好きな気持ちがつぶされる日本のユーススポーツ
「面白そう、やってみたい。」野球との出会いはこんな純粋な言葉だった。
のんびり屋で運動神経も特に良かったわけではない。かけっこではいつも、ぺけから数えて二番目。
でも、そう言った時、息子の目は間違いなくキラキラしていた。
そして小学校3年のある夏、地元のスポ少クラブに入団することになる。
息子は案の定というべきか、下手だった。
ゴロの捕球もままならない。それでもあいかわらず瞳はキラキラしたまま。
新しい世界に好奇心いっぱい、楽しくて仕方がないようだった。
高学年になるにつれ、自宅でも素振りをやり、暗くなるまでゴロ、フライの捕球練習をした。
悲しいことに努力家だったのだ。
でも、試合には出られなかった。自分以外の全ての同級生部員5名+下級生4名でどんな試合も進められた。
あまりにも育成とかけ離れた精神論
「ベンチでできることをしろ」「一員として当事者の気持ちになれ」
小学生の子どもにこんな精神力を要求される異常な世界。
ユース世代のスポーツにおいて、教育、スポーツ、どちらの観点からみても不適切であることは明らかだ。
息子は中学に入り、試合経験がないまま、それでも好きな野球がやりたくて野球部に入った。
クラブチームでも私立の強豪校でもない、公立中学の野球部である。
聞くところによると、日本では誰でも平等に教育を受ける権利があるらしい。
それを証拠に、クラスでどんなに授業中に騒いで妨害する子がいても、教室から出されることは皆無だ。
どんな子にも等しく教育の機会を与えるのが公立学校の役割ということになっている。
であれば。
部活動が教育の一環であるならば。
そこには、みんな等しく試合の臨場感を当事者として経験し、技術を精神を向上させる権利があるはずだ。
薄っぺらい勝利至上主義
しかし、公立中学の部活動は今や勝利至上主義となってしまっている。
息子はまだ2年生だが、3年生をベンチに置き、うまい2年生を出すという薄っぺらい指導が蔓延している。
「野球が好き」「やってみたい」この純粋な、恐らくあらゆるスポーツにとって一番尊く純粋な気持ちを、昇華させてくれる場所はどこにもない。これまでも、これからも。
上手い順に並べて、前から順番に数えて9人を選ぶだけなら指導者はいらないだろう。もちろん野球に限らずどんなスポーツにおいてもだ。
ユース世代において試合は報酬である。
勝った、負けたの嬉しさ悔しさ、
仲間との連携、練習の成果を発揮する場があってこそ日々の練習に励めるのだろう。
その報酬もなしに、練習だけやれというのは虐待である。
教師が無給で働き、報酬?教育という崇高な場において何を言っとるかきさま!それより優秀な教師を心から応援せんか!
そう言われてモチベーションが保てるのなら、それはもう人間ではなく、仏である。
でも日本のユース世代には、この悟りきった仏の精神が当たり前に要求されるのだ。
くどいようだが小学生、中学生である。
野球って人生の便利ツールか何か?
と、ここまで言うと、
「試合に出られなくても一生懸命努力したことは無駄にはならない」
「社会に出てからその精神が役に立つ」
という人間が必ず湧く。
このことについての違和感をなかなか言語化できずにいたのだが、先日ある記事にこんな言葉を見つけた。
「そういう人たちにとって野球は世渡りの道具だったのか」
これなのだ。
野球が好き、やってみたい、試合を楽しみたい。この気持ちでスポーツをしている人間にとって
「今の苦しみは社会に出てから役に立つ」これほど的ハズレな言葉があるだろうか。
野球人口の減少が嘆かれて久しいが、私に言わせれば当たり前だ。
補欠やベンチで野球人生を終える人が、野球の本当の楽しさを知らない人が、将来自分の子供に「野球はいいぞお〜」と言うとでも思うのだろうか。
どこまでお花畑だ。
ユース世代、特に義務教育下での育成責任
息子は高校で野球を辞めるそうだ。才能がないから、というのがその理由。
才能がなければいくら好きでも続けることができない。好きの気持ちはどこにも消化されず、くすぶったまま。
ユース世代、特に公立学校の部活動における使命はなにか。
スポーツに親しみ、その競技を愛し、どんな形であれ生涯そのスポーツに関わっていく、
選手を育てるのではなく、人間を育てているのだと、ぜひ全ての教師や指導者に自覚してもらいたい。
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