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1972

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1972年は日本の分岐点になった時期と考えています。「1972年だけ研究家」の僕は物心ついた10歳でしたが、本当にいろいろ覚えています。今何かのきっかけで思い出すたびにそれを書い… もっと読む
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記事一覧

#282 #72-19 有線放送電話とUHF開局

1970年代の農村では家に電話は2つあった。 もちろん電電公社の黒電話が一つありました。50年代までは300万は超えましたがほとんど業務用でした。70年かかりました。 農村部は60年代まで「有線放送電話」が勝っていたのです。66年には300万となっています。 1955年千葉の木更津の村で農協青年部の若者が電線を張ってスピーカーを付けて回りました。(1944年に亀山村でラジオ聴取が起源とされ、49年松丘村の沖津一によって始まったとすることもあります)。 放送と通信の垣根

#72-18 貴輪から輪湖

1972年9月秋場所の千秋楽。貴ノ花と輪島の水入り。 ここが大相撲の史上最大の盛り上がりピークでした。  大鵬の1人勝ちにより、低迷していた大相撲人気が息を吹き返したのは、貴ノ花が幕内に登場したとき。 この時代を貴ノ花で思い出してみましょう。 貴ノ花満は室蘭市で、10人兄弟の末っ子。兄は「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花。 誕生した時、長兄の勝治(後の若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、「お前の弟だ」と聞かされて仰天した。 杉並区立東田中学

#72-17 ディープ・スロートは誰だ?

1972年6月17日にワシントンD.C.の民主党本部で起きた盗聴侵入事件が始まり。 1974年8月9日にリチャード・ニクソン大統領が辞任するまでの政治スキャンダル。 ワシントン・ポスト記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、6月17日朝から調査を始め、事件に関する様々な事実を紙面に発表した。ニクソン大統領を追い込む事になりました。 多くのスクープ記事のネタ元は、「ディープ・スロート」と名づけられた内部通報者からのリーク情報でした。 元々『ディープ・スロート

#271 #72-16 エンタメ商業映画の時代へ

1972年夏。 それまで怪獣映画やディズニーしか観たことのなかった田舎の小学4年生の僕。 僕が最初に観たオトナの映画は「ゴッド・ファーザー」監督はもちろんフランシス・フォード・コッポラ 父が観たくて甲府春日通りに連れられて。部活の姉は置いていかれました。 始まるまで看板を見ていたら、「この人がこの人を好きで・・・」というおばちゃまが解説していたけどそういう話では全然なかったので「なんとデタラメな大人なのか」と子ども心に思いました。どうでもいい思い出。 映画では馬の頭

#270 #72-15 少女マンガが20年進んでしまった

1972年前後から少女マンガのレベルが上がりました。 萩尾望都(はぎお もと)と竹宮恵子(惠子)。20年進めたのはこの同級の二人です。 1972年2月、萩尾の 『ポーの一族』シリーズ第1作が『別冊少女コミック』3月号に掲載されました。2018年1月 - 3月に宝塚歌劇団花組で上演されています。 萩尾は高校2年生のときに手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志しました。 1969年10月上京。同世代の文通相手で音楽を学んでいた浪人生増山法恵(ますやま のり

#269 #72-14 なぜ流通革命が同時進行できたのか?

1972年は、消費者の生活も劇的に変わりました。 流通業は70年代前半に米国からの新業態 やサービスが消費や生活を変えました。 流通業の社長グループによる米国視察が盛んに行われました。 主な初期の店舗は以下のとおりです。69年:郊外型SC(玉川高島屋)、レンタカー(ニッポンレンタカー)、70年:すかいらーく国立店、ケンタッキー・フライド・チキン、ドラッグストア・ボランタリー(AJD、NID)、71年:日本マクドナルド銀座店、72年:ホームセンター(ドイト与野店)、73年

#72-13 公害事件が環境問題と呼ばれていない頃

1972年前後は公害事件の判決が相次ぎました。 日本は60年代の高度成長の代償として公害問題が多発しました。 重化学工業化のために産業公害が拡大し、四大公害事件(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)が発生しています。 (1)水俣病は1953年頃に発生(1956年に公式確認)でしたが1969年に裁判となり、1973年3月 患者側全面勝訴となりました。 (2)新潟水俣病は1965年に発生して1967年に提訴、1971年9月 患者側全面勝訴 (3)イタイイ

#72-12 ミュンヘンのユダヤ人

ミュンヘンオリンピックは、1972年8月26日から9月11日まで 札幌オリンピックで書いたように当時は冬と夏のオリンピックは同じ年。 オリンピックマニアの私としては最初にハッキリ記憶している大会です。 ちなみに「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」のままだけど、このコピーは1958年の日本麦酒(現サッポロ)のものでした(緯度がだいたい同じ都市ということ)。 日本勢としては水泳の金。 田口信教(100m平泳ぎ)、青木まゆみ(100mバタフライ) 女子の金は前畑 秀

#72-11 横井さんと小野田さんの情報戦

1972年(昭和47年)1月24日の夕暮れ時、横井庄一さんはグアム島のジャングルで地元の猟師に発見された。 終戦から28年目、満57歳の残留日本兵である。 2月2日に横井は日本に帰国。 「恥ずかしながら帰って参りました」というのは本当ではなかったけど、流行語になった。 帰国後、昭和天皇にお目にかかる機会 帰国後に両親の墓参りをした際に「親孝行できなくてすみませんでした」 1972年8月にお見合いをして結婚した。 グアム島には投降を呼びかける放送があった。「その放

#72-10 沖縄返還の前からすごいの来てた

1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄がアメリカから返還された(沖縄本土復帰) 直前史 返還前は本土に行くためにパスポートが必要だった。沖縄の高校が念願の甲子園出場を果たしたのは1958年(昭和33年)首里高校。選手達はパスポートを持参します。甲子園の土は検疫に引っかかって捨てられました。1968年(昭和43年)夏の甲子園で興南高校がベスト4入り。 兄の朝申が「琉球の声放送(琉球放送(RBC)の前身)」を1949年に設立、弟の朝清は初代アナウンサーに就任。アメリカ留

#72-9 田中角栄内閣に金丸信

1972年(昭和47年)7月6日田中角栄が第64代内閣総理大臣に指名され、7月7日第一次田中角栄内閣が発足。12月22日まで。 9月29日に日中国交正常化に合意 第65代になった第二次内閣は、1972年(昭和47年)12月22日から1973年(昭和48年)11月25日まで。 これらの内閣の顔ぶれを見れば、重鎮や論功での就任はもちろんその後の自民党史(日本の政治)を動かす若手の人物が登用されている。 ここでは金丸信に注目してみよう。 1914年山梨県中巨摩郡今諏訪村(

#72-8 荒井由美の近くに村井邦彦

1972年7月5日シングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー 立教女学院から多摩美術大学に入学した1年生。 かまやつひろしがプロデュース。東芝音楽工業から。 前年、加橋かつみに「愛は突然に…」を提供し、作曲家としてデビュー。 まだ「荒井由美」のままで。 加橋は、1970年2月、『ヘアー』の打ち上げで、川添象郎と加橋が大麻取締法違反容疑で逮捕。そこからの復活の最中。 川添の父、川添浩史は港区麻布台)にあるイタリアンレストラン「キャンティ」の創業者。風吹ジュン

#72-7 あさま山荘事件の前兆

あさま山荘事件 1972年(昭和47年)2月19日から2月28日  札幌オリンピックの6日後、1972年は忙しい。 小学校の授業の間にテレビで観た。 鉄球で山荘を壊すのを見て「なんじゃこりゃ!?」って感じでした。 家に帰っても「まだやっているう」って思いました。 9日もやっていたのかあ カップヌードル食べたのはだいぶ後になって知りました。 1972年と言えば、この事件。有名だし、50年なのでいまさらという気がします。 そこで前史から 大菩薩峠事件1969年

#72-6 戦争の犬たち、ビアフラの子どもたち

1972年、作家のフレデリック・フォーサイスは、傭兵を雇いマシアス・ンゲマ政権転覆を謀りました。失敗しました。 BBC 特派員としてナイジェリアに行き、内戦に敗れ祖国を失ったビアフラ人に同情して企てたもの。ビアフラと同じイボ人が居住する赤道ギニアをビアフラ人の安息の地とするためでした。 この資金は処女作『ジャッカルの日』の印税収入から ジャーナリスト時代にビアフラ戦争の取材を行い『ビアフラ物語』を執筆した彼はビアフラに同情的でした。 前史 ビアフラ戦争(ナイジェリア