《備忘録》福祉などについての対話

 2024年3月14日、SKさんとの対話より。〔誤解のないように断っておくと、これはあくまで私が再構成した内容であって、以下のような内容が実際に話されたわけではない。〕

 川喜田二郎の「KJ法」は、もともと野外科学の方法として開発された。野外科学とは、ありのままの現実から出発する科学である。

 文献から出発する書斎科学は中世からすでに遂行され、仮説から出発する実験科学は近代になって急速に発展した。しかし、書斎科学も実験科学も、我々が「現実」として経験するような事態を解き明かしてはくれない。この世界は原子でできているという説明は、たとえそれが正しかったとしても、経営戦略を考える会議ではまったく役に立たないのである。

 しかし、現実から出発してものを考えることは、それほど簡単ではない。我々は、いともたやすく非現実的な仮定を自明視して、現実を非現実的に考えてしまう。

 これは経営学や社会学の悪癖なのだけれど、研究者は「人間」という概念を安易に用いがちである。ここでは、男性や女性といったジェンダー要因とと、若年者や壮年者といった年齢要因が軽視される。すなわち、50歳の男性と20歳の女性が、それぞれに置き換え可能な「人間」として扱われ、ジェンダーや年齢はただのラベルであるかのように操作される。

 背景にあるのは、「格差」や「差別」へのアレルギー的な嫌悪感だろう。経営学においては男女雇用機会均等法が、社会学においてはフェミニズムが、それぞれジェンダーを「質的な違い」として論じることを難しくさせている。ジェンダーを扱う論文のほとんどは男女間の「格差」に注目するけれど、それは男性も女性もほんとうは同じ「人間」だという暗黙の仮説に基づいている。しかし、「人間」という虚像こそが抑圧と非効率の原因になってはいないだろうか。〔もちろん、年齢も人間の「質的な違い」を生み出すが、文章が長くなるので割愛する。〕

 さて、ようやく対話の内容に到達した。SKさんは、いとも簡単に「人間」という仮説を壊してみせる。彼は、組織の性格が、そのメンバーの男女比と平均年齢に大きく左右されることを見抜いていた。彼自身の経験は、組織が「人間」という抽象物の集合体ではなく、それぞれのジェンダーや年齢を生きる個別具体的な人間の集合体であることを示していた。

 これこそが野外科学の手法である。現実を素直に見れば、ジェンダーも年齢も捨象した「人間」という概念は意味を失う。

 抽象的な「人間」に振り回される学問界の、なんと非科学的なことだろうか。名目的な「若手登用」や「男女平等」は、その施策が個別具体的な人間を見ていないかぎり、現場を混乱させるだけの独り相撲になってしまう。格差を解消するための施策が、さらなる不公平感を生み出す事例は枚挙にいとまがない。〔ジェンダー格差や年齢格差という概念は、比較性質を除けば差異がないことを前提としているが、果たしてそれは本当だろうか。〕

 それに対して、SKさんは彼自身の法則にもとづいて組織をマネジメントすることで、実際に成果を生み出している。現実から出発して現実に帰還する知的活動こそ、真に人間のための科学だろう。

 すでに秩序が確立した市場に新規参入するときには、既存企業のシェアを奪うことになる。これは〈殺す〉論理に他ならない。

 SKさんが経営するのは、福祉のベンチャーである。長い歴史と公的制度に規定された福祉業界において、新規に勢力を伸ばそうとすれば、望むと望まざるにかかわらず〈殺す〉論理を背負わざるを得ない。「本気で殺す気でやっている」というセリフは、彼が主体的に選びとった態度であると同時に、業界構造から押し付けられた態度でもあるのだ。

 〈殺す〉論理の重さは、いかにして支えられるのか。大日本帝国における「鬼畜米英」と「大東亜共栄圏」のスローガンは、なにより〈殺す〉論理を背負わされる最前線の兵士の精神を救うためのものだった。そう簡単に他者を殺せるほど、人間は強い存在ではない。

 SKさんの〈殺す〉論理を支えるのは、それよりも遥かに剛健な〈生かす〉論理だろう。社員を、顧客を、地域を、そして日本を、さらに豊かに〈生かす〉こと。「笑顔の追求と生活の質の向上」というスローガンが、経営理念として掲げられるだけでなく、現実に信じられ実践されていくことを通じてのみ、〈殺す〉論理は〈生かす〉論理に支えられることができる。〔ところで、「福祉」という事業は〈生かす〉ことそのものである。〕

 〈殺す〉論理を引き受けた人間は、それでも人間として生きるために〈生かす〉論理を現実化させていく。SKさんの会社は、その〈生かす〉論理が生きている限りにおいて、生命力を発揮するだろう。



2024/04/02 追記

 SKさんの会社を詳しく調査して分かったことは、〈生かす〉論理がほとんど死んでいることだった。〈生かす〉論理は現実化されず、ただ信仰されている。大日本帝国の皇軍兵士が「大東亜共栄圏」の理念にすがって自らの戦争協力を肯定したのと同じように、SKさんは〈生かす〉論理にすがって会社の現状から目を背けようと必死になっている。

SKさんの会社は、その〈生かす〉論理が生きている限りにおいて、生命力を発揮するだろう。

 本文で、このように述べておいた。この論理に従えば、〈生かす〉論理が死んでいる現状では、会社そのものが生命力を失うことになる。そして事実、そうなっていた。客観的にブラックと言える労働条件は、さまざまな思想によって覆い隠され、「ワーク・ライフ・インテグレーション」のスローガンのもとで「ワーク」が「ライフ」を収奪している。新入社員の定着率は大きく下がり、人材の確保が難しくなっていることが、会社の現状を端的に示している。

 SKさんはどうやら、社員教育を突破口にしようとしているようだ。社員が成長すれば現状が打開されるに違いない、という論理である。これは会社の現状を社員の能力不足に転嫁しているに過ぎない。しかし恐ろしいことに、この論理を否定することは難しい。なぜなら、人間教育には終わりがないからこそ、「教育が足りない」という診断はいつまでも真実であるかのように見えるからだ。

 組織というものは、それがある程度の規模を超えると、個々の人間のコントロールを超えて自律運動を始める。社長にとって、会社が自らの手を離れていくように見える。その過程で、社長のコントロール能力は失われていく。この事実を正面から受け止められない社長は、責任を社員たちに求める。「組織が独自の生命を持つ」という視点が欠けているため、社長である自分に責任がないときには、必然的に社員に責任があるはずだからである。

 この組織を再生するにはどうすればいいだろうか。組織の独自の生命力が問題を引き起こしているとしても、組織の生命を断ち切ることはできない。だとするならば、組織の生命を、今とは異なる方向に運動させるしか方法がない。すなわち、人間関係が物象化した形態を再流動化することである。



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