ひとりどり (短編小説)

行き先をまだよく調べていないのに、気付けば最寄り駅のプラットホームで切符を握りしめていた。仕方がなかった。頼まれたのだ。行ってこいと言われたから行く。湿った空気があまりにも重たく鼻先にのしかかっていた。さっきからずっと僕は、唇の先をすぼめながら、へそのある場所を手でティーシャツの上からぐりぐりと、人さし指でなでたりいじったりしている。時々つまんだりつねったりもしている。電車が来るまでの時間をこうやって弄ぶことしかできなかった。

焼けたせんべいの香りがすると思って、あたりを見渡す。向かい側のホームで、ボトルに入った醤油を、わざと線路にこぼしている人がいる。駅のホームはざわついた。避けようとした周囲の人たちが、野次馬どもの人だかりに飲み込まれていった。どさくさに紛れて唾を吐くもいた。駅ぜんたいが混沌としていた。しばらくして駅員が四人掛かりで現れた。醤油を撒き散らした彼は、駅員たちに強引に連れて行かれて、そのままどこかに姿を消した。

運転見合わせ。僕はなんの感情も湧かなかった。駅の改札口で、握ってしわくちゃになった切符を駅員に手渡した。行き先をまだよく知らないまま、ぼくは、気付けば帰路についていた。

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