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北朝鮮政治犯収監者リストに叔父の名が

3~4年ほど前、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の関係者の方々が調査のために来韓された際、通訳として北朝鮮人権情報センター(NKDB)との会議に付き添ったことがある。

その時に偶然、NKDBのソウルオフィスで手にしたのがこの本だ。
2016年8月に発行された日本語による本で、北朝鮮政治犯収容所の勤務者、収監者、失踪者の人名を整理したもの。

400ページ以上に及ぶ人名事典

その日、仕事が終わり帰宅し、この本をパラパラとめくっていた私の目に、突然、母の弟、つまり私の叔父の名前が飛び込んできて、凍り付いた。

序文 「存在するのに存在しない人々」
当時はNKDBのスタッフがハナ院(脱北者教育センター)に出向き、入国したばかりの脱北者をインタビューすることが可能だったという。文政権になってからは不可能になったと話していた。
目次
北朝鮮の収容所を全て網羅
その後、何冊か余分に購入しようと訪れたが在庫がないと言われた。

この人名リストの93ページ目に、叔父の名前があった。

やはり、別の脱北者が知らせてくれた通り、1996年に家族全員がヨドク収容所へ連行されている。

証言してくれた脱北者を教えてほしいと頼んだが不可能だった。

叔父は1996年の年始に、保衛部による取り調べの最中、拷問で亡くなった…と、ある脱北者を通じて聞かされていた。この本に書かれているのは、残りの家族のことだ。1996年当時、20代前半だった長男、次男と、17歳だった末娘と叔母。

つまり私が北朝鮮を最後に訪れた1996年の夏の時点で、叔父はすでに亡くなっていたことが、2017年ごろに出会った脱北者の話を通じて分かった。

その時、3人の従弟と奥さん(東京出身の帰国者)には会えたが、自分たちもいつどうなるかわからないと恐怖に怯え、震えていた。(結局その不安は的中し、一家全員それから数か月後に収容所に連れて行かれた。)

私はそんな彼らのために何もしてあげることができず、手持ちのお金をすべて手渡し、万景峰号に乗って日本に戻ってきた。彼らの「その後」がわかったのは、20年以上の歳月が経過した最近のことだ。

叔父家族の話はまた別の機会に書こうと思う。

誰かの役に立つかも知れないので、この本の中にあった「在日コリアン」や日本出身、日本関連の記述をピックアップしてみた。

叔父もそうだが、言葉一つで捕まるケースがあまりにも多い。
帰国事業で北朝鮮へ渡った在日や日本人配偶者の苦痛は、想像を絶する。
『平壌の水槽』の著者、カン チョルファンさんの祖父がこのカン テヒュさん。
在日コリアン観光客の案内係もある意味、危険な仕事だ。
在日コリアンの過去を調べ上げ、無理やりスパイにでっちあげるケースも多い。
帰国事業で北朝鮮へ渡った日本人であっても、到着した途端、朝鮮名に改名させられたので、日本名の本名が不明なことが多い。
帰国者は収容所送りになると同時に、全財産を没収される。没収できる財産目当てで、保衛部が仕送りの多い帰国者家族を狙って陥れることもあったという。

北朝鮮へ渡った在日コリアンの3割~5割が収容所に入れられたという話もあり、この本に掲載されている人はほんの一部に過ぎない。

この本は2015年ごろ脱北した人を対象に、インタビューを行った過程で挙げられた名前を整理したものなので、実際はこの数十倍、数百倍の悲劇が起こっている。

政治犯収容所へ連行された「罪名」は、たいてい以下のような記述が多い。

  • 韓国ドラマを見た

  • 韓国製品を使った

  • 聖書を隠し持っていた

  • ラジオで韓国放送を聴こうとした

  • 迷信を信じた

  • 祈っていた

  • 家族が脱北した

  • 韓国にいる脱北者から送金してもらった

  • 中国でキリスト教に触れた

  • 韓国への逃走を企てた

  • 韓国へ逃げた家族が記者会見した

  • リビアへ労働者として派遣され、現地人と接触した

  • 社会への不満を言った

  • 金正日の顔写真のある新聞で葉巻を作った…等

北朝鮮社会がどれほど閉鎖されており、締め付けられ、当たり前の自由がないか、私たちには想像すらつかないだろう。

一人ひとりの「なかったことにされた命」のリストを見ながら、万景峰号を見上げていた従妹たちのうつろな目が思い浮かび、胸が締め付けられた。

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