野球をやれない子どもたち
「野球がやりたい!」と言う子がいたら、それは「野球の練習がやりたい」という意味じゃない。
当然「野球=試合がやりたい」のだ。
野球がやりたい、でもやらせない大人
子供の好奇心、求める力、探究心を阻害する大人は毒であるとは誰もが知っている。
子供には自分を表現して、周囲に認めてもらったり褒めてもらうことが大切だということも、ほとんどの大人は知っているだろう。
子供たちが野球を始める入り口には「野球がやりたい」がある。
しかし、野球ができるのは一部の子供だけ。
生まれて数年しか経っていないのに、可能性も無限大であるのに、その時点での「実力」で選別され、
その時「勝てる」メンバーが組まれる。
ベンチにいて試合経験がなければ上達も遅く、とっさの判断力もつかない。差は開く一方だ。
練習試合でやっと代打の1打席あるかないか、という子供などが追いつけるわけがない。
ゆえに、ずっとベンチで試合経験が積めない子供の一丁上がり。
無限地獄の始まりだ。
「野球がやりたい」という、最も大切な、最も純粋な気持ちが叶えられることは永久に、ない。
この経験から、子供は一体何を学べばいいのだろう。
大人はこんな状況が作られていても、子供に対して謝罪もなく罪の意識もない。
親でさえ「お前がもっと練習しないから!」などと追い詰める人さえいる。
本来、野球をやらせてあげられない環境であることを、大人が謝らなければならないだろう。
チーム意識の希薄さはどこから来る?
ベンチにいる子はずっとベンチという図式が、チーム意識の希薄さを生んでいることにアホな指導者は気が付かない。
目の前の勝利に目がくらんでいるからだ。
ずっとベンチで対外試合に出ない子は、試合経験といえば紅白戦しかない。
チームとしての仲間意識?小中学生の子どもの心にどこまで付け入るつもりだよ。
まして、小中学生の場合、
試合経験により技術が上達するのだから、試合に出られなければ差は開く一方である。
練習をがんばってもがんばっても、実践にはかなわない。それは成長期であるがゆえだ。
ならばこう思うのが自然だろう。
「あいつ、ケガしねえかな。」
だって保護者もそう思うもの。異論は公式試合に何年間も一度も出たことのない人にのみ認めよう。
あまりにも恐ろしいので息子に確認したことはないが、チームメイトのケガや病気を願ってもなんの不思議もない。
チームとして一体に…
ベンチだって大切な役目…
これは大人が勝ちたいために、もっともらしいことを言って子供の反論を防ぐ嫌らしい言い訳だ。
勝っていい気持ちになりたいのは大人なのだから。
子供に求めるもの
うちの息子はたった同じ学年でたった一人ずっとベンチだった。補欠でさえなかった。
補欠は下の学年だった。野球のキャリアは一番長かったからよほど見込みがないと思われたのだろう。
たしかに運動神経がいいとは言えなかったし、気の弱いところもあるが、真面目で優しい問題のない児童である。
それでも諦めることなく、学校が終わって練習のない日は、来る日も来る日も自主練していた。
そして言われたことがある。
「あいつはチームの一員としての自覚が足りない」
小学5年生のときだった。
これが、子供の野球の現状。今思い出しても、どう考えても適切ではない。
これが子供に求めるものとしてまかり通っている異常な世界だ。
小学生の時代、とうとう最後まで息子の「野球がやりたい!」が叶えられることはなかった。
才能がなければ楽しむことは許されない
考えてほしい。
我が子がお絵描きをしている。
世界観はめちゃくちゃで、色使いは好き勝手。人物の目も鼻も位置がずれている。
親としては苦笑いしながら「絵の才能はなさそうだな〜」と感じる場面。
しかし、本人がいたって楽しそうに描いていたとして、それをヘタだからと禁じる大人がいるだろうか。
「書く前に、もっと美術館などに行き、巨匠の描いた大作を鑑賞して精神を磨き、日々精進しなさい」
などという親がいるだろうか。
子供にとって野球は遊びの延長だ。決して技術の向上のために鍛錬するものなどではない。
遊んでいいやつと見てるだけのやつを分けて、見ているだけのやつにも遊んでいるやつと同じ気持ちになれとは、
何という無理難題なのか。
中学生にしても同じだ。野球は学びの一環であるはずだ。
アスリートとして野球をやりたい子は然るべき場所でやる。
きちんと住み分けができているはずなのに、部活までが勝利至上主義なのである。
楽しい土台があるからこそ、苦しい練習も耐えられ、チームメイトへの気遣いも生まれ、よりうまくなって、より楽しさや充実感を味わいたくなる。
これがスポーツの本質ではないのか?
かくして、またしてもベンチはベンチ。ずーっとずーっとベンチなのである。
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