されちまえ (短編小説)

職場の最寄り駅から歩いてすぐのところに、僕の気に入りの寿司屋がある。昼前になると店を開いて二時間ばかり営業するが、夕方になるといったんのれんを下ろしてしまい、しばらくして夜が近づくとまた客を迎え入れる。要するに、昼の客と夜の客がいるわけだが、たいてい僕は昼の客だ。

昼間に僕がそこの寿司屋に行くたびに、店長はいつも「夜のお客さんは、めったやたらに声がでかい」と愚痴をこぼすのを、僕はたびたび耳にした。そもそも、これほど風格のある老舗の寿司屋に、夜にかぎって声のでかい客が来る、というのは、ほんとうだろうか。そんな話にも興味がないわけではなかったが、なにせ深堀りして聞き返すほどのことでもないと思われたので、だいたいいつも話半分に聞き流していたのだった。

十月の半ばも過ぎた、ある平日のことだった。その日は立て続けに仕事のミスを起こしてしまったこともあって、僕が昼休憩に入った頃にはすでに三時を回っていた。昼どきをのがすと、いつもの行きつけの寿司屋ののれんは取り外されていて、駅前通りはいっそう寂しくなっていた。誰もいない、誰の声も聞こえなかった。ただ秋の気配だけがそこにある。風が少しだけ肌寒いような気がするのは、薄着で出歩いているからだと思う。僕に上着を貸してくれる呉服屋もなかったし、僕が上着を返してもらうクリーニング店さえもそこにはなかった。

陽が傾いて、駅前の寿司屋ののれんが取り外されてしまえば、この街には何も残らない。色気ない無機質の歩道のまんなかに、僕はひとりで押っぽり出されてしまった気分だった。そういえば何年か前に、市の議会で「空が見えないまちづくり」という標語が打ち出されて以来、この駅前通りは、簡素なアーケードで全体を覆われるようになったのだった。あの頃はまだ反対意見も多かったけれど、今となってしまえば、アーケードにまもられた歩道に、僕もまた、まもられている気がする。

そもそも僕は、すでに疲れがひどかったので、どこかに食事処をみつけて少し座って休もうというつもりでいたけれど、慣れないラーメン屋の椅子には背もたれがなく、座り心地も悪くてうっとうしかったから、食事だけ済ませてさっと出てきてしまったのだった。そのせいか、朝からの頭痛も治らないし、目を針で刺されたような激しい痛みがよけいに増すばかりだった。

明らかに過労だ。くたびれてしまっていた。僕はただ気をまぎらわすために、歩道に落ちていたどんぐりをふたつ、手で拾って、口にふくんだ。しばらく目をつぶってみる。少しずつ唾液がどんぐりに浸みわたっていく感覚が、舌をやわらかく刺激する。頬張ったまま、僕はじっとその場に立ちすくんでいた。今にも口が唾液でみたされてしまいそうになり、どこか心地いいような、不愉快であるような、微妙な感じがした。どんぐりから甘い汁がにじみ出てきた。体が軽くなる気がした。けれどそれは一瞬にして吐き気に変わった。それでもしばらくは唇をがまん強くぐっと閉じていたが、もう耐えられなくなり、思いがけず、水っぽくって泡だらけの唾をいちどに足元に吐き出してしまった。遅れたように、どんぐりが、ひとつ、ふたつ、口の端からほころび落ちる。吐き出された二粒のどんぐりは、濃くて湿った色をしていて、鈍い音を立てながらアスファルトを転がった。口の中には、どこか秋の不穏なかおりがまとわりついている。

水のない浜辺にむかって叫ぶときのように、僕の鼓動が、ぎこちない不気味な音を立ててざわめきはじめていた。体が震えた。得体の知れない、生あたたかくてにおいのする液体が、ぼくの喉の内側から今にもこみ上げてきそうになって、慌ててぐっと息を飲んでおさえこむ。脱げかけていた靴を履き直し、歪んだ視界の中をなんとかして歩き出そうとする。

そのとき僕には見えないはずの空が見えた気がした。たたみ一畳の曇り空。あともう少しだけ見えたらいいのに。取り留めのない考えの渦が頭の中を横切り、燃え尽きたろうそくのようにそのまま僕は地面を膝をついて気を失った。

しばらくして意識を取り戻す。そこは木目に囲まれていて湿った空間だ。あまりにも狭いところにいるせいで、ほとんど身動きがとれない。
「お客さん、そろそろラストオーダーですよ」
聞き馴染んだ寿司屋の店長の声が、奥のほうからわずかに聞こえる。
「ラストオーダー、ほらほらお客さん」
ふだん昼間に聞いているのと比べて、そのときの店長の声は、低くてどこか気味が悪いように思われた。遠くで数人ほどの会話が聞こえる気がしたが、はっきりとは僕には聞き取れなかった。

しばらくして目の前に、刺身包丁を握りしめた寿司屋の店長が、姿を現した。殺されると思った。だが店長はすぐには僕を殺さなかった。彼はまず、二重に縫い付けられた僕のズボンの裾をほどいている。それから脇の下にひんやりとした金属製のはさみを入れて、じょきじょきと音を立てながら少しずつ僕の着ていたシャツを切除していく。

「こりゃ絶品ですよ、昼間のうちにどんぐりを食わせておいたので」
店長が客にそう説明するのが聞こえた。このとき僕は、もはや恐怖心よりも、むしろ羞恥心とか好奇心とかいうものに襲われていた。しかしこのことこそが、何よりも増して恥ずべきことであったように、今となっては思う。

寿司屋の店長がまさに僕の身体をほとんど裸にし終えてしまおうとするちょうどそのとき、比較的近いところからいきなり、女性の悲鳴が聞こえた。

その場が凍った。

どうやら様子をうかがうには、御手洗いに向かおうとして席を立った女性が、たまたま厨房のほうを覗き込んでみたとき、今にも僕を調理せんとばかりいる店長のすがたが目に留まった、とのことのようだ。

「オーダー、取り消しっ!」
店長はそう言って、かぶっていた白の和帽子を脱ぎ、何重にもタオルで額の汗を拭った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?