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小説・カーネーション

 薬局にあった古い少女漫画を読んで吐きそうになっていると、薬剤師に名前を呼ばれた。こみ上げてきた胃の中身を飲み込み、席を立つ。本棚に漫画を仕舞って会計に向かった。

 会計担当の薬剤師は綺麗な女性だった。ポニーテールには美よりも可愛らしい印象をもっていたのだが、人によって差があるらしい。

「吸った愛の刺激を抑える薬、入れておきますからね」

 彼女のメイクは以前見た時よりも丁寧に施されていた。この薬を僕に処方した後、恋人とどこかへ出かけるのだろうか。あるいは、単にメイクの腕が上がっただけかもしれない。どちらにせよ、美人がこの薬の会計を担当するとは皮肉な話だった。できれば目の前の薬を受け取りたくない。薬剤師の顔を見つめていると、彼女は薬の入った小さな紙袋を指先でちょんと突いて、「成田さん、大丈夫ですか?」と首を傾げた。考えるあまり上の空になっていたようだ。

「すみません」

「いえ、別に謝らなくて大丈夫ですよ。お会計三千円です」

 僕は財布の中から千円札を三枚取り出した。

「三千円ちょうど、お預かりします」

 数秒後、レシートと薬を手渡された。僕は礼を言って薬局を出た。外は消えかけの灯のような弱い熱をもっていた。蝉は遠くで愛を求めている。白いワンピースの少女の一人でも現れてくれたら冒険気分になれるのだが、現実にそんな話は無い。僕はオレンジ色の空を睨んで歩き出した。

 誰かの痴話喧嘩が起きていることを期待して駅に立ち寄った。この時間なら一組ぐらいいるだろうと改札に目を凝らし、別れそうなカップルが来るのを待ち続けた。
 待てど暮らせど現れるのは洒落た若者の集団ばかりだ。皆似た服装で、髪型もセンター分けに一辺倒だ。若者のトレンドなのかもしれない。だからと言って皆が流行に乗るのはいかがなものかと思ったが、夕方に別れ際のカップルを探すジャージ男よりは遥かにマシだった。自己嫌悪に陥った僕は、沈む夕日のようにやる気を失くしてしまった。

 植え込みから腰を上げる。ロータリーに続く階段を降りきったところで、懐かしい顔とすれ違った。

灯寄ひより?」

 僕は反射的に振り返り、ショートヘアの彼女の肩を掴んだ。彼女は小さく悲鳴を上げた直後、僕を振り返り、顔を綻ばせた。

きょうくん、久しぶり。後で会いに行こうと思っていたから、丁度よかった」

 彼女はまさしく上波灯寄だった。僕と彼女は幼馴染同士だが、高校卒業後は離れ離れになったため、二度と会うことは無いと思っていた。久しぶりの再会に胸が高鳴る。悔しいが、薬局で読んだ少女漫画の主人公の気持ちを今なら理解できる。

「誰?」

 彼女の横を歩いていた男は僕のことを露骨に不審がった。

「幼馴染の京くんだよ」

 灯寄が言うと、彼は目を瞬かせて、「灯寄がたまに話してくれるあの人?」と質問した。灯寄が頷く。

 僕は彼らに嫌悪感を覚えた。何故なのかはわからないけれど、嫌な予感が纏わりついて離れてくれない。まるで蒸し暑い部屋の中にいるみたいだ。僕は冷房のスイッチに触れるように、彼らの関係を尋ねた。

「彼氏だよ。大学で知り合ったの」

 灯寄が何でもないみたいに言う。僕にとっては何でもなくなかった。冷房の電源は入らなかった。激しい眩暈に襲われた。視界を陽炎のような波が埋め尽くす。五秒後には立っていられなくなり、その場で四つん這いになって嗚咽を漏らした。

「京くん、大丈夫?」

 涙で滲む視界の中で灯寄の顔が揺れている。見つめているうちに涙は引き、体調も安定してきた。

「京くん、水、いる?」

 灯寄がペットボトルを差し出してきた。僕は彼女の彼氏を睨みつけた。彼とばっちり目が合う。「水、受け取らないのか」

「もう二度と、僕の前に現れないでくれ」

 僕は半ば奪うような動作でペットボトルを受け取って立ち上がり、踵を返した。群衆の間を駆け抜けた。初夏の温度が風をきって弾けていく。並び立つ建物が流れ星のように過ぎ去る。願ったら、灯寄とあの彼を別れさせられるだろうか。

 次第に足がもつれ、速度は弱まり、僕は公園の前で立ち止まった。膝に手をつく。こんなに長く走ったのは高校時代の持久走以来だ、と思い出したところで、灯寄が走り終えた僕にペットボトルを手渡してくれた当時の記憶がフラッシュバックした。あの頃の幸せなんて、思い出すだけ辛くなるだけだ。吐き気を催し、公衆トイレの中に駆け込む。個室トイレのカギも締めずに、情けない体勢で便器の中に吐いた。今回の分を出し切ると、僕は薬を袋から取り出した。灯寄と出会う前に服用しておくべきだったと後悔した。

 一週間分の錠剤を口に含み、ペットボトルの水で流し込む。薬もペットボトルも空になった。

 数分後、高揚感と激しい頭痛が僕を襲った。僕は壁に凭れ掛かり、荒い呼吸を繰り返す。薬を一気に飲んだことによる体調不良だ。オーバードーズというらしい。
 頭痛は次第に鳴りを潜めた。代わりに、再び吐き気が襲ってきた。僕は縋りつくように便器に手をかけて、滝のように吐いた。

  *

 体調が落ち着いて外に出た時には橙色の空は黒色に変わっていた。暗闇の上で月と星々が生活しているが、そのほとんどは街の光に掻き消されて見えなかった。彼らは明るい街から目を逸らすように夜空というカーテンを閉めきり、誰にも視認されない。それは悲しいことであると同時に、救いでもあるように思える。もしも本当に救われるのなら、僕は大学生活を投げ打って引きこもる。そうすれば街を行く知らない恋人同士を見ては愛を受動喫煙することも無くなる。引きこもりのような、社会に適合していない生活が僕には合っている。

 でも、結局、生きていくために大学に通って、卒業して、普通に就職するのだろう。しかし、そこで灯寄を超える女の子に出会えるとは到底思えないし、三十代ぐらいで人生を諦める気もする。僕の弱い人生計画には、生きるか自殺かの二択しか残されていなかった。

 園内に自動販売機を見つけた。彼はまるで、僕の味方みたいだ。昼間は陽気な空と騒音に耐えて、夜になると孤独な人間の足元を照らしてくれる。きっと自動販売機は優しい。

 夕方来たときはその存在に気づけなかった自販機から水を買い、一口飲んだ。液体であれ、胃の中に物を入れるのは怖かったが、喉の渇きには勝てなかった。

 歩き疲れた足でドラッグストアに赴いた。病院も薬局も閉まっていたから、僕の命綱はここしかなかった。入店早々、一組の若い男女を見かけて吐き気を催した。

 愛の受動喫煙なんて存在しないと思いたいけれど、僕の他に同じ症状に悩まされている人間がいる事実は、データとして確かに存在している。

 けど、そんな事実は心を軽くしてはくれない。知らないどこかの誰かが自分と同じ病気にかかっていることなんて、どうでもよい。その人と直接話し、痛みを共有してみないことには、その人らをただのデータ上の文字列として見ることしかできない。

「すみません」

 僕は若い男性店員に話しかけた。彼は品出しの手を止めて、返事をくれた。

「この薬、もらえたりしませんか?」

 僕は数時間前にもらった薬の袋を見せた。表面には『嫌艶家けんえんかのための薬』と書かれている。嫌艶家とは、僕のように他人の愛を吸い込んで体調を悪くする人間のことを指す造語だ。数年前にSNSで流行り、いつしか日常的に人々の間で使われるようになった。嫌艶家の存在は受け入れられつつあるが、数は少ない。だから、共感してくれる人間はそう簡単に見つかるものではない。

「処方箋はお持ちですか?」

 僕は首を振った。

 店員は難しい顔をして、顎に指を当て、最終的に首をひねった。

「処方箋が無いことにはちょっと……申し訳ございません」

 店員は小さく頭を下げて、品出しを再開した。

 僕はむかむかする胸を押さえながら礼を言い、店外に出た。誘蛾灯に虫が群がっている。彼らにとって、明かりは薬みたいなものなのかもしれない。しかし、処方箋いらずだから効力にはあまり期待できない。

 胸のムカつきは次第に高まっていき、とうとう抑えられなくなった。まるで脳みそが心臓に乗っ取られてしまったみたいに、僕の体は意思に反してドラッグストアのほうへと走り始めた。

「君、落としたよ」

 入口ドアの前で呼び止められた。僕は我に返ったように一息吹いてから振り向いた。そこには女性が佇んでいた。

 彼女も、彼女の横を通過していく人間も、走っていない。ドラッグストアに駆け込もうとしている奴なんて僕だけだった。その事実が僕の頭を急速に冷やしていった。

「もしかして、あなたのじゃなかった?」

 女性は右手に持っている財布を胸の前に掲げて、首を傾げた。冷静な状態からいつの間にか放心状態に移っていた僕は、一度瞬きをして、その財布が自分のものであることを告げた。 

 礼を言い、財布を受け取る。踵を返そうとしたその時、僕の頭を良くない思惑が過った。 

「あの……処方箋」

「はい?」

 女性はきょとんとした。

「愛の刺激を抑える薬の処方箋、持っていませんか? いえ、なんなら、買ったものを少し分けてくれるだけで良いんです。もしもこれから買う予定あったら……」

 女性は冗談だと思ったのか、噴き出した。

「初対面に冗談は良くないよ。また病院で診てもらって——」

「本気です。もう、あれが無いとやってられないんです」

 僕の言い分に女性は呆れたようだ。バッグからペットボトルの水を取り出し、僕に押し付けてきた。「水飲んで、冷静になって。私の薬を分けてあげることはできない」

 女性は早足で店内に入って行ってしまった。

 幸い、入り口前に人はいなかった。僕を咎めたのは女性の冷たい眼差しだけだった。

 どこへ行く気にもなれなくて、店内に併設されている薬局の前にあるベンチに腰を下ろし、水に口をつけた。桃味だ。ストレスのせいで薬ばかり口にしていたため、久々に舌に乗った健康的な甘みに全身が弛緩した。家のベッドで寝ているかのような心地よさが僕の体を包み込む。

 瞼を閉じてからしばらくすると、意識が世界から遠のいた。

  *

 幼馴染である上波灯寄と初対面した場所は幼稚園と記憶している。昔の僕は今みたいに他人を妬むことも無かったし、根暗でも無かったから、友人の一人や二人は入園初日には既にできていた。

 しかし、灯寄と仲良くなったのはそれから半年ほど経った初夏の頃だ。一体どこで知り合ったのか、お互いの親同士は二人で出かけるほどの仲にまでなっていたらしく、僕らは二人が計画した家族交流会で初めて言葉を交わした。

「京くんに、ずっと言いたかったことがあるの」

 リビングルームで一人積み木に興じていると、灯寄が近寄って来た。

「何?」

 彼女の顔を間近で見た時、僕は胸を射抜かれてしまった。返事をしたはいいものの、顔が上気して彼女の台詞をまともに咀嚼することができなかった。

「聞いてる?」

 僕は平静を装って頷いた。

「じゃあ、よろしくね」

 と、灯寄がいきなり手を握ってきたため、僕は何が何やら訳が分からなくなった。

「えっと……」

 困り顔で続きを待った。

「京くんはイケメンだから、私の彼氏になったの」

 僕が話を聞いていなかったのを見抜いたのか、そう言った後、彼女は事の成り行きを説明してくれた。

 僕はこの思い出を信じて止まなかった。中学生になっても僕らの関係は続いていたし、大学でも当たり前に付き合い続けるとばかり思っていた。だから彼女の新しい彼氏を見た時、僕は憎悪と自己嫌悪に襲われた。僕の考えの浅ましさを思い知らされた。

 大学に進学してからというもの、彼女が連絡を寄こしてくることは無かったから、僕らの恋人同士の関係は自然消滅したのだと薄々勘づいていたが、再会すれば寄りを戻せると思っていた。つまり、数時間前までの僕は非常に浅はかな思考で生活していたということだ。

 実際は、寄りが戻らないところまで僕らは離れてしまっていたのに。

  *

 目を覚ました時、隣に人の気配を感じた。正面から見るのを恐れた僕は横目に見た。

 いたのは、財布を拾ってくれた女性だった。

「さっきの……」

「起きた?」

「どうして、こんなところに? 早く帰ったほうが」

 僕がそう言うと、彼女は苦笑した。

「さっきは突き放しちゃったけど、ここで君を見つけてちょっと嬉しくなったんだ」

「嬉しい?」

 僕が怪訝そうに尋ねると、女性は「ご、誤解しないでよ」と両手を振った。

「君と同じ、私も嫌艶家なの。でも、嫌艶家は職場に私しかいなくて寂しいんだ」

 彼女は自嘲気味に言った。

「患者の数は少ないですからね。増えてほしいとも思いませんが」

「ね」

 彼女は短く返事をすると、スマホの画面を見せてきた。「ところでさ、これ、さっきの君に似てない?」 

 それは動画だった。彼女本人かどうかは定かではないが、女性が悲痛な叫び声を上げて中年男性に泣きついている動画だ。

「そんなに僕と似ていますか?」

「状況はね。これは、私の嫌艶状態が一番悪かった時の動画なんだ。この男の人は私の父で、動画を撮ったのは母。父に泣きついているのが私。薬をバカみたいに使ってお金が無くなったところだね。母はこれを戒めとして撮ったみたい」

 僕もあと一歩間違えていたら、両親に迷惑をかけていたかもしれない。僕は目を伏せた。

「……だから、本来、私も君のことを悪く言える立場じゃないんだ。さっきは突き放しちゃってごめんね」

 女性は小さくお辞儀した。

「いえ、謝らなくていいですよ。両親を頼ったあなたのほうが、僕より何倍も賢明です。僕は見知らぬあなたに声をかけて、迷惑までかけてしまった。でも、もう大丈夫です。ありがとうございます」

 僕は立ち上がった。

「もう帰っちゃうの?」

「今日は体調悪いし」

 僕は数時間前に吐いたのを思い出した。女性と至近距離で話したが、臭わなかっただろうか。

「また、会える?」

 彼女の口からその言葉が出たのは予想外だった。僕は二度と会わないとばかり思っていたから。

「あなたが良いなら、いつでも」

 僕がそう返すと、彼女はスマホを操作して、嬉しそうに画面を見せてきた。映っているのは連絡先だ。僕は画面に表示されたQRコードを読み取り、彼女の連絡先を入手した。名前は久乃ひさのというらしい。

成田なりた君、アカウント名フルネームなんだ! 地味だね」

 久乃さんは噴き出した。ひとしきり笑うと立ち上がり、「じゃあ、来週にでも会おうよ」と一方的に約束を取り付けて去っていった。

  *

 灯寄の横にいたあの男のことを、僕は彼女の友人だと思い込んでいた。普段なら男女の組み合わせを見るだけで吐き気がするのに、灯寄とあの男を見てもすぐにそうならなかったのは、ひとえに僕が彼女の全てを愛し、彼女の全てを信じていたからだと思う。ロマンチストも僕ぐらいになると、もはや滑稽だ。僕はベッドに寝転がって久乃さんのプロフィールを意味もなく眺めながら自己嫌悪した。それは一種の自慰行為なのかもしれない。

 そう思い始めると別の嫌悪感が湧き出したので、僕はベッドから起き上がって身支度を整え、大学に向かった。一夜明けても、昨夜の生ぬるい風は日本を漂っていた。あるいはそんな気がしただけかもしれない。

 灯寄が脳裏を何度も過り、胃の中が暴れ出す。僕は近くの公衆トイレで吐いた。桃の味がした。

 結局三限には間に合わなかった。今日の三限の教授は少しの遅刻も許さない。完全に行く気を失った僕は、久乃さんに電話をかけてみた。平日だから期待はしていない。むしろ、電話に出てくれないほうが助かる。特に言いたいこともないのに、社会人に電話をかけているのだから。

「成田君?」

 電話越しに久乃さんの声が聞こえた。

「ねえ、ちょっと聞こえてる? 今仕事中だから要件は早めに」

 僕が黙っていると、久乃さんの声は僅かな電流を纏った。怒らせてしまっては元も子もないので、謝罪を一つして、続けた。「吐いたんです」

「薬はあげないよ」

 彼女は間髪入れずに返す。

「わかっています。ごめんなさい。人の声が聴きたかっただけなんです」

 久乃さんは画面の向こう側で沈黙した。知り合って二日にも満たない彼女との距離感を測り損ねたかもしれない。居心地の悪い間では何も考えられず、謝ることしかできなかった。

「ごめんなさい、変なこと言って」

「いや、別に怒ってるわけじゃなくてさ。夜どこ行こうかなあって考えていただけ」
 彼女はそう言い残し、通話を切った。

 電話のタブを消去して、スマホをポケットの中に仕舞う。

「京くん?」

 呼び声が聞こえた。手元から顔を上げると、気まずそうに眉を寄せた灯寄がいた。
 先ほどトイレでうがいをしたが、念のため、ペットボトルの水を一口含んだ。

「……その、ごめん」

 彼女は申し訳なさそうに言った。

「積もる話はいっぱいあるんだ。もしも京くんが良いなら、少し歩かない?」

 僕は無言で頷いた。どちらからともなく歩き出す。

 舗装された道路に街路樹の木の葉が影を作っていた。僕らは日差しから逃れるように並木通りに入った。

 歩きながら小さな声で呟く。「僕は別に、怒っていないよ」

「わざわざ気を遣わなくていいよ。幼馴染だし」

「本当に怒っていないんだ。ただ、その、僕が全部悪いんだよ。『二度と現れるな』なんてひどいことも言ってしまったし」

 灯寄は「気にしていないよ」と微笑む。

「僕だけ、変われていないんだ。僕はずっと、灯寄の彼氏でいるつもりだったんだ」

 僕は溢れそうになった涙を押し殺した。

 灯寄がそっと手を握ってくれた。何年振りかはわからないけれど、その春のような温度だけはいつか感じたものと同じだ。

「灯寄、僕のことはまだ好き?」

 彼女は小さく首を振った。余命宣告を受けた患者のように悲愴な表情だった。
 灯寄は手を離した。彼女の手のひらの温度が木陰といっしょに揺らいだ。

 彼女は僕の目の前に立ちはだかった。僕は足を止めて、彼女の言葉を待つ。彼女は小さく口を開いては閉じるのを繰り返し、約二分後、ようやく言葉を発した。「私も、京くんを悲しませたくなかった。京くんのことが好きなままでいたかったよ」

 悲しませたくないから好きでい続けたいなんて気持ちは傲慢だ。そんな言葉で慰められるぐらいなら、僕は、孤独に積み木で遊んでいたほうが良かった。

「愛と悲しみは結びつけるべきじゃないよ」

 僕は微笑む。内心、錆びたくぎを刺されたように苦しかった。

「心から好きな人を愛しているのに悲しんでいる君のほうがとても悲しいと思う。だから、僕を悲しませたとしても誰かを愛すことを罪だと思わないでくれ。僕のためじゃなくて愛のために、誰かを愛してほしい」

 傲慢な幼馴染を、僕は嫌いになれなかった。彼女なりに誠実に考えた結果があの台詞なら、僕に文句をつけられる筋合いは無いと思ったから。

  *

 灯寄は今日の晩には大学のある県に戻らねばならないらしく、空の色が変わる前に別れた。僕の側は最後まで何一つとして救われなかったが、彼女の中にあった誠実でいて不誠実な後ろめたさが解消されたのなら良かったと思う。

「なるほど、それで嫌艶家に……でもまあ、喧嘩にはならなくて良かったじゃん」

 灯寄と別れた後、久乃さんのほうから夕食に誘ってくれた。彼女は白のシャツに薄黄色のロングスカートという出で立ちで、黒のショートヘアがよく似合っていた。昨夜出会った時はまるで気づかなかったが、僕は、相当な美人と知り合いになったらしい。恋愛感情は湧かないが、有名人と会った時に覚えるような高揚感と緊張感の入り混じった感情が、僕の一挙手一投足をぎこちなくさせた。

「仕方ないですよね。灯寄はたぶん、今の彼氏と出会ってから変わってしまったんですから」

 僕は目の前の唐揚げに目を落とす。鶏同士が愛し合った末に生まれた鶏を揚げた料理だと思うと、妙に食欲が失せた。

「一途で可愛いね」

 久乃さんは頬杖を突き、恍惚とした眼差しを僕に向けてくる。

「酔い過ぎでは?」

 僕は彼女の前に並んだジョッキを一瞥した。二本飲んだだけでこんななのに、何故飲もうと思ったのだろうか。

「可愛いと思ったのは本当だよ?」

 彼女はいたずらっぽく微笑んだ。さすがの僕もそれに文句をつけられるほど強い男ではなかったので、変な気を起こす前に唐揚げに口をつけた。僕は未成年なので、酒で気を紛らわす選択肢は取れなかった。

「久乃さん、一つ訊いてもいいですか?」

「何?」

 話題が変な方向へシフトする前に(あるいは手遅れかもしれないが)僕は尋ねた。「久乃さんはどうして嫌艶家になってしまったんですか?」

 久乃さんは考えるように目を伏せた。数秒後、顔を上げて語り始めた。

「私、数か月前までは彼氏がいたの。彼はちゃんと働いていたし、優しかったけど、少し金遣いが荒い人だった。毎月私が足りない分を貸していたんだけど、ある日ふとしたことがきっかけで友達にそのことがバレて、怒られちゃったんだ。『そんな彼氏とは別れたほうがいい』って。でも、私は彼のことを愛していたから別れられなかった。
 三年ぐらい付き合ったある日、彼は私の生活費に手を出した。でも、当時の私は本当に馬鹿で、別れられなかった。私はまだ彼を愛していたんだ。『やめて』って言った日はお金を取られないし、殴ってきたことは一度も無かった。そこまで生活に不自由していなかったのも別れられなかった理由の一つだと思う」

 彼女はそこで言葉を区切り、店員が運んできたビールを一口飲んだ。

「で、彼氏のことを怒った友達が今度は私自身を叱ってきた。その子が本人に怒ったのはあの時が初めてだったから、私は『自分が思っている以上に彼氏はやばいんだ』って気づいた。何もかも、愛のせいだよ。愛は幻覚を見せるんだ。視覚フィルターなんて生易しいものじゃない。それから私は愛が怖くなって、気づいたら高い薬のために毎週お金を払わなきゃいけなくなった。皮肉な話だよ、結局彼氏のせいで無駄金を支払っているんだから」

 前野さんは、「で、家賃も割とやばい」と力なく笑った。

「じゃあ、今、彼氏は」

「はい、この話は終わり」

 久乃さんは僕の言葉を遮るように手を叩いた。

「人のプライベートを気軽に訊くのはマナー違反です」

 彼女は指を交差させ、バツの形を作った。

「さっきの話は人に喋ってもよかったんですか?」

「あれはプライベートじゃなくてただの記憶」

「はあ」

 完全に酔ってしまった久乃さんにあれこれ言う気力はとっくに失せていた。僕らは他愛も無い話をだらだらと繰り返し、店を出た。

  *

 アルコールが回った頭に蒸し暑い外気がとどめを刺したのか、久乃さんは外に出るなりその場で崩れるように座り込んだ。

「ねえ、京」

「酔ってますね」

「うん。手、繋ご? 一人じゃ歩けない」

 酔いがさめた後で理不尽に怒られる可能性を危惧しつつ、彼女の手をとった。ゆっくりと立ち上がらせて、駅まで歩き始めた。

「久乃さんの愛が、ちょっと羨ましいです」

 彼女はしなるような声で「どうして?」と言った。

「相手に何をされても好きって、裏を返せば、親を殺されでもしない限りはずっと好きでいられるってことだと思うんですよ」

「まあ、たしかに一途でいられるかもね。実際、別れたけど彼のことはまだ好きだし」

 久乃さんはそう言うと、何かを思い出したようにニヤリと笑った。

「灯寄ちゃんが私みたいだったらって思ったでしょ?」

「それが何か?」

「だんだん私の扱いに慣れてきたな? たった二日でつまんなくなったね、京」

 僕は彼女を無視して歩き続けた。それ以降の会話は無く、僕らは切符を買って三番線のホームで電車を待った。駅構内はまるで蝉の鳴き声のように騒がしい。皆の声は街のスピーカーが発する粗い音のようで、内容までは聞き取れなかった。

「ありがとう」

 無言でいると、久乃さんが唐突に口を開いた。

「何がですか?」

「変わらないでいてくれたことだよ。京がもしも変わっていたら、きっと私たちは出会っていなかった。苦しい病気と一人で向き合うしかなかったんだ。だから、ありがと」

 それは僕も同じだ。久乃さんがもしも変わっていたら、僕らは出会っていなかった。昨夜、ドラッグストアに行くことすらなかっただろう。

「けど、いつかは変わりたいですね。今自分が抱えている愛の性質が嫌いなら、頑張るしかないと思います」

 列車が到着した。人が波のように降りる。永遠にも感じられた他人の下車が終わると、久乃さんは一人で乗り込んだ。もう手を繋がなくても大丈夫になったようで、安堵した。

「あれ、京君は乗らないの?」

 久乃さんが車内から声をかけてきた。

「僕は着いて来ただけなので」

「えー、私の家来なよ」

「それはもう少し仲良くなってからですね」

 久乃さんは「じゃあ、まずは敬語やめようよ」と提案した。僕も敬語は好きではないので、快く受け入れた。

「おやすみ。また明日ね。いや、明日は忙しいから会えるかわかんないけど!」
「僕はいつでも会えますよ。おやすみなさい、久乃さん」

 やがてドアが閉まり、列車は行ってしまった。僕は改札のほうへ踵を返す。改札周りは男女の組でごった返していた。

 相変わらず吐き気からは解放されていないが、心なしか普段よりも症状は軽い。僕は足元を照らしてくれる彼から水を買い、帰路についた。

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