやがて自らがニューヨークに抱いた印象は幻想であったと気づき、故郷に帰る。このキラキラした街には、自己実現のためにこの街を訪れ夢を打ち砕かれた幾多の「ニック」たちの亡霊も眠っているのだろう。

Brooklyn Bridge

Manhattan Bridgeを渡ったBrooklyn側には、再開発スポットであるDumboが広がっている。私は買い物に興味がない人間なので、そこをサクッと眺めて、Brooklyn Bridgeを徒歩で渡ってManhattan側に戻る。その時にちょうど夕陽を拝むことができた。

Brooklyn Bridgeは当時世界一の長さの吊り橋であって、これほどの吊り橋を当時の技術で建てたことは当時としてはまさに偉業であった。建設開始は1867年であって日本はまだ幕末である。設計したのはドイツ系のジョン・ローブリング。この橋の肝であるワイヤーロープを考案した人物である。彼は測量中に事故のために死んだが、息子のワシントンが引き継いで完成させた。しかし、ワシントンも工事に伴う事故で下半身麻痺等の障害を負った。

ワシントンが障害を負った理由は、水中の基礎工事にあった。当時、水中の基礎工事には潜函工法が用いられた。この工法は、木製の巨大な箱を沈めてその中(潜函内)の空気を利用して水中作業する、というもので、そこから出る際に気圧の急激な変化により生じる潜函病になるものが多く、ワシントンはそれによって障害を負った。アルフレッド・E・スミスが「水中基礎工事で死んだ男の人数を、もしニューヨーク市民が知っていたなら、誰も発展しようなんて思わなかったろうね」と述べたように、多くの労働者がその被害を受けた。そうした労働者は主に近隣に住んでいたアイリッシュ系労働者であった。

Midtownの星付きレストラン

夕食は、Midtownの中のEmpire State Buildingの少し北にあるBryant Parkの向かいにあるGabriel Kreutherにしてみた。ミシュラン2つ星というから楽しみしていたが、サービスは良いものの、2つ星に見合う味とは私には思えなかった。LAで星つきレストランを食べても大体そう思うのだが、アメリカでのミシュラン・スターはほとんど当てにならないような気がする。まぁこれは日本人の味覚とアメリカ人の味覚の違いに過ぎないのかもしれない。(ただ、もちろん例外はあっておいしいところもある。)

レストランを終えて、Grand Central TerminalにあるThe Campbel Apartmentというバーに行ってみた。大富豪のCampbel氏が、駅構内に構えていたオフィスを改築したものということで、その空間は100年前のままという感じである。ただ、やや騒々しい感じで(アメリカで落ち着いたバーを見つけるのは難しい。。)、旅行初日で疲れた私には合わなかった。

なお、Grand Central Terminal自体も、映画のロケ地巡りには最適なので、映画好きの方には、見て歩いてみることをおすすめしたい。

2日目

Bagel

まず朝ごはんを食べに、Downtown南東部Lower East SideのエリアにあるRuss & Daughtersカフェへ。ここは、NY生活の長かったUCLAのJD生から教えてもらったが、30分待ちだという。1914年から続く人気の食材店のRuss & Daughtersが100周年を記念して開店したカフェらしい。5分くらい歩いたところにある食材店の方ものぞいてみたが、そちらも大盛況であった。

ニューヨークといえばユダヤ系のベーグル、と皆が反射神経的に浮かぶのは、この地が多くのユダヤ人を抱えているからであろう。ベーグルにまつわるユダヤ教の戒律は厳格であり、そうした戒律の中でベーグルは進化し続けている。

ベーグルを自分で作るDIYスタイルも楽しい。

ベーグルは、ポーランドのユダヤ人たちによって生まれたというのが通説のようである。そういえば、マイアミに旅行したときに、スターバックスでポーランド系ユダヤ人の老人に声を掛けられたことがある。私が自分の英語力を謙遜すると、「君の英語はずいぶんいいよ。自分の両親はどんなに英語を勉強してもぜんぜん話せなかったよ。その代わり、彼らは、ポーランド語も、ドイツ語も、チェコ語も、そして、イディッシュ語も話せたんだ。」と話してくれた。世代を経ることで、アメリカに住むユダヤ系移民の中でイディッシュ語は失われていくのであろうが、ベーグルは残っていくのだろう。食という文化は生命力が強い。

BrooklynのConey Island

ManhattanからConey Islandへ電車で向かう。BrooklynはManhattanに比べて大きくその南の端にあるConey Islandへは電車で1時間近くかかった。
BrooklynのConey Islandは、有名ないくつかの映画のロケ地(『アニー・ホール』、『ブルックリン』、『レクイエム・フォー・ドリーム』)にもなっており、また、私には寂れた場所探訪の趣味もあるので、寂れて退廃的な空気漂うConey Islandに向かうことにした。
Coney Islandの開発は、1824年にホテルが建てられたことから始まり、1950年代から急に衰退を迎えたという。映画『ブルックリン』は、1950年代初頭にアイルランドからアメリカに移民してきた女性の話で、イタリア系移民の彼氏とのデートに来た場所がこのConey Islandであった。衰退の直前の美しい時期を描いたということだろう。現在は再開発で治安は回復しているというが、土曜日の昼でも客足は下のような感じである。

ビーチに沿ってお店が並んでいて、古びた遊園地がそれに沿うように存在している。夏に行けばもう少しビーチ目当ての客がいるのだろう。

少しビーチサイドから離れて歩いていくと、Metsの二軍であろうCyclonesの球場があった。そこには、”From Brooklyn to Queens”との横断幕が。QueensにMetsがあることから、こうした表現になっているのだろう。

友人曰く、NY Yankeesの本拠地であるYankee StadiumはBronxにあるが、Manhattanと川を挟んでほとんど接しており、Mahattanの住人たちは基本的にはYankeesを応援するとのことである。実際、Manhattanで見かけた野球帽のほとんどはYankeesであり、Queensは空港以外には足を踏み入れてないのでMetsのキャップを見たことはなかった。

ちなみに、LA民の愛してやまないドジャーズは、もともとBrooklynに本拠地を置いていたBrooklyn Dodgersであった。New York Giantsのサンフランシスコ移転とともに西部に移った。

Brooklynでのピザ探訪

Coney Islandの近くに炭を使った窯(薪を使った窯の許可は出ても、炭を使った窯の許可はもう出ないらしく、歴史がある店にだけあるということらしい。)で作ったピザを味わえると聞いて、1924年創業のTotonno'sというお店に行ってみたが、その日はなぜかシャッターが降りていた。

困っていた我々に郵便局員が話しかけてくれ、「ここは普段は週末はいつもやっているけど、今日はやってないみたいだね。Brooklynでは、ここのピザも有名だけど、ここ以外にも有名なシチリアスタイルのピザがあるよ。」と言って、L&B Spumoni Gardensをお勧めしてくれたので、そこに急遽行ってみることに。シチリアスタイルの四角いピザ(写真右下)が特徴とのこと。自分としては普通のピザの方が美味しかったが、いい勉強になった。

Downtown散策 Part2〜WTCーWall StreetーBattery Park〜

Manhattanに戻った我々は、昨日見て回った箇所以外のDowntownの有名観光地を潰していくことに。まずはワールドトレードセンターの跡地に。400mを超える110階建ての二つのビルディングが倒れたのは2001年9月11日。その跡地には追悼施設ができていた。巨大な滝の周りに犠牲者の名前が刻まれている。

次に、ウォール街に向かう。

そもそも、NYの街としてのスタートは、Manhattanの南部にオランダ人が町を建てたことに始まる。というのは、いささか白人中心主義的な史観であり、オランダ人が来る前から、ここにはネイティブ・アメリカンが住んでいた。ここに住んでいたのは、アルゴンクィン語を話すレナペ族で、Manhattanという地名も彼らの「マナハッタ」(丘の島)という言葉に由来しているらしい。オランダは1624年にManhattanの南端に植民地を開き、「ニュー・アムステルダム」と名付け、そこで商売を開始した。そして、1626年、オランダの総督のピーター・ミニュイットは、先住民たちから60ギルダーでManhattan島を買い取ったという。この金額は相当な安価な値段であったという(Clint Smith "How the Word is Passed" (2021)によれば、現在の1000ドル相当)。
司馬遼太郎は『街道をゆく』でこの騒動を「60ギルダーでマンハッタン島を売ったというのは、インディアンの心が、青空のように大きかったという証拠である。」と綺麗にまとめているが、実際には、先住民は、恒久的な売却であるとは認識していなかったようで(そもそも、アルゴンクィン語には、土地の所有権を表す単語が存在していなかったそうで、要するに、土地所有権の売買という考え方そのものを認識するすべがなかったという話だ。)、詐欺的なものだったといえる。

そのオランダ人たちが、1653年に先住民とイギリス人の襲撃に備えるために714mに及ぶ壁を築いた。その壁があった場所がウォール街である。こう書くと先住民が攻撃的であったかのようであるが、実際には、1643年にオランダ軍が女性や子供を含むレナペ族100名以上を突然虐殺したことがきっかけだというから、レナペ族が不憫でならない。そのウォールを実際に建設したのは、黒人奴隷たちだった。1711年から1762年にかけて、このウォール街には、黒人奴隷を競売する市場があったというし(Columbia大学のサイトで当時のイラストが見れる。)、下の写真に写るトリニティ教会も黒人奴隷の労働力を使っていたというから、ニューヨークはダークツーリズムのネタには事欠かない街である。

日本人の多くは、「南北戦争」というネーミングのせいで、北部のニューヨークは奴隷制というおぞましい歴史から逃れているかのように思いがちだが、19世紀に入って禁じられるまではニューヨーカーも奴隷を持っており、18世紀には、Manhattanの家庭のほぼ半数が奴隷を所有していたというし、ニューヨークで禁じられた後も、資本家は南部に投資していたし、銀行家は奴隷を担保に取っていたし、ニューヨークの港は南部の綿花のヨーロッパの輸出の拠点であった。南北戦争中にニューヨーク市長であったフェルナンド・ウッド(セントラル・パーク計画地から自由黒人を追い出した奴)は、南部連合から受ける利益を保持するため、ニューヨークは合衆国から離脱すべきと主張していた。

NYSE(左側)とTrinity教会(真ん中)

その後、自由の女神を見るため西に向かいBattery Parkへ。
1886年に建てられたこの像は、アメリカ独立100周年記念のものであった。「自由」の女神とはいうが、「自由」であったはずの黒人もセントラル・パークにあったセネカ・ヴィレッジを追われていたように、これまでの歴史を考えてみると、なにか曇って見える。黒人作家のJames Baldwinは、短編の"THIS MORNING, THIS EVENING, SO SOON"の中で以下のように書いた。

A big, sandy-haired man held his daughter on his shoulders, showing her the Statue of Liberty. I would never know what this statue meant to others, she had always been an ugly joke for me.

この国には「自由」という理想は常に燃えているが、奴隷制や人種差別の影はまだ差していて、その理想は実現はしていないようにも見える。自由の女神は決して実現されえない理想であり、虐げられている人々にとっては醜いジョークである。

Battery Parkから見ると、写真の通り小さいが、わざわざフェリーに乗ってまで近づいてみたいかと言われれば、全くそんな気力は湧かないので、この小さい自由の女神を見て、勝手ながら「私は自由の女神を見た」認定をさせていただいた。

Midtown南西部の散策

そこから電車でMidtownの南西部のチェルシー地区に向かう。そこにはチェルシーマーケットがあり、そこでLos Tacos No.1のTacosをいただく。ルームメイトのおすすめだったが、ここはたしかにおいしい。特に牛のステーキのタコスがおすすめである。この店舗は一番混んでいるらしいので、並びたくない人は他の店舗を狙うといいかもしれない。

お店のキッチン

チェルシーマーケットからは、The High Lineという廃線になった線路跡地の散歩道があって、そこも大人気である。

その散歩道の途中にあるChealsea地区には画商がひしめいているので、散歩道を途中で降りて画商のギャラリーをいくつか見て回るのがおすすめである。『ニューヨーク美術案内』によれば、伝統的な画商は、最初は、Uptownの東側やMidtownの北側にあるプラザホテル近辺にあったようだが、1960年代にポップアートの登場と伴奏するように新しいギャラリー経営者たちが誕生し、彼らが目をつけたのが小さいな工場が並ぶSOHOであったという。ただ、そうしたギャラリーを目指して観光客が多く来たこともあって、SOHOが観光名所となり、家賃が上がっていったという。そうした家賃上昇に耐えられなくなったギャラリー経営者が移った先がChealsea地区であったそうだ。ギャラリーが街の発展に寄与するというのはなんともNYらしい。

The High Lineの終点があるHudson Yardsという地域には、様々な施設があってここも楽しい。私は行かなかったが、Edgeという展望台が大人気のようである。

Times Squareとブロードウェイ・ミュージカル

NYに来たからには、ブロードウェイ・ミュージカルを見なければならない、ということで、予約したのはChicago。理由はチケットが一番安かったからである。
このミュージカルに出てくるのは、ずるがしこい弁護士、注目ばかり求める軽薄な女性たち、実直だがオツムの弱い男性という紋切型なキャラばかりで、やや内容には辟易したが、このミュージカルに求めるのはストーリーではなく、盛り上がりなのだと理解した。また、事前に映画を見ていたので、映画はミュージカルを原案にしつつも、ストーリーをやや変えているため、映画と舞台の違いを考える上で参考になった。

ブロードウェイにあるAmbassador Theaterが公演場所であり、向かう途中にはTimes Squareを見ることができた。自分が抱いているイメージが膨張しすぎたせいか、思いの外ショボいと思ってしまった。笑

遅めの夕食

20時スタートのミュージカルが終わったのは22:30くらいで、夕食にはだいぶ遅くなったので、遅くまでやっているというDowntown北東部にあるEast VillageにあるMiss Lily’s 7A Cafeを訪ねてみた。Grinich Villageに本店があり、そこでは、Jay ZとBeyonceが夫婦で来たり、Pharrell Williamsが誕生日パーティーをやっていたと聞いて、その一端を体感できるとウキウキして馳せ参じてみてものの、食事は予約のみで、飛び込みではバー利用しかできないとのことで、今回は諦めた。

やっている店も少ないので、East Villageの西側にあるUkrainian Villageの中にあるアメリカ料理のお店のThe Smithに入ってみたが、まぁそこそこといった感じだった。

3日目

Bronx探訪

最終日。朝にBronxへ向かう。映画『Joker』の撮影スポットである階段とHiphop生誕地 1520 Sedgwick Aveを見るためである。

Joker Stairと呼ばれているJokerの撮影地の階段では、皆が思い思いのJokerの真似をして写真を撮っていた。

Hiphopの生誕地は、こちらのマンション。ここのマンションの共有スペースで行われたコンサートで、Hiphopが誕生したという。誕生から50年。未だにマンションはそのまま残っている。

Harlem探訪

BronxからManhattanに戻る。戻った場所は、Manhattanの北にあるHarlem地区である。お目当ては、黒人文化に触れることであり、有名なフライドチキンのチェーンであるCharles Pan-Fried Chickenでフライドチキンをいただく。衣が少し焦げたような匂いが私にはたまらなかったが、衣がやや油っぽいので、軽めのフライドチキン好きには微妙かもしれない。
そこを南に歩いていくと、Columbia大学に着く。大学近辺だけ人種的多様性が増して急に雰囲気が変わるのが面白い。そこから少し歩くと、Harlemの中心地があり、黒人カルチャーの中心とも言えるApollo Theaterもあった。

NYでステーキ

そして最終日の締めのご飯ということで、NYのステーキをいただく。Club Aというお店で、Upper Eastに程近い Middle Townの中の落ち着いた場所にある。

あまり肉に詳しくないので、友人に勧めてもらって、Porter houseという部位を選んだ。フィレとサーロインを同時に楽しめるということらしい。私はよくわかっていなかったので、自分の側のサーロインばかりを食べてしまって恥をかいた。。笑

これで時間切れとなり、Penn Stationに行き、電車でJFK空港に戻り、旅は終わった。

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