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雑感・書評―その1 知の教科書「フロイト=ラカン」新宮一成・立木康介編(講談社選書メチエ330)

2010.03.05 Friday | 

下記は、2006年6月にHPに記したブックレビューを転載したものです。
※点枠線内…書籍要約部/マーカー部分…感想挿入部/縦傍線部分…引用部)

精神分析関係の著書を読んでいる人々は、すでにラカン自身の「エクリ」・「セミネール」を読んでいるであろうから、こうした入門書に就いて今更詳細に述べるのは殆ど無効なことなのかも知れないが、この本の企画構成として、多岐に渡る学問分野の角度から精神分析の姿勢の一貫性と通底力が物語られるのは非常に立体的で面白かったし、また能弁であるがために考えさせられる所が色々あったので、少なくとも私自身の為に要約しておくに値すると思われた。

一貫してラカンからフロイトへと遡りつつ、そこに通底する人間の捉え方と、そのえぐりだす人間本質・構造への洞察の深さ・射程応用範囲の広さを示すのが本書の内容であるが、色々な面で得心したり思い当たることが多いのには愕く。

総じて「言葉」や「認識」と、“人間自身”との間の本質的な相克・ズレの問題(疎外)を基底に据えた精神分析の論調が面白い。またラカンによる非常に自覚的な「シニフィアンの遡及作用(事後性)」―通常の、ソシュール的シニフィアン‐シニフィエ図式の、逆転も含め―の概念付けも興味深い。(P68~71)

個別のテーマで見ても、仏教的思惟と深層心理、ヘーゲル的(疑似!?-)弁証法とフロイト-ラカン的思考との関係、マルクスに一貫していたフェティシズム考に於ける貨幣の捉え方を中心とした精神分析学から社会・経済科学への射程延長、芸術創造/鑑賞者と精神分析の視点=メディア論、歴史修正主義(というパラノイア)に対する精神分析的アプローチと視座、人間論・生命論としてある「円環(球体・穴のない完結)神話」に対する、ラカンからのNO、すなわち裂け目の提示(永遠に完結不可能でありつつ永遠に目指す、という視点)等々...。

デカルトのコギト・エルゴ・スム、その透明性の中からけして消え去らない不透明性などについて考えながら、これを読み直していたばかりだったので尚更かも知れないが、フロイト-ラカンの精神分析に通底する主立った視点は、非常に共感を覚える。それは総じて言うなら、弁証法をけして閉じない(本質的に開かれたままであるとする;円環からはみ出るものが必ずあるとする)、一貫したスタンスである。

言い換えれば構造を(既成の、無時間軸的な)構造のまま自己完結的に閉じないスタンス、でありその構造を外部から始動させつつ同時に己を無的中心地点として内在化しつつこれを成立させてもいる何ものかを見いだすスタンスであるともいえる。

人生上の意味からも、自覚化ないし権威化され得たシニフィアンを語るよりむしろ自覚化・権威化できなかったシニフィアンを捉えよう、光が当てられず代表的な座から洩れ落ちる側のシニフィアンを捉えようとし、そこに於てこそ、懊悩する人間の実存を描き、結果何らかの救済を提起しもする、そうした精神分析学そのものの態度・志向性が、好感を抱きやすく興味深いのである。

また場合によっては直接に哲学的な視座(自覚的次元)にある私以上にむしろ、より奥にある私、つまり芸術から感動を得る主体・形而上学童話の創作などをする私(無意識的次元/イマージネーションを何処からともなく得る次元に居る私)―の、共感を呼ぶ点も多かった。

そのもつ、イメージ喚起力とは、また非常な熟考に満ち共感をそそられた部分とは、以下のような部分である。殊に印象的であった各箇所を、私なりに要約するとともに(点線枠内)、所々に所見・解釈を入れた(マーカー部分)。尚、傍線部は書籍からの引用部分。

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「出会いそこない」と「言うことの不可能(できなさ)」(p25~27)

「現実」と精神分析に於て言われる時、それは通常意味される純粋経験自身よりむしろ、現に「・・できなくなっている」という私たちの状態である。いわばその不可能性「~できなさ」と「~しそこない」を続けているという私たちの事実の方に目を向けられる。その際、カントのように私たちの外側に「現実」があるのかとうかというような心配はもはやしなくてよいのであって、我々の心に「~しそこない」の傷跡が残されており、それが身体の「傷」と同じ仕方で、私たちが生きているかぎり私たちを苦しめる、というレアリテそのもの、それが人生の限界、諦念とともにあかるみを定めている、ということが重要であるとされる。カントのいう「物自体」、ヘーゲルの「絶対知」、そうしてフロイトの、夢の中に置き去りにされる「出会いそこない」への語りを考える時、ラカンによればフロイトの出現は思想史上の必然であったと見える。
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つまり、

※以下、引用p26
カントの「物自体」が認識論によって私たちと「物(現実)」との出会いのなさを認めた説であり、逆にヘーゲルの「絶対知」が理性と「現実」との自己意識における一致を直観したものだとすれば、フロイトはヘーゲルに途中まで添いながら、そこから決定的に別れ、自己意識と主体とが「出会いそこない」という関係にあるという必然を、切羽詰まった人間理性の法則として提出し

知の教科書「フロイト=ラカン」新宮一成・立木康介編

た、という事である。 ――第一部ラカンからフロイトへ遡ること――真の現実としての、言語との出会い
(尚、mixiのラカンコミュでのやりとりによれば、ラカンとフロイトの「物」概念の内容は、異なるとされているようである。)

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「ラメラ(@ラカン)」-「リビード(@フロイト)」(p108~111)

心は「もとあったところ」を目指すがゆえに、フロイトにとって丸い生物はリビードの象徴であった(「円かなる一体」としての生の欲動 /「無機物」としての死の欲動)。ラカンは、リビードを「ラメラ」で表す。
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つまり

※以下、引用p109
生物の組織の中にときどき現れる構造で、薄い膜状のものが、何層かに重なってときには丸まっている状態…卵焼きをくるんだサランラップのようなもの…ベターハーフをみつけて自分に貼り合わせて「円くなろう」としている性的人間の姿…リビードは自己増殖しているラメラのことであり、つまりそれが愛する人間である。

人間は、じつのところ穴があることで生きているが、ラメラとともに穴のない混沌、すなわち

※以下、引用p110
リビード、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう純粋な生の本能

に還ることを志向してしまう。これのイマージュとしてこんなものを考えるとよい、

※以下、引用p110
風船ガムを上手に膨らまして、膨らましつつ自分がその内部に入っていくというイメージ*
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この一文を読んだときの私の愕き、自分自身の創作童話「シャボン玉の閉じられない輪」を想起せざるを得ない!…成功すれば、自分の口という孔が、世界の内と外、同時に繋がる場所となる。

性的エネルギーの志向とは、このような完全無欠つまり「円かなるもの」である。精神分析による洞察では、「人間は全体的ではありえない」が、「そうした方向に向かう動きを無くしてしまうということもまたできない」。全体すなわち一つの円環(不可能)を志向する永遠に必然的な動きを捉えなければならない。

※以下、引用p110
不可能は、それを諦めるためでなく、それを目指すために人間に与えられた論理的カテゴリー

である、とする。――第二部フロイト=ラカンのキーワード:「ラメラ」-「リビード」

*私自身としては、この構造をフロイトのように「性」に限定しない。それは童話「シャボン玉の閉じられない輪」でも設定していたような「主体と超越の関係」―含:聖霊の概念―においてもそうであるとする。そうした諸々の側面を総じて、生のエネルギーそのものが、完結不可能な円かなるものを永遠に志向する、と捉えたい。が、性に関してもこの構造が当てはまる、ということに関し、おそらく異論はない。

また、先のラメラ-リビード論(完結不能性)に少し重なるが、精神分析に於けるメディア論も非常に興味深い。

メディア論とフロイト=ラカン p140~151

フロイト以降の精神分析では人の心の仕組みをいくつかの構成要素(無意識、意識、前意識、あるいはエス、自我、超自我など)に分けて理解する。この構成要素が、実際どこに属するかを考えると、見かけ上の個人の中にあるようにみえても、そこにはすでに外(他者or物)が介在していると捉えることもできる。この矛盾同一が、つまり各「個」の中にメディアが入り込む余地なのである、とする。これはまさしく人間がそれ自体として閉じた存在ではありえない、常に何かに向かって開かれた存在である、ということを意味する。メディアとは(その意味のひとつには)つまり霊媒師であって、人間とは、何か己を超えた超越的なものと否が応でもかかわらざるをえない生き物なのであり、メディアとはまさしくそのかかわりを取り持つものとしての媒介なのである、と考えられる。

(註:ここでいうメディアとは、主に三つの意味があり、ネットワーク網の形成・媒介するもの・記録保存するもの、である。以下、各の要約)

  • ネットワーク

    1. ラカンのいう「人間は言語に寄生されている」の通り、言葉や感情が人間の内面から発して外に向かって表現されるのではなく、言葉のほうが勝手に降ってきて、取り憑き、その人間を動かす。人間は言葉の乗り物、媒介―パロールの媒体(support)―にすぎない、人間は言語という超越的なネットワーク(大文字の他者の語らい)の回路の一部分でしかない。意識はその効果、あるいはフィードバックにすぎない、というものであり、人間は始めから異物とかかわることでしか自分を一つの閉じたまとまりとすることができない動物になったのであり、それゆえメディアを通じた外在化、内在化が容易になった、とする。

  • 媒介

    1. 人は…(中略)…鏡に投影されたもの(鏡像)を曇りなくくまなく見ることが出来る―アルチュセールを経由したラカンの受容説―、のではなく、実際にはラカンによれば人間が見出す己の鏡像には、どこか不可視な一点、あるいは染みのようなものがあるとする。精神分析的メディア論では、「巻き込まれた」存在として主体を捉える点に特徴があり、私たち人間存在は、完全なる客体としてメディアの外に立ってメディアを通じて外の世界を見るのでもなく、その世界に客観的に存在する自分を見るのでもない、何かが見えるところに立った、そのこと自体ですでに私たちはメディアの作り出した世界の中に、見ている対象と“同一平面上で巻き込まれて”いる―いわば我々の立ち位置がすなわち盲点であるような仕方で?!―、とする。

  • 記録するもの

    1. これに関しては、内容と前提がより複雑な為、今回は省く。

*全体として、永遠に不可視な視点、もしくは彼岸にある謎めいた超越的視点というものに、主体は侵されながら生きざるを得ないという把握を精神分析が持っているということは、注目すべきであると思われる。こうした欠損点そのものが主体をして世界を認識可能にしている原基点・超越点であるといった視点は、メルロー=ポンティなどの身体論的現象学の視点にも、また現代の宗教哲学論(仏・基両教)にも近いものがあるのではないか。

また純粋に私自身の自覚的な意識層―歴史哲学的・社会-経済哲学的位相―に於てはこのような点が興味深い。

歴史修正主義(Revisionism/Revisionnisme)とフロイト=ラカン p152~165

昨今、独ナチによるホロコーストや、日本による南京大虐殺、従軍慰安婦問題などに対する、規模と質の過少評価(被害者側よりはるかに小さく見積もる主張、もしくは存在しなかったという主張)が横行している。フロイト=ラカン精神分析の座からは、この問題を単に実証主義的・擬-実証主義的な同一次元上の応酬に「とどまらず」―というのはそれが不必要という立場でなく、それは必要(不可避)であったと同時にそれだけでは不十分、という恰好に、否応なく実証主義的議論のがわが(メディアに於るヘゲモニー闘争によって)立たされてしまったのである、とみなす立場ということになる―、そもそもナチズム・ファシズムそのものが台頭したのと共通する地点に立ち戻って分析することができる、と同時にこのもつ危険性を再認する。つまり歴史修正主義(反復運動)の問題点とは、そのふりだし、つまりその発想の元となったナチズム・ファシズム台頭自身の根拠、これと全く同じ原因にもとづくのである、と意味づけられる。と同時にこの自家撞着が歴史の上で繰り返される、これ自身を食い止められないことの危険性と、これに対する実証主義的批判の限界(この手段だけで応酬することの不利・不十分さ)が指摘される。

そもそも大量虐殺への道がどのようにして切り拓かれたのかといえば、ユダヤ人迫害の口実としてナチスが利用した、(一見選民思想的でありつつ裏返せば)被害妄想的な「デマゴギー」がまずもってあり、ホロコーストはまさにこのパラノイア的妄想を確信的動力として行われたが、歴史修正主義もまずもってこうした―彼らによれば「無かった出来事」の発生位置―すなわちデマゴギーの発生過程に、反復的に舞い戻り(これによって逆説的に、大量虐殺がいかに切り拓かれていったかを如実に物語る恰好となる)、その上で大量虐殺など無かったという、「仮説」という体裁をとりながらも実は疑う余地無い「真実?!」に事実上無条件に立脚し、それがあたかも有った“かのように”みなが多数協力し偽証や証拠捏造・改竄・誇張記述などを緻密に計画実行して巨大な権力と化してこちらを責め立てる「陰謀が存在する」という確信を持ち、これを無際限に増幅させるという仕方のパラノイア的妄想回路に入っていく、という構図になる。

歴史修正主義の論理の二重欺瞞装置は、表面上は実証主義的体裁を備え、「大量虐殺はなかった」というのは仮説とし、これを検証するという姿をとる。 が実際の検証対象は、この仮説でなく、これまでの相手側(大量虐殺があった、とする実証主義的)証言や証拠であり、しかも仮説であるはずの大量虐殺はなかった、というのを絶対無条件の前提としてここから、相手側の従来の証拠証言は基本的に捏造改竄の手が加えられているという論法で一貫し、これらの証拠証言の中に矛盾・人為工作の痕跡を見い出すことに努力が費やされる(仮にこれらの証拠証言にこれといった瑕疵が見い出されなければ、それだけ巧妙に陰謀が作られている、という解釈をとる)、というからくりである。つまり、彼ら自身の仮説、「大量虐殺はなかった」の方には、予め何の反証の要求も及ばせず(疑いを差し挟む余地のない真実という資格を与え)、一方的な力関係のもとに置いてある、ということである。これほどに一貫して彼らの言う仮説、すなわち絶対無条件の前提である大量虐殺はなかった、の論理を押し進めるほどに、これを相矛盾する多くの証言や歴史的証拠が出現するが、それらが出現するほどに今度は、それらの「偽証」や「証拠捏造」が、それだけ巨大な権力とその協力者のもとに緻密な計画とともに存在し、歴史的陰謀を捏造した、という結論になってゆき、この「陰謀存在説」への確信が無際限に増幅させられていく、というパラノイア的回路が形成されていく。

だがこのような自家撞着の主義主張を一笑に付していられないのは、こうした主義主張の反復運動が現実的にはややもすると食い止められず、メディアという舞台を巻き込むと、現に実証主義的批判の限界を指示してくるからに他ならない。

戦争のレアリテが時とともに希薄化し、歴史の証言者が次第に減じていくにつれ、こうした主張はある種の開き直りを伴いつつあちこちで蒸し返され大衆的な広がりを見せる。 マスメディアを舞台とする時、歴史修正主義の擬-実証主義的論法は、その論法に従来の実証主義的論理が否応なく「巻き込まれる」作用を持っているとともに、実証主義的議論に不可避的に不利な質的変化をさえもたらす。

概観して以下の点である。


  • マスメディアを介すると、大衆のポジシオンは両者の資料・原資料にともに接近する手段を持たなくさせられ、(デカルト的コギトの立場にみづから立って自覚的理性的認識主体として原資料に接し真偽を見分けようとする一部の者以外の、多くの人間は)どっちもどっち風な憶見上の事柄として処理させられがちとなる、とその際、実証主義的論証がレトリックの一種と還元されがちなこと、客観的認識それ自体よりも、それとして権威づけられた、流通する「知(の受け売り)」のほうに論争のヘゲモニーが持って行かれ、そのためのパフォーマンスに勝る方が勝ちとなりやすいこと

  • 自然科学的研究対象と異なり歴史的資料文献は他者の言葉・認識を「介在」していること/これが(科学に比して)歴史の研究者を知の受け売りをする大衆と似た立場に置きがちなこと―歴史を対象とする実証主義の内在的構造的問題―、しかもこれを擬-実証主義者のがわに検証そのもののずさんさであるかのようにあげつらわれ易いこと(歴史修正主義はここで自分たちの疑似-論法自身を棚に上げているにもかかわらず、議論を相対的な次元に、実証主義の側の資料証言を相対的な地位に、大衆の面前でおとしめただけでその目的は事実上十分達成されたこと)/SF的操作・フィクションなどと現実とが渾然一体化し、その差異が希薄になりがちな時代背景自身も、歴史修正主義のがわに有利に働きやすいこと

  • 大量虐殺の存在を政治的に利用する側に対しても、実証主義の側が十分批判的な距離を保つことができなければ、歴史修正主義批判も教科書的権力臭を帯びることとなる一方で、検証可能な資料のみで疑問の余地無しの堅塁を築こうとする実証主義的な努力が不可避的に大衆を同様に能動的検証可能な座から除外することになればこの権力臭も実証主義自身が内在的に持っていたものということになるのに対し、歴史修正主義の側は、一方では実証主義的厳密性を盾に自分たちに都合の悪い証言を退けつつ、他方では歴史を捏造する巨大な権力という敵を外部に立て、擬似的共同性を構築して大衆を己の側に囲い込む、という二重戦略に出ること。etcetc...


以上の点で歴史修正主義のほうがポイントをかせぎ易いことになる。

総じてメディアを引き込んだこうした構図の中では大衆はいわば証言者にも認識主体にもなる条件を与えられず、両者の論争の蚊帳の外に置かれがちとなるのが構造的な問題であって、歴史修正主義の予想外の広がりという結果を与えてしまった。 こうした反省から80年代後半から問題を新たな地平に置きなおすことが急務となり精神分析やその影響を受けた哲学的思想と議論が参照されるようになる。

他方、こうした視点を提示する精神分析自身の方を省みると、フロイトの議論の立て方には一見歴史修正主義ともみまがう或程度共通する特徴が認められる。フロイトの論理の立て方も、或る反証不可能な仮説(無意識というものの設定)に準拠しある種独断的仕様で説明づけていく。この点では両者ともに客観的現実の彼岸にほんとうの現実を追い求めるという姿勢が見受けられる。

だがフロイトの探求の方向性は、歴史修正主義のそれとは正反対であって、歴史修正主義では攻撃者を外的世界に立てる*代表的シニフィアン以外の他者性シニフィアンを拝外することでみずからを閉じるが、フロイトは主体の幻想―語り得ぬもの、だがそれは遡及的に、過去が主体の中に規定的作用を現在に及ぼしつづけると言う仕方で形成されてきた物語を解き明かす―の「中に」他者を探す*みずからのみずからによる物語を自己完結させずそこから漏れるもの―代表的シニフィアンから取り落とされたシニフィアン―の模索とともに主体を外に開く。

歴史修正主義の論法では被害者が存在しないならば犯罪自体が存在しない、ということになるが、フロイトの試みによれば(加害者が意図的に目指したところの)被害者の得も言われぬ体験の黙秘でさえ、その症状から身体に記された痕跡・伝言を、犯罪の在り方を告げるものとして解読しうるのである。強制収容所では人は人であることと同時に語る主体である資格をも剥奪されたが、精神分析に於いては、―それが苦しい試練であろうとも―(語りえぬものをあえて)語る主体としての資格を保障されているのである。

貨幣論とフロイト=ラカン p166~177 

これまでの論点からも各々既出して来ているが、どうやら我々が生きていく際、その本質にかかわるような、特権的な媒体・構造というものがあるらしい。あたかもその媒介なしには我々は生きて行かれないかのようである。

何故そもそもそのような不可避な構造というものが*ひいては構造がその構造として成り立ちつつ運動することを促している或る働き・外からの動機付け、のようなものが?あるのであろうか―みずからが外*構造への働きかけ・吹息であるままに内構造そのもの、しかもその構造の中心としてのゼロ、空でもあるような仕方で―、そしてまた、そのような視点から視るとき、貨幣というものの持つ意味は、いかなるものとして説明しうるのか。

精神分析的視点によると貨幣というものはそれ自身空虚な中心であって中身を持たない、が故にその持つ形式を全ての中心とし得、ものの価値を周縁に連関づけているものである。言い換えると精神分析ではマルクス自身もこだわっていたフェティシズム(フロイト)という観点、と同時にファルス(ラカン)という観点から貨幣を論ずる事が出来る。

モース-レヴィ=ストロースで周知の贈与論―贈与・交換体系―すなわち贈与[交換原理のもとい、被-贈与側に負債感を生じる時間軸の発生=ラカンのいう想像界]、及び交換[*負債感持続効果としての時間軸をすでに省略・相殺しえた等価交換世界ラカンのいう=象徴界]の構造を基礎に、それよりさらに遡り、上記で言われる贈与[*交換・交易がもう予め織り込まれている不純-無償性贈与であるため、むしろ贈与「交換」と言われるべきである贈与、いわば究極の因果的前提が、人間社会に於いて時間軸の発生とともに始動・受肉された次元というべきかも知れない]以前のもうひとつ奥の位相、すなわち“純粋”贈与[*いわば、構造の外・究極、の動機付け、無償贈与=ラカンのいう現実界]の概念を提示したのがデリダであるが、これら交換・贈与・純粋贈与の3位相化は、ラカンのもの―前掲したように、象徴界・想像界・現実界―と全く共通、同一である。デリダ-ラカンの考えによって究極の位置に指摘される、象徴界である円環の外部たるこの現実界(純粋贈与)は、事実上人間にとっては不可能な世界、いわば生きとし生ける者に自然の恵みを与えた創造者・全能者しかなしえない次元の贈与であるといえる。これが象徴界における論理的欠如でありつつその因果的前提でもある処のものである。

こうした体系を、貨幣自身と関連させて精神分析的に言えば、貨幣とは、象徴界の内部にあって現実界を指示するシニフィアン、ということになる。システム「内の一項」でありつつシステム「外部を指示」する、ゼロ象徴である。それをラカンにしたがっていえば、ファルス―全能なる〈力〉それ自体を指示するもの―,ということになる。さらに言えばその力は、具体的な「もの」―*有の世界の各相対者?としては「実在しない」が、実在するかのように有の世界に矛盾的に還元されて、その力の存在を―あたかも有の世界と同一次元にあるかのようなレトリックで―「指示」される、ということになる。

ところでこうした趣旨をすでに述べていた経済学者がマルクスであったと言われる。一貫してフェティッシュでありファルスである貨幣は、マルクスによって疎外概念を携えながら、商品→貨幣→資本としての自立化というその過程を見事に描き出されているという。*ラカンもデリダもマルキストであったという所以の大きな一要因が、ここに見いだせるとも言えよう。

*振り返れば一時期―21世紀突入前夜―、天皇制ゼロ記号などという論調が日本に於いて流行っていた。それは今にして思えば受け入れがたい議論であったが―何故なら、ラカンが貨幣に対して与えるような意味でのゼロ象徴として、天皇制があるのではけしてないからである。すなわち「ない」という事態を目に見える(有る)シニフィアンによって指示するという矛盾によって成り立つ記号である、というよりは、天皇制とはじつに(或る特定のイデオロギー装置にとって必要とされたがゆえに)予め「存る」という事態を、それがあたかも無いものであるかのように、別の「有る」シニフィアンによって指示・変換していただけだったからである―、それは別として貨幣論に於けるこのような論理射程に関しては、まだまだ理解が及ばない点もあるかも知れないが、今のところ私としては専ら納得と共感こそすれこれといった異論はない。

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追記:個人的には「平成~令和」天皇と皇后、その人格・人間性(が帯びうる聖性)・また歴史観に敬意をば抱いている。それと制度としての天皇制とは別に考えなければならないというもどかしさがこの問題にはある。


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