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自覚なき差別の心を超えるために/宮城顗

自分の力を強大にして、幸せをつかもうとする人の心には、見下し(人の段階づけ)、排他、差別が生まれる。そして差別された者や、役に立たないと切り捨てられた者の痛みは自分事にはならず、「ざわめき」に埋没する。ざわめきの中で差別は拡大される。

自らの力をたのみにする人は「私のいのちは私のものだ」という。しかし「いのち」は、人類社会から「いただいたもの」だと気づき、いただいた自らの「いのち」が尊いものと知り、私自身の頭を本当にさげるとき、人の「いのち」を尊ぶ心が開かれてくる。いただいた「いのち」は、すべての「いのち」と平等だと気がつく。

いただいたいのちを大切にするとは、今この時に、努力をつくせる我が身を喜ぶ生き方である。人を見下すことはなく、排他することもなく、差別することもない。

親鸞聖人の教えを説く宮城顗(みやぎしずか)さんの言葉(『自覚なき差別の心を超えるために』法藏館2020発刊)を頼りに、自らを眺めてみる。

◆「努力をつくせる我が身を喜ぶ生き方」とは?・・・会社は努力だけではなく成果を求めるけれど
 会社勤めで執行役員をしていた時は、60人ほどの部の職員に常に成果を求めていた。成果の順に評価が高く、給与や昇進の速さにも連動させた。しかし昭和の時代には、何故か仕事の話を全くせず、会社色ではない余白を持つ魅力的な人たちが、この会社には生きていた。彼らと話すと自らをリセットできた。今思うと彼らこそ、「今この時に、努力をつくせる我が身を喜ぶ生き方」をしている人だった。
成果は努力についてくるものとし、社員の心のリセットを受け持つ。今はそのお仲間に入りたい。

◆コロナに感染すると、いのちや倒産の危機に陥る。そこから感染者や、感染リスクが高い職種と家族に極端な差別が生まれた。一方東京などでは、誰が感染しているかわからない、誰もが感染する危険がある、という状況になり、一定の医療水準が確保できるエリアでは、いのちがコロナの前に平等になったともいえる。

コロナ禍で『いただいた「いのち」は、すべての「いのち」と平等』に近づいたのか、遠のいたのか?―すでに他界されている宮城顗さんはどうご覧になっているのだろう?

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