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初田龍胡『落合陽一を批判的に読む』は『初田龍胡を批判的に読む』がないじゃあないか

〜ジョン・オースティンの実存性〜


 明白にボク、まあボクより上の世代(ボクはギリギリZ世代)、ゆとり世代を批判している内容だと思って読みました。

 でも、そんな政治なんかに関心はそっちになくて、ようするに、初田くんがまあもっと言い切ればボクよりも若いZ世代の若者たちが藻掻いている実存的な政治闘争、医学部政治という病理について非常にとりわけ関心を持った。

 ところで、ボクの好きな分析哲学者にジョン・オースティンというイギリスの元軍人がいて日常言語学派に旋律を与え私自身は武蔵野美術大学生時代によく愛用した大学の図書館と立川のブックファーストでジョン・オースティンの執拗にまでのしつこい言語把握の癖みたいな病気にハマっていた。

 ようは、ジョン・オースティンはボクが思うに精神的な病があったんじゃあないか、ある意味でアスペ的な共同体主義的な癖があったんじゃあないかとボクは疑っている。

 それは執拗までに論理に拘るオースティンの身振りがなぜ文系の哲学に向けられたのか?そして、彼はなぜ軍人になったり病気ですぐ亡くなるのか…。

 これを陽キャ哲学が論理性がないのだと一蹴するのはまあ構わないよ。

 だけど、ボクにはその二重性、オースティンの余りに論理に拘る癖こそが実存主義的な哲学なんだというメッセージがめちゃんこ伝わるわけね。

 その証拠にアキレスと亀や機械の中の幽霊を提唱したギルバート・ライルやウィシュトゲンシュタインも余りに論理に拘るがゆえに私生活は非常に実存的だった。

 話しは戻るが、執拗までに医学部YouTuberが流行ったり学歴ランキングが流行るそのSNS上におけるパトスはむしろかえって非常に禁欲的がゆえに非常にエロス、実存的だと深読みするのは言いすぎだろうか?

 だから、初田くんの『落合陽一を批判的に読む』は本人の意図は更に別のところにあって単に情報処理を試しただけだと思うんだけど、ボクからすると世代間闘争におけるゆとりとZ世代の段差の違いを感じたね

 そして、これはAIとは結局、大きな父の代理であり、ゆとり世代の豊かな時代における左派がZ世代から特に急激に右傾化した、ナショナリズム化した証拠とさえ思う。

〜落合陽一はバカなのか?〜

 古田更一批判をしている本なんだよね、あれは。

 バカが読んだら分からないのだけど、ボクはあれは自分の話しだと思って読んだ。
 
 論旨や構造、ゲーム理論、他文献から推論するに、古田更一の限界を語っている『本は破れ!』批判だと思って読んだ。

 ただまあそういうのはどうでも良くて『本は破れ!』は洒落や分かるやつには分かる梯子外しの本だから、私の本当に言いたい本に『AIをAIするAI』がある

 だから、非常につまらない政治という系はしっかり単純なパターンやゲーム理論、他文献を速読し学習し暗記さえすれば、簡単に乗り越えられる。

 しかも、今はシンギュラリティやメタバース、付随した事務WorkingやWeb Writingなどがある。

 非常に落合陽一を批判的に読むは初田くんの、いやZ世代の真剣さが非常に伝わってきた。

〜真剣に踊っていたのはボクぐらいだった〜

 ネタが流行ったら、ネタを徹底的に。

 不謹慎系YouTuberにハマったのも、ネタの勉強だ。

 ボクの視聴者の高校生lan malcomは分かっている奴で、しょせん、こんなYouTuberなんぞネタなんだ。ネタならネタに走るヤツこそ1位という競争だった。

 だから、ボクはふざけすぎたブラック・ジョーカーである不謹慎系YouTuber坂口章にあえて注目した。

 分かるやつには、分かる。

 ボクの予想通り、ネタが分からない奴らがギャーギャー騒いできた。

 だけど、ボクの予想を超えたのが、Z世代たちの真剣さである。

 怒らないでほしいが、本気でボクが天才なのは山上徹也を見下してることだ。

 ともだちだともというバカと論争したが、おかしいじゃあないか。

 こんなにネタに走って遊び呆ける猿であるZ世代の田吾作の革命なんぞパロディにすぎない。

 ボクはネタとして山上徹也は面白かったんだけど、そのボクを批判する人々は多かった。

 だけど、ふざけているのは、アンタらだよ。

 ボクは本当はベタに戦いたかったが、梯子を外された鬱憤があった

 だとしたら、徹底的にネタに走ることこそが美学だろ。

 余りに冷たく笑うことに冷静に笑ってくれるレベルは坂口章ぐらいしか見当たらなかったのである。

 
 そういう意味で初田くんの『落合陽一を批判的に読む』は非常にプロディフェンス、防衛的すぎる。

 初田でもさぐさぐでもベテランちでもなんでもいいんだけど、どうせ田吾作の集まりだと大衆を冷笑するのならば、どうしてそこで防衛に走るかがボクには謎

 そこでいちいち田吾作に絡んだら、ボクらは陰キャだとイジられるのは分かっている

 しかし、そこで立ち止まったら自己言及的に差異が差異を生むような理屈のパズルは終わらずひたすらジョン・オースティンのように過剰な理屈という病気は治らんでしょ。

 どうせ嗤われるのなら、初めから嗤われてしまえ。

 田吾作の中から田吾作を倒してしまえ。

 ボクもよく遊びでヘゲモニー作ったり党派は作るけど、ボクからなんだよね。

 医学部政治は。

 医学部政治の連中ともよくつるんでいたけど、余りに自己言及的で非常に非実践でつまらない。

 もっとも彼らは意外と学歴厨ではなくて、何かと運動家なんだけど、運動を運動することの自己言及的なパズルにハマっている。

 たとえば、医者は果たして医者か。

 馬鹿な話に聞こえるが、ジョン・オースティンの分析哲学は言葉の定義にいちいちうるさい。

 だけど、たかだかペーパーテストに哲学なんかねぇよという梯子外しはあって受験はあくまでも最低だからいいわけであって、受験が最高だというのは非常に単純化された話しだ。

 もっともZ世代第1世代のボクと違ってその下はSNSの外にある目眩のある体験を余り浴びていないのかもしれない。

 教員には逆らって当たり前。

 教員の定義するテーマーはむしろ教員から裏切れと2率規範で定義命題をダブルバインドしているのは当たり前。

 その自己言及的なパズルをどう解くか?は非常に重要である。

 まあハッキリ言わせてもらうと、今の親世代、反全共闘世代や団塊ジュニアは余りに逃走しすぎた。

 それはあえて脱近代という目的があったからで、AIが人間の知能指数を超える加速主義の時代にはどれだけ大胆に勉強で遊べるか?が非常に重要になるんだ。

 もっともそこでベテランちやキュアロラン・バルトみたいに浅ましく椅子取りゲームみたいに田吾作や不全者を囲むのは藤白りりや月ノ美兎で足りてるんだよ。ここは幼稚園WARSかな?

 話しをまとめると、社会はやはり存在しない。

 社会というフレームは親世代がポスト・モダンで、そしてゆとり世代が古市憲寿よろしく戦後というタームで、最後にZ世代がメタバースプラットフォームという遊び場で戦後をテックで加速=終了させてしまった。

 しかし、まあ社会は存在するという感動ポルノがある種の空虚化した学歴競争やにじさんじで、社会フレームが無くなった人類は過去の憧憬にハマって青春ごっこ、感情マゾ=にじさんじ→ARTしている。

 しかし、そこはもう少し戦後を徹底し尽くし、マイルドヤンキー的なあるいは古市憲寿的なドラえもんから身体性を能動経済してゆく=論理の系を超えてゆくべきである。

 難しかった?

 あえてー。

 もっともボクの文章自体に『古田更一を批判的に読む』がないのは確かである。

 

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