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【アメリカ食メモ⑤】California Cuisine

California Cuisineとは

カリフォルニア・キュイジーヌとは、地元カリフォルニアの新鮮・高品質な材料を用いるべきという理想に従ったカリフォルニア料理のことをいう。基本的に、材料を活かすため、ソースは軽く、料理法はシンプルである。

その運動の生誕地は、Alice Watersの"Chez Panisse"(シェ・パニース)であった。

シェ・パニース

コンセプト

1971年8月28日、Alice WatersがカリフォルニアのBerkeleyにシェ・パニースをオープンさせた。店名には以下のコンセプトが込められている。

店名は、古いフランス映画――マルセル・パニョル監督の三部作『マリウス』『ファニー』『セザール』に出てくる登場人物から、いちばん雅量があり人生を謳歌していたオノレ・パニース氏にちなんで名付けたものだ。アリスは自分のレストランを、映画のなかで港町マルセイユの海岸通りにあった〈セザールの居酒屋〉のように、誰もが気楽に立ち寄れる近所の集会場のようなところ、友人たちと何時間もワインを飲みながら、笑ったり、議論したり、ふざけあったりできるレストランにしようと心に決めていた。さらに〈シェ・パニース〉ではワインだけでなく、なにかシンプルで美味しいものを食べられるようにしたかった。

トーマス・マクナミー『美しい革命 アリス・ウォータースと<シェ・パニースの人びと>』

アリスはヒッピーの反体制運動の中心地の一つであったバークレーで過ごし、後述する彼女の食に対する思想もそこから生まれたことは否定しがたい。創業時のBerkeleyの雰囲気が分かる以下のような一節も面白い。

さらに匿名の出資者たちがいたのだ――街のドラッグ・ディーラーたちである。彼らは今のいわゆる〝ドラッグ・ディーラー〟という呼び名から連想されるような、強面の、拳銃で武装したギャングのような人びとではない。彼らは温厚な普通のバークレー市民であり、たまたま葉っぱとか他のソフトな〝薬草〟を、同好の友人仲間に供給して生計を立てているというだけだった。
「だって私たちに出資してくれるお金を持っている人たちなんて、彼らくらいしか考えられなかったのよね」とアリスは言う。「唯一お金のある文化的反体制派ね。銀行からお金を借りるなんて、考えてもみなかったわ」

トーマス・マクナミー前掲書

料理法

店名の由来にあったとおり、アリスは、凝りに凝ったパリの古典的なフランス料理ではなく、素材を活かすプロヴァンス風のフランス料理を当初のベースとしつつ、その後は、主任シェフ/ジェレマイアの時代を経て(4年間シェフを務めたジェレマイア・タワーは、ハーバード出身の衒学的な男で古典的で豪奢な正統派なフランス料理を作ることも多かった。)、1976年の夏から、農家から直接買った農産物を中心によりシンプルな料理にするという志向が明確になる。その後、1980年代には、イタリアンをベースとするポール・バートリが主任シェフとなり(料理は芸術作品ではないという彼の思想はまさにジェレマイアと対照的であった。)、その志向が研ぎ澄まされた。

1970年代の初頭、同時期のフランスでは、フランス料理批評家であるアンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨが呼ぶところの「ヌーヴェル・キュイジーヌ」が生まれており、ポール・ボキューズ、アラン・シャペル、ジャック・ピク、ミシェル・ゲラール、トロワグロ兄弟などが、「調理しすぎてはならない」、「新鮮で最良質の食材を用いよ」、「メニューは軽めにせよ」といった事項からなる「ヌーヴェル・キュイジーヌの十戒」を受け容れていた。このように本場フランスでの運動とシンクロして、カリフォルニア・キュイジーヌ運動は巨大なうねりとなりつつあった。

食のエシカルな側面

アリスは、プロヴァンス料理に憧れ、美味しい食材を求めて、地元の農産物を生かした食事を作るというコンセプトを徹底していく過程で、画一化され多様性を圧死させていく食品流通のあり方について考えを深め、地球環境や若い世代の食生活や健康への責任といった食の倫理的な側面に対して真剣に意識するようになる。

もちろん、創業当初にそうしたエシカルな側面を全く見えていなかった訳ではない。1962年にレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書き、防虫剤のDDTが生態系に及ぼす悪影響について警告しており、アリスやその周辺でも環境への意識は高まっていた。彼女はこう述べている。

「あの頃は周りの誰もがレイチェル・カーソンの『沈黙の春』やフランシス・ムア・ラッペの『小さな惑星の緑の食卓』を夢中で読んでいました。私は「大地へ帰れ運動」に憧れていて、農薬や殺虫剤を使わずに食べ物を自分で育てることに敬意を持っていました。」

アリス・ウォータース『スローフード宣言 食べることは生きること』

しかし、アリスは「カウンターカルチャーと食をめぐる政治につながりを感じつつも、本当の意味では腑に落ちていなかった」という。

工業化社会が食をも支配し、ファストフードによる大量生産によって食から多様性や楽しさが失われている。安価であるものの、サトウキビからの砂糖に比べて脂肪細胞になりやすいコーン・シロップへの依存が進んでいる。ファストフードが行う大規模農業は、健康や環境を損ないかねないようなものであり、また、畑に本来あった生物学的多様性が失われている。こうした危惧が徐々にレストランのコンセプト(美食を追求して、地産の旬の食材を使うというコンセプト)と組み合わさり、彼女の思想が明確になっていく。
アメリカの現在の食は、不健康で、貧相で、画一的で、愛を欠いている。そんなアメリカの食事を変えること、これが次第に彼女のミッションとなった。彼女は、シェ・パニースでの活動のほかに、貧困層にもオーガニック・フードが広がるようなプロジェクトに参加した。(貧困層ほど画一的な加工食品に依存している事実はアメリカにおいて変わっているとはいいがたいが。)また、中学校に菜園を作り、子供たちが食を学べるようにするEdible Schoolyardプロジェクトも行った。彼女は一般的なシェフのイメージの殻を破り、フード・アクティビストになっていった。

そうした背景から、シェ・パニースで使う魚介類は、持続可能なものだけになっている。また、使用する牛肉についても、人道的に飼育された牛に限定するなど、その思想は広がりを見せている。

彼女が『アート オブ シンプル』で掲げた9原則が以下のとおり。彼女の思想が凝縮した形で述べられているので興味深い。

①地元で、持続可能な方法で、環境に配慮してつくられたものを食べましょう。
②旬のものを食べましょう。
③ファーマーズ・マーケットで買い物をしましょう。
④庭に食べられるものを植えましょう。
⑤ものを大事にし、堆肥をつくり、そしてリサイクルに努めましょう。
⑥料理はシンプルに、五感をすべて使って。
⑦みんなで一緒に料理をしましょう。
⑧みんなで一緒に食べましょう。
⑨食べ物は尊いということを忘れずに。

速水健朗が『フード左翼とフード右翼』のなかで、「フード左翼」を「工業製品となった食を、農業の側に取り戻し、再び安全で安心なものに引き寄せようという人々」と定義し(82頁)、アリスを「「フード左翼」の最左翼的な人物」と呼んでいるのは興味深い。彼女の思想と運動は、実際にアメリカの食文化を変えていった。

アリスの国家像

話は横道にそれるが、興味深いので、アリスの国家観にも触れておきたい。

彼女は、菜園の活動を広めるべく、ホワイトハウスに菜園を作るべきと嘆願するクリントン大統領への手紙に「私はいまだに、トーマス・ジェファーソンが唱えた、独立したファーマーたちの国という価値観をもった政府を作る夢を、貴下はまだ実現できると信じます。」と書いていた。北東部のエリート資本家を支持基盤とし工業国家を目指したハミルトンと南部自作農や一般大衆を支持基盤とし農業国家を目指したジェファーソンの対立は以下の記事の「ウイスキー税」の項目でも述べたが、アリスの目指すべき国家観は、ジェファーソンのそれに近いことが示されている。彼女の思想からすれば、ジェファーソンの国家像に想いを寄せるのは納得ではあるが、彼女の主要なクライアントは、まさにハミルトンが志向した資本家が牽引するアメリカが作り出したアッパーミドル層でははいか、というのは皮肉な見方ではあろうが、アリスの運動の一種の矛盾点を語っていよう。

田舎のアーカンソーからでてきたクリントンには、北東部のエスタブリッシュメントとは違う存在感があったのではあろうから、こうした発言があったのであろうが、奥さんのヒラリーがゴールドマン・サックスから講演1回で22万5000ドルを受け取っていたこと等も報じられ、クリントン夫婦はまさに北東部のエスタブリッシュメントの代表的な存在として左右両翼から忌み嫌われていることは興味深い。

スローフード運動との共鳴

イタリアのカルロ・ペトリーニ(Carlo Petrini)は、イタリアの共産党系のプロレタリア統一党に所属しており、左派系新聞のグルメページを担当していた中で、食の工業化・画一化に疑問を持っていた。そんな中、1986年にローマのスペイン広場にマクドナルドが開店したことを知った彼は、それに抗議すべく、ローマへ出向いて抗議活動を行った。そうした動きからカルロを中心としてスローフード運動が生まれていった。反体制運動から食のアンチ・グローバリズムへ、という流れは、まさにアリスと同じであった。1988年にアリスはカルロと出会い、彼らは当然のなりゆきで意気投合し、スローフードUSAの役員となって、シェ・パニースにオフィスを構えた。
(ただ、もちろん保守すべき「ローカル」が意味するところはイタリアとアメリカで異なる。なぜなら、アメリカには、そして、特にカリフォルニアには、伝統文化としての食文化は存在しない。したがって、イタリアのスローフード運動が持っていた伝統回帰的な色彩はアメリカでは薄まらざる得なかった。)

LAでアリスの思想を体感できるレストラン

2021年、アリスは、長くシェ・パニースにてシェフを務めたデイヴィッド・タニスとともにLAのレストランLuluをプロデュースしている。
Luluの名前は、アリスの長年のメンターであった、ドメーヌ・ダンピエの女帝、リュシー・ルル・ペイローから取っている。リュシーは、フランスの家庭料理研究家としても知られ、プロヴァンスのシンプルな料理法にアリスは多くの影響を受けた。(なお、同レストランにランチに行ったが、ワインメニューにドメーヌ・ダンピエのワインがなかったのは、少し引っ掛かった。名前をいただいたのであればワインくらい置くのが当然のマナーなような気もするが。。笑)

頼んだプレフィックスのランチの一品がこちら。地元カリフォルニアの農家から一つ一つ仕入れているであろう野菜とフルーツを楽しめる。

LA発の運動

1973年、ロサンゼルスにMa Maison(マ・メゾン)というレストランがオープンする。そこに、モナコやパリでフレンチの修行を終えてアメリカにやってきたオーストリア人のWolfgang Puckがやってきて、シェフを務める。そこで、彼は地元農家の食材を使った料理を提供し始める。

その後、彼がMa Maisonを離れて、1982年に開いた店がSpagoであった。Chez Panisseに影響を受けつつ、セリブリティ御用達のレストランとしての名声を受けて、多くの関連レストランをオープンさせていった。

Spagoでいただいた前菜がこちら。フレンチだけでなく、イタリアン、タイ料理、日本料理フュージョンのものも散見されて、面白いレストランであったが、そこまでFarm to tableの理念が強調されている感じは抱かなかった。

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