サト

わかりあえる入り口

サトが10歳のときに書いたものをまとめた「うわわ手帳と私のアスペルガー症候群」を読んだ。本のなかで自らの病気の特徴をちゃんと語っているので、決して「発達障害」や「コミュニケーション障害」として分類されるものではなく、むしろ個性、違う文化を生きている人と思えた。

いま、10歳のサトと話をしたいと思ったら、初めて会う外国の人と話をするようにデジタルな思考方法でYES・NOをはっきりいう。静かな部屋で、静かにゆっくりと話す。自らもっている感受性のグラデーションの振幅をできるだけ大きくして、サトがもつ感受性=例えば「急に音がしたら驚いてフリーズしてしまう」に合わせるようにする。新幹線トイレの「流すボタン」を押したときの音「シュー、シュポッ」に、びっくりしてフリーズしてしまう、ところまで増幅させる。

サトの個性は次のよう。(発達障害と呼ばれてはいるが・・)

・たくさんの視覚情報と聴覚情報が一度に入ってきてしまい、パニックになる。だからたくさん並んだのものから選ぶのは苦手。

・サトは、情報が入ってくる自らの入り口を絞る努力をしている。そのため、例えば自動販売機でものを買おうとするとS字型に順番にすべてのパッケージを読むことになる。一度に入ってくる情報を頭の中で整理する時間とエネルギーがとてもかかる。サトを理解しているお母さんがあらかじめ3つくらいに絞っておいてくれると、とても助かる。

・しかしだからこそサトの書く文章は、努力して整理したことを順番に丁寧に一つずつ書いていくのでわかりやすい。10歳の子が、これだけ自分のことを理解し、文章にできるのか、と感じる。

・普通の人が普通の声で会話してもその声が苦痛に思えるほど音に敏感。初めてのギター教室で、二つギターの音色が聞き分けられる、ホテルのスピーカーから流れる波の音と本物の違いが聞き分けられる、などむしろ鋭敏といっていいのだ。

・「急はだめ」。クシャミをするときは、ゆっくり机をたたいて合図してからクシャミしてほしい。

・「ちょっと」「すぐ」という表現はわからないだけでなく、真剣に悩んでしまう。新幹線に乗ったとき父親がいった「東京から京都はすぐだね」、という言葉から「5分でつくのかな」と思って窓の外を見ていた。「普通の人」だって、経験、前後のつながりを総合化しなければわからない。しかし、わかるようになるまで、「すぐ」という言葉を、ぼんやりと自分の体の別の場所に浮かしておくことができる。サトはそれができなくて悩む。

・話がどんどん展開して、赤→青→黄色、となっても赤のことを考えていると、青は聞こえず、赤→黄色と聞こえてしまう。

・人の表情はとても複雑で、一瞬で変化していく。そして表情は大変な情報量。そこからある部分を切り出すことができず、一緒になってしまう。お母さんがどんなにうれしい顔をして言葉をかけてくれても情報として認識するのに時間がかかる。言葉で必ずうれしい、かなしいを補ってほしい。

私たちの国は未来に向かって人口が減少し高齢化がすすむ。そして自ら心身ともに健康であるといえる人の割合はどこかで半分ぐらいになるのではないか。10年後の2025年には65歳以上の5人に一人が認知症になると予測されている。このような世界で、わかりあい、助け合うにはどうしたらいいだろうか?

表現することだ、とこの本を読んで改めて思う。

『残った力でできることを生きている証として表現することで、不便だけど不幸ではないマルチステークホルダーがつくる世界になっていく。』その世界では、表現しあう場、わかりあえる場がたくさん立っている。

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