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【実話怪談】夜逃げ

私は夜逃げのお手伝いをしたことがあります。
あれは、大学3回生の年末でした。
当時は経済的な事情から数々のアルバイトをこなしていましたが、その中の1つに台湾料理屋さんがありました。

大学の正門から出て、すぐ向かいの道沿いに位置するその台湾料理屋は、台湾から来た女店主が1人で切り盛りする小さなお店でした。
採用のきっかけは、考古学研究室の変わり者と名高いUの誘いからです。
「店長が気難しいから、私しか今バイトが居なくて。あなたなら採用されると思うけど、どう?」大して仲が良かったわけでもないのに真っ先に私に声を掛けてくれるのは不思議でしたが、ありがたい話でした。というのも、午前の講義と午後の講義の隙間時間、ランチタイムだけで良いという話で……他に複数アルバイトを掛け持つ私には、大変都合の良い条件だったのです。更に賄い付き。2回生の春から、断わる理由もなく引き受けました。

店内は大して広くもなく、20人も入れば満席です。看板メニューは魯肉飯(ルーローハン)。なんと280円でスープまで付いており、学食より安く済むからかいつも学生で賑わっていました。
そんな中、毎日1人で来る教授が、後に私のゼミの指導教官となるS教授でした。
「センセ、きたよ!」
すっかり常連の客で、店主にも覚えられており、私が注文を取る前に、もうS教授用の料理が作られています。
S教授が毎日食べていたのが、レタスチャーハンでした。850円でスープとザーサイと食後の珈琲付き。この店で1番高いメニューです。
「S先生、毎日同じメニューで飽きませんか?」と聞くと、穏やかに微笑みながら「飽きるような人は研究職に向かないんですよ。」と言っていたのを覚えています。

この店には、ひとつ妙なところがありました。
神棚のような装いの、本棚です。黒い背表紙の本が一冊。あれは、祀られているように見えました。店の全体を見渡しているような存在感があり、気になって1度、店主にあの本は何かと聞いたことがあります。返事は「ニホンゴ、むずかしい。ワタシ、わからない。」でした。

店主の癖でしたが、都合が悪くなると言葉がわからないフリをするのです。
それは予めUから、「店長はね、ビビアン・スーと同じで日本語がペラペラなのに、自分に都合が悪い時はわからないフリをするから。」と教えられていました。

Uは店主と喧嘩するほど仲の良い間柄でした。
月始めに手渡される給料をもらいに行った時に、2人で怒鳴り合っている姿を見たことがあります。
私が「どうしたの?」と、間に入ると2人とも口調は穏やかになりつつも、私にはわからない台湾の言葉でお互い何やら早口にまくしたてていました。

Uは、何故か流暢な中国語を話すことができる人でした。「なんでそんなに中国語話せるの?」と聞くと、「考古学の古語より簡単だからに決まってるでしょ。」と当然のように言うのです。
噂になるほどの変わり者でしたが、そういうところが格好良くて羨ましく思いました。

3回生の、秋の日のことです。
いつものように忙しいランチタイムを終えて、洗い物などの片付けをしていた時、店主がディナータイムの買い出しに行くと言って出ていきました。ディナータイムの人気メニューは、麻婆豆腐です。きっとすぐそこのスーパーで、格安の豆腐を買いに行くのだなぁと見送りながら、手を動かしました。

あと少しで洗い物が片付く、という時になって。


バサッ


と、何かが落ちる音がしました。

見ると、あの例の本棚から、黒い背表紙の本が落ちています。
(あれ、なんで落ちたんだろう。)
不思議に思いながらも、元に戻そうと手に取ります。その時です。

ブワッ

と、全身に鳥肌が立ちました。
形容し難い不快感が襲いかかり、思わず手放してしまい、また、

バサッ

と、本が落ちて。

見えてしまいました。

あれは、そう、長い髪の毛が本からはみ出して。


その先に……女の生首。

物理法則を無視して半開きに静止した本に挟まり、ブツブツ異国の言葉で何かをつぶやきながらギロリとした鋭い目でこちらを見ています。
更にはその隙間から次々に、まっくろくろすけのような黒いものが出てくるのです。
(あ、これは、まずい。)
本能的にそう感じて、パニックになった私は何故か咄嗟に本を踏みつけていました。


バンッ

と強く踏みつけたおかげで、本は閉じ、とりあえずまっくろくろすけも出てこなくなりました。
それからすぐに拾い上げて本棚に戻し、手を合わせます。
何だかよくわからないから、亡き父が昔教えてくれた不動明王の真言を唱えたりもした気がします。
パニックになりながら考えていたのは、(いや、あの生首の人絶対日本語通じないじゃん!!)ということでした。
いざとなったら話し合いで解決しようかなんて、少しでも考えていたのだから、我ながら大したものです。

どのくらいそうしていたでしょうか。

店主が戻って来て、私を見て大きな声で何かを言いました。言葉がわかりません。
戸惑っていると今度は穏やかな口調で「ほんヲ、みたカ?」と、日本語に切り替えてくれました。私は少し考えて、「見てないですけど、落ちたので拾って戻しました。」と答えます。
すると、なんだか少し落胆したように「そうか、わかっタ。」と言い、それからは何事も無かったようにいつも通りに戻りました。
私も何も見なかったことにして、それからもいつも通りに働きました。そう、何事も無くこの話は終わるはずだったのです。

冬。

クリスマスを終え、年末に向けた独特の雰囲気が感じられる日に、店主は言いました。
「おおそうじのてつだイ、時給ハ2000円、できるカ?」
時給2000円に目が眩んだ私は、すぐに引き受けました。どうせ年末年始に、帰る家もなかったのです。

お店が休みの大晦日の朝から夕方まで、まず物をとにかく段ボールに詰めて、それから空いたところを掃除機や雑巾がけで隅々まで綺麗にしました。
最後に物を元に戻そうとしたところで、「あとは、ワタシやるヨ。」と止められ、「ありがとね、つぎは、3日からお願いネ。」そう、言われました。
なんとなく、例の本棚に目をやると、本は無くなっていました。(あれ、片付けたんだなぁ……。)と、思ったことを覚えています。

1月3日。

仕事始めに店に訪れた私は、愕然としていました。店内は、見事にもぬけの殻です。見間違えたかと思って、何度も確認しますが、看板も何もありません。慌てて店長に電話するも、繋がりません。更にUにもかけたのですが、そちらも「お掛けになった電話番号は……。」のアナウンスが流れるだけでした。

狐につままれたような気分で冬休みが終わり、私は思わずS教授を捕まえて事の次第を打ち明けました。
S教授は全てを聞き終えると「それは、夜逃げでしょう。」とのんびりとした口調で言います。
「夜逃げ!?」と衝撃を受けていると、更に続けます。
「そういえば、最終日に食べに行った時、店長さんから言われたんですよ。『今年ハありがとう。いつも食べルお礼に、あの本、あげよカ?』って。」ドキッとしました。脳裏にあの禍々しい本が浮かびます。
「もらっちゃったんですか!?」
思わず聞くと、「いや、僕の専門は西洋文化だから、東洋の本はいらないなぁって断りましたよ。」と、また穏やかに返されます。
「残念ですよ、あのレタスチャーハンが食べられなくなるなんて。」と言うので、「味の素と、レタスと、卵とご飯、干し海老があれば作れますよ。」と教えてあげました。
そう、あの店主の料理は、ほとんどが味の素によって作られていたのです。
「味の素……。」
衝撃を受けているS教授を横目に、(それにしても、夜逃げとは……あぁ、先月の給料が。)と落胆するばかりでした。

その頃、考古学研究室ではUが失踪した話で持ち切りになっていました。店主が消えたあれ以来、Uもまた、いなくなってしまったのです。
なんとなく、Uはもしかしたら、あの本をもらってしまったのではないかと思いましたが、真相はわかりません。

店長へ。
もしもこの話を見ることがあったなら、あの時のお給料、いつでもお待ちしています。

これは私の実話です。

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