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【アメリカのお酒メモ①】Bourbon Whiskey

バーボン・ウイスキーに関する逸話・歴史等について気になるものを備忘録的にメモしておこうと思います(適宜加筆予定)。ただ、素人が知識を集積するために書いているもので、あまり参考にはならないとは思います。。

バーボンのレギュレーション

バーボンの定義については、以下の動画が参考になります。
なお、プルーフとは、蒸留酒のアルコール度数を表す際の単位で、0.5倍するとアルコール度数になります。

動画にあるように穀物の構成比率(mash bill)は、51%以上のトウモロコシを用いていることが必要です。(なお、ライ・ウイスキーであれば、51%以上のライ麦を用いる必要があります。)

マッシュビルは上記以外は蒸留所に委ねられていますが、一般的には、大麦麦芽やライ麦を混ぜることが多いとされています。一般的にトウモロコシは温厚な甘みを、(一般的に10-20%配合される)ライ麦は辛口でスパイシーなパンチを提供するとされています。(ただ、メーカーズマークやW. L. ウェラーのように、フレーバー・グレインとして、ふくらみやまろやかさを足すために小麦を用いる場合もあります。)また、大麦麦芽は、デンプンを糖に変える酵素を足すために必要になります。

ウイスキーのつづり

ウイスキーのつづりには二種類ありますが、その理由は以下のとおり解説されています。

アイルランドとアメリカでウイスキーは一般的に「whiskey」とつづられるが、スコットランドとカナダでは「whisky」とつづられることが多い。その理由としてスコットランドの印刷業者が活字を節約したからだという言い伝えがあるが、本当のところはわからない。アメリカのメーカーズマークのバーボンは、スコットランド移民だった創業者に敬意を表して「whisky」のつづりを採用している。-リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)22頁

ほかのアルコール飲料とのライバル関係

独立革命前には、アルコール飲料の中心は、ラム酒でした。しかし、植民地との戦争によって、ラム酒の交易が脅かされ、その間にウイスキーの地位が向上しました。(なお、この時は、痩せた東海岸でも育つライ麦を使ったライ・ウイスキーが主体でした。)
その後、南北戦争(1861-5年)後の数十年後までは、ウイスキーの独壇場であり、ウイスキーがアメリカの酒類ビジネスの70%近くを占めていましたが、19世紀半ばに流入してきたドイツ系移民の影響でビールの消費量が増大し、20世紀には売上げで追い抜かれることとなりました(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)167頁)。
第二次世界大戦後、徐々にウォッカがシェアを拡大させ、1970年代にその闘いは最高潮に達しました。それはライトな風味に対する志向が若い世代に広がっていることを意味していました。

スコッチ・アイリッシュの存在

まず、前提として、イギリスからアメリカへの移民は、以下の4つの大きな流れがあったと言われています(David Hackett Fischer "Albion's Seed: Four British Folkways in America")。
①1629-40年
 イースト・アングリア地方から経済不況等で追われた人々や清教徒
②1640年頃~
 ヴァージニア総督のウィリアム・バークリー卿がヴァージニアに招き入れたプロテスタントの王党派
③1675-1725年
 ウィリアム・ペン(ペンシルヴァニア(”ペンの森”)の名前の由来)に率いられ、ニュージャージー、ペンシルヴァニア、北メリーランド、北デラウェア地方に入植したクエーカー教徒
④1717-76年
 アイルランドの北部、アルスター地区からやってきたスコットランドにルーツを持つ移民(「スコッチ・アイリッシュ」又は「アルスター・スコッチ」)

アメリカの白人文化は、こうした①~④の文化的背景が重層的に重なった上に、ドイツ、イタリア、フランス、スペイン等々の人々の文化が折り重なってできあがっています。②の人々の文化を背景にできあがったのが、『風と共に去りぬ』に描かれたような南部の白人文化といえます。

そうした、②の人々の雅な白人文化と対比されるのが、④のスコッチ・アイリッシュの人々といえます。スコッチ・アイリッシュのアメリカにおける活躍については以下の記事も参考になります。

彼らは、お酒を愛し、粗野な振る舞いをすることも多く、寛容なクエーカー教徒からも排斥されたといいます。そして、彼らにはアパラチア山脈の僻地に移り住んだ人も多かったといわれています。(なお、彼らの音楽がカントリーミュージックの礎になったともいわれています。)そんな彼らがアメリカのウイスキー文化を支えました。その点については、武部好伸氏の以下のエッセイが参考になります。

ケンタッキーにおけるウイスキーの発展

上記の武部氏のエッセイに、「独立後、ペンシルベニア産のライ・ウイスキーが新興国アメリカで広まると期待されたが、新政府がウイスキーに税金を課したので、蒸留業者は西部のケンタッキーやテネシーへ逃れ、トウモロコシを原料にしたウイスキーを手がけた。」といった記載がありますが、その種の言説には疑義も呈されています。というのも、ケンタッキーのウイスキー産業は、反乱が勃発する前からすでに萌芽していたからです。ケンタッキーでウイスキーが発展した直接の原因としては、歴史家のジョン・フィルソンの『ケンタッキーの発見と植民と現状』において、伝説の植民者ダニエル・ブーンが言及され、そこでとんでもない肥沃な土地としてのケンタッキーが紹介され、さまざまな農家を呼び寄せ、それによって、余剰のトウモロコシが蒸留酒造りに用いられたというのがどちらかというと事実に即しているようです(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)71-87頁)。

そうした神話にひきよせられたのが、イライジャ・クレイグ牧師であり、エライジャ・ペッパーであり、ヘンリー・ワッセンであり、ジェイコブ・ビームといったバーボンのラベルに名を残す人々でした。

そして、そうした農民に加えて、その発展に手を貸したのが、ルイ・タラスコンとジャン・タラスコンというフランス人の兄弟であるとも言われています(同書87頁)。彼らが、ウイスキーを仕入れ、フランスのコニャック地方にあるブランデーの熟成方法を取り入れて改良して、ニューオーリンズのフランス人商人に送られたとされています。(19世紀当時、ニューオーリンズはアメリカで最も大きな街のひとつであり、その市場で多くのケンタッキー・ウイスキーが消費されました。)

また、ケンタッキー初の商業的蒸溜所を建てたのは、エヴァン・ウィリアムスであると考えられています(1783年)。ウィリアムスは、オハイオ川の港湾局長でありましたが、ここに商業的蒸溜所を建てることとしました。

ウイスキー税

上記のスコッチ・アイリッシュに関する2つの記事にあったとおり、スコッチ・アイリッシュはイギリス政府による重税を嫌がり、アメリカに渡り、そこで、アメリカの独立に手を貸しましたが、結局は、合衆国政府からウイスキー税を課されることになります。

そこには、北東部エリート資本家層を支持基盤とするハミルトン(Alexander Hamilton)と南部自作農や一般大衆を支持基盤とするジェファーソン(Thomas Jefferson)の対立が重なりました。ハミルトンは、ウイスキー税の発案者であり、東海岸の大規模な蒸留所の発展を促し、辺境地帯の小さな蒸留業者には不利になるようにウイスキー税を仕組むこと(都市部の蒸留所はウイスキーの生産量に応じて税金を支払い、地方の蒸留所はスチルの生産能力に応じて課税される仕組み)を考え、ジェファーソンはそれに反発しました(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)53-64頁)。

結局、ハミルトンの議論が通り、ウイスキー税は課されることになりましたが、1791年に反乱が始まり、長い期間をかけて鎮圧された。この課税によって、税逃れのための密貿易や密造が横行し、結局は、国内の蒸留所は、ハミルトンが嫌った家内産業であり続けることになりました。また、ジェファーソンは、大統領就任後、ウイスキー税を廃止しました。(彼自身はフランスとイタリアを愛するワイン・マニアで、ウイスキーは「毒」であり、ワインはその解毒剤になると考えていたそうですが。。)

バーボンという名称

ラファイエット侯爵は、アメリカの独立戦争時に、フランスの支援を取りまとめた人物で、その行為に対する感謝を示すために、フランスのブルボン朝にちなんで、ケンタッキーの郡のひとつが「バーボン郡」と名付けられました。

そのバーボン郡という名称から、「バーボン・ウイスキー」と呼ばれることになったことは基本的に間違いありませんが、どのような経緯・理由でそうなったかには諸説あります。もっとも一般的に語られるのは、ニューオーリンズの酒業者が、バーボン郡ライムストーン(現在のメイズビルのあたり)の港から来たウイスキーを「バーボン」と呼んだとの説ですが、裏付ける史料はないようです。

これに対して、ニューオーリンズの一大勢力であったフランス語を話す層(多くは19世紀はじめにフランス革命から逃げてきた王党派であり、ブルボン朝への愛着はあったはず)にアピールするためのマーケティング的な手法として名付けられたのではないか、という夢のない仮説が有力になりつつあるそうです(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)92-3頁)。

禁酒法の時代

禁酒法は1920年から1933年まで続きました。蒸溜業者側は、1913年の個人所得税の施行まで、酒税はアメリカの歳入の中核であり、禁酒など実際はできないと高をくくっていたところもありましたが、禁酒法支持派の組織力と政治運動の力に押されて、禁酒法は成立しました。

そこには、もともと禁酒運動が強かった北東部共和党に、黒人からアルコールを取り上げたいKKKをはじめとする南部白人層、フォード、ロックフェラー、カーネギー、マコーミック、デュポンなどの産業界の支持(特に、反ユダヤ主義を明らかにしていたヘンリー・フォードは、蒸溜業者としてユダヤ人が成功していることから、アルコールをユダヤ人の陰謀であると述べていました。)、第一次世界大戦で生じた反ドイツ感情(ビール・ウイスキー業界はいずれもドイツ系移民が多かった)等々の動きの重なりがありました(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)240-1頁)。)。

そこでは、ウイスキーに(飲用として用いられることがないよう規制に基づき有毒物の添加された)工業用アルコールが加えられ、人々に害をもたらしました。この時代、ウイスキーの文化はアメリカから途絶えざるを得ませんでした。

現在の主要な蒸溜所とブランド

現在の蒸留所と主要ブランドの関係は以下の記事が理解の助けになります。

Jim Beam

ヨハネス・ジェイコブ・ビームは、ドイツ系移民の農夫で、18世紀末にケンタッキーに移り住んだ初期の開拓者の一人でした。農業に励みつつ、余剰の作物を蒸溜酒にして販売するため、ウイスキー造りを始めました。その後、堅実に事業は続き、1929年生まれのブッカー・ノー(ジム・ビームの孫)をはじめとする20世紀の立役者たちがジム・ビームを巨大な企業にしました。(ブッカーの名は最高峰のウイスキーに用いられています。)

James C. CrowとPepper家

ジェームズ・クロウは、スコットランドに生まれ、エディンバラ大学で医学を学んだあと、アメリカに渡り、1823年にフィラデルフィアからケンタッキーに移ったとされています。そして、オスカー・ペッパーの蒸留所で、オスカーに雇われて蒸留所で働き始めました。そこで、彼は、科学的な手法を用いて、ウイスキーの改良を進めました。そのウイスキーが「オールド・クロウ」(又は単に「クロウ」)と呼ばれ、非常に人気を得ました。これによって、バーボンの名声は高まり、「バーボン」という名称も人口に膾炙することになったといいます(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)126頁)。

1856年の彼の死後、ペッパーはブランドを続けましたが、ペッパーの死後は、ブランドは以下で触れるE. H. Taylor Jr.がブランドの権利を購入し、同じ頃、オスカー・ペッパーの子であるJames Pepperを引き取り、法定後見人となりました。その後、ジェームズはそのブランドを相続しましたが、1879年にゲインズ・ベリー・アンド・カンパニー(もともとTaylorが財務担当者をしていた会社)にその権利を売却してしまいました。(現在は、ジム・ビーム蒸溜所のブランドとなっています。)

その後、ペッパーは外部ブレンド業者にウイスキーを製造する自社のビジネスモデルに嫌気が差し、自分のブランドを立ち上げます。史実をねじ曲げ、でっち上げた信憑性のない情報を宣伝文句に使った点で、ある種バーボンのマーケティング史の一ページを切り開いたともいえます(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)194-6頁)。

そのペッパーのブランドは、Amir Peayというウイスキー・オタクのビジネスマンによって2008年に再開されました。

Jack Daniel

彼は、南北戦争(1861-5年)後、故郷のテネシー州で蒸留業を始めました。その頃、南側についたテネシー州は焦土と化していました。(これに対して、北で接するケンタッキー州は、もともと南軍支持だったにも関わらず、方向転換して北軍に加わり、その被害も少なくて済みました。)

彼は、ケンタッキー州のウイスキーの隆盛を眺めつつ、自分のウイスキーを「バーボン」と呼ぶことはせず、「テネシー・ウイスキー」として出すことにこだわりました。現在、テネシー・ウイスキーと呼ばれるには、テネシー州で作られた蒸留酒であることで基本的に足りるようですが、一般的には、リンカン郡製法(サトウカエデの炭で濾過する製法)を用いていることが多いようです。

しかし、1956年には、ルイビルのブラウンフォーマン社に買収され、ケンタッキーの会社のブランドになってしました。ただ、その宣伝力を通じて(又は、フランク・シナトラの宣伝によって)、ジャック・ダニエルは非常に有名なブランドに成り上がりました。

なお、ジャックダニエルのあるムーア郡はいまだにドライ・カウンティ(禁酒郡)であって、試飲等は蒸溜所でできないとも言われています。

Edmund Haynes Taylor, Jr.

「現代ウイスキー産業の父」や「バーボンの影の枢機卿」ともよばれる人物。

1830年に生まれたTaylorは、早くに両親を亡くし、おじたちに育てられ、おじのエドモントと同じ銀行家になりました。そして、1850年代、銀行の支店を開設するためケンタッキーの地方を巡っていたときに、ジェイムズ・クロウとオスカー・ペッパーに出会いました。1860年頃には、ゲインズ・ベリー・アンド・カンパニーに入社し、財務の仕事を行い、その会社で、オスカー・ペッパーの死亡時には、オールド・クロウの蒸溜所、在庫、ブランド名の権利を譲り受けました。

彼は、1869年、現在のバッファロートレース蒸溜所の敷地に立っていた蒸溜所(ベンジャミン・ブラントンの設立したリーズタウン蒸溜所)を手に入れ、「O.F.C(オールド・ファイヤー・カッパー)蒸溜所」と呼びました。ただ、ざまざまな経緯を経て、蒸溜所の権利はもともとパートナーであったセントルイスの投資家であったジョージ・T・スタッグに売却され、結局、E. H. Taylor, Jr. Companyの株式のほとんどは、スタッグが持つことになりました。そんな状況で、テイラーはスタッグと衝突し、袂を分かちました。

その彼が、1887年に新たに創業したのが、Old Taylor蒸溜所でした。タイラーは自らが持っている知識をすべて詰め込み、さまざまな合理化を図りました(石臼ではなくローラーによって穀物を挽いたり、糖化槽を木製から掃除のしやすい銅製にしたり、ラック方式による熟成を行ったり)。

また、消費者保護のための表示規制等の成立に尽力し、1906年に純正食品・薬品法が可決され、その後の若干の揺り戻しはありましたが、ストレート・ウイスキーとブレンデッド・ウイスキーの二種類の呼称が採用されることとなり、大量生産を行う清溜業者との差別化を図ることに成功しました。

Old Taylor

現在は、バッファロー・トレースが保有しているブランドで、バッファロー・トレースの蒸溜所のウイスキーを使って作られています。かつては以下にある石造りの城のOld Taylor蒸溜所(Edmund Haynes Taylor, Jr.が1887年に作ったCatsle Distillery)で生産されていましたが、1987年、ジム・ビームが買い取りました。

ジム・ビームはこの蒸留所を放置して、荒廃させていましたが、1994年メカニストとしてジム・ビームに4年働いたシル・ウィズロウは、辞めてここを買い取り、Stone Castle Disilleryを興し、ウイスキーの蒸留を始めた話しが、東理夫『ケンタッキー・バーボン紀行』(1997年)11頁に出てきます。

しかしながら、あるブログによると、ウィズロウは急死し、この蒸留所を復活させる彼の夢は潰えたようです。ただ、2014年には、投資家グループがオールド・テイラーの跡地を150万ドルにも満たない額で購入し、新しい蒸溜所を建設する計画が進んでいるそうです(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)207頁)。

バッファロートレース蒸溜所

上述の「Edmund Haynes Taylor, Jr.」の項で述べたとおり、もともとブラントン家が興したリーズタウン蒸溜所は、スタッグの手中に移りましたが、スタッグは、創始者の息子であるアルバート・B・ブラントンを事務員として雇い入れます。
1929年にシェンリーが蒸溜所を購入し、戦後、Ancient Age Bourbonを売りに出し、ヒットしました。そのヒットから、社名をシェンリー・ディスティラリーからエンシェント・エイジ・ディスティリング・カンパニーに変更ました。このレーベルによって、シングル・バレル・バーボンという考え方が創出されました。そして、それは、Blanton’sへと受け継がれることになります。

Isaac Wolf Bernheim

1848年生まれのアイザック・ウォルフ・バーンハイムは、もともとユダヤ系ドイツ人であり、1867年にアメリカに移住しました。行商人の仕事に嫌気が差した彼は、1872年に叔父の住むケンタッキー州パデューカに移り住み、弟ともにウイスキーの卸売業を始めました。(ガラス瓶に詰めて販売することで人気を得たといいます。)

そして、彼は、1879年に自分の最初の二つのイニシャルを付したI. W. Harperの生産を開始しました。(「ハーパー」の部分は、バーンハイムの馬の調教師だったJohn Harperからとったという説が有力です。)これは、ユダヤ人だとすぐわかる名前を付せば、売上げに響くことが予想されたからだと考えられています。1888年、蒸溜所を購入し、独自のウイスキーの製造を開始しました。

そのブランドは、1937年にシェンリーに売却し、1987年にユナイテッド・ディスティラーズ(ギネス)が買いました。

Heaven Hill

ロシア系ユダヤ移民のシャピラー家が1934年に創設したヘブンヒルが、Evan WilliamsやElijah Craigといった白人の名前を冠したブランドで成功したことが、(Isaac Wolf Bernheimの項で述べた)ユダヤ系が出自を商業的な目的で隠ぺいすることの現れともいえます。

イライジャ・クレイグ、エヴァン・ウィリアムスといったウイスキー界のビッグネームをブランドに持つヘヴンヒルですが、禁酒法廃止後に酒造業に参画した歴史の浅いディスティラリーです。ヘブンヒル社は、禁酒法廃止後、ウイスキーに投資することとし、ジョセフ・ビームをはじめとする数人のビーム家の人間と契約を交わし、自分たちで蒸溜所を建ててウイスキーを作り始めました(いまだにビーム一族の子孫が蒸溜責任者であるそうです。)。なお、ヘブンヒルとは、蒸溜所を建てたその土地で一世紀前にウイスキーを作っていたウィリアム・ヘブンヒルの名を借りたものです(リード・ミーテンビュラー『バーボンの歴史』(原書房)275-9頁)。

Maker's Mark

ラベルのマークは、オーナーのビル・サミュエル・シニアが考案したものです。彼は、先祖から引き継いだディスラリーを第二次大戦の戦時中に売ってしまったものの、やはり酒造りがしたいと思い直し、ロレットにある荒廃したハッピー・ホロー・ディスラリーを買い取って、スター・ヒル・ディスラリーをはじめた人物です。

星印は、現在のディスラリーがある場所、スター・ヒル・ファームの場所と、最初の名前、スター・ヒル・ディスラリーを表し、Sはサミュエルズ家の頭文字、そして周囲の縁は一家の輪を描いています。そして、それが途切れているのは、かつて先祖から引き継いだディスラリーを手放してその歴史を途絶えさせた事実を苦い教訓として残しているといわれています(東理夫『ケンタッキー・バーボン紀行』(1997年)41-2頁)。(ただ、以下のサントリーのHPにあるとおり、途切れ目は4つあるので、すべての説明にはなっていないようです。そのあたりはサントリーのHPをみてください。)

スティッツェル・ウェラーのパピー・ヴァン・ウィンクルは、ウィート・バーボンの製法や技術的なコツを伝授したといいます。そうした同業者の助けを得て、1953年に操業を開始し、1958年にメーカーズ・マークはファースト・パッチを販売しました。高級感を出し、価格も高めに設定し、1970年代の食の復古主義(シェ・パニース等々)とも呼応し、中産階級に訴求した。

MGP

インディアナ州ローレンスバーグにある「ミッドウエスト・グレイン・プロダクツ・イングリディエンツ」の略称。他社ブランドのためのウイスキーを作るメーカーです。

発注者(NDP/non-distiller producers)からソーシングを受けてウイスキーを卸しています。有名なところでは、テンプルトン、ブレット・ライ、ハイウエスト等のブランドが顧客です。以下のブログの「MGP」の項目に詳細が書いてあり、参考になります。

テンプルトン・ライは、「アル・カポネが愛した伝説のブランド」などと喧伝して、ブランドの連続性が誇張されていますが、現在の会社は21世紀初頭にアイオワ州で創業しており、実際はMGPIのソーシング・ウイスキーであるというのは、なんともバーボン的な誇大広告という感じです。


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