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京短ネプリvol.2

京短ネプリvol.2が出ました。わたしは8首連作『海葬』を寄せています、ぜひ。

空の色をうつして水が冷えわたる海がひとつの眼であることを

海葬/早瀬はづき

さて、宣伝はこれぐらいにして、ネプリの感想を書き殴ります。相互評欄短すぎて語りたいことぜんぜん語れなかった!!!
(ちなみに相互評欄の語数を決めたのはわたしです、みんなごめんね。)

いつでも/もやっしー

意識の偏りをテーマにした連作。
どの歌も、おおむね第三句が「じゃない方」へ視点を移すための意識の橋渡しのような役割を担い、結句で「じゃない方」へ完全に意識がシフトする、という型をとっている。ここで重要なのは、橋渡しを行うのが第三句であるということである。短歌は57577の句切れ単位で分解する以外にも、上の句と下の句という大きく分解することもできる。つまり、第三句で橋渡しを行うという型は、上の句は「じゃない方じゃない方」、下の句は「じゃない方」、といったように、短歌の型の上でより強固に意識の偏りを打ち出そうとしているように感じた。

金魚という金魚がぜんぶすくわれて一人をしてるおばあさん屋さん

いつでも/もやっしー

花びらの群れ/船田愛子

青春時代を鮮やかに振り返る連作。
相互評でも触れたが、この連作は構造が秀逸である。短歌を読むとき、読み手は歌の中の世界の時制に追従する形で景を組み立てる。そのため、初読は描かれる青春時代を主体の経験を追体験する形で、現在形として受け取ることになる。一首目に読み手へ問いかける形式の歌を持ってきていることも、そう読んで欲しいという作り手の意識を感じさせる。その中で3首目「欲しかった」、6首目「消さないでおく」、7首目「写真に撮って残したかった」と時間幅のある歌が青春時代からの卒業を匂わせる。この段階ですでに、 7首目以前の歌は過去の話として読み手にはうつるが、短歌自体が有する時制は現在形である。これは「写真」と構造が似ている。初読では追体験した歌と、構造の力を借りることで、見返すときにはすでに過去の出来事として、写真を見返すような感覚で向き合うことになる。

さくらふる駐輪場のしずけさを写真に撮って残したかった

花びらの群れ/船田愛子

看護実習/森田歩

タイトルからわかる通り、看護学生をテーマにした連作、かと思いきや、一連を貫くのは「死」というモチーフである。
一般的な文脈における「死」と医療現場における「死」というズレた「死」を一つの連作内に共存させることで、連作中で複数回「死」が出てくるにもかかわらず、くどさを感じないのがこの連作のすごいところである。また、看護実習がキツいという話はよく聞く話であるが、学生にここまで「死」を意識させるようなものであるのだとするのなら、日本の医療の未来がすこし心配になってくる。

死にたいは本当の思いではないとご教授くださる倫理の教授

看護実習/森田歩

黒いコルク/森井翔太

ワインに関する連作。
この連作も構造について触れたい。この連作を大きく二分化するとすれば、暗めの色彩が目立つ前半四首と、透明感のある色彩が目立つ後半四首になる。この二つのパートの接続を果たすのが5首目なのであるが、この5首目は文脈の上でも色彩の上でも箸休めというか、小休止的な役割を担う。酔いを覚ますために飲む水として、あるいは前半で強く印象付けられるワインの深紅色を洗い流す透明な色彩として。

透明なグラスに水をたっぷりと入れるだけでも世界はさめる

黒いコルク/森井翔太

光跡/成山ジュンヤ

シティ・ポップのような空気感をまとう連作。
「光跡」というタイトルでありながら、連作が有するのは日没から日の出までの時間帯である。夜の光が繰り返し登場することが、シティ・ポップ感を想起させるのだろうか。あるいは、4首目「純アスファルト」、6首目「荷電粒子」といったような、(個人的に)90年代の都市のような雰囲気のある単語がそうさせているのか。日中はもちろん、夜通し機能する都市の印象が8首目の「高速道路」の体言止めで強調されるのも見事である。

光跡の交わる場所を中心として日が登る高速道路

光跡/成山ジュンヤ

PAUSE/ナカジマシン

PAUSEの主語は何かを考えたくなる連作である。
単に8首目から取っていると考えれば、停止しているのは車であり、さらに言えばその車に乗っている作中主体なのであるが、ここではもう一歩踏み込んで、停止するものは「思考」なのではないかと考える。事実を単に「事実」として処理するとき、発信される情報を鵜呑みにするとき、思考は停止しているといっても過言ではない。そして、何者かに選ばれた【おすすめ】を享受するとき、あくまで予報でしかない天気予報を根拠もなく信じるとき、そこに思考が介在しないことに我々は無自覚である。

未来なんてアシンメトリー、間違ってあすは朝から晴れ間が広がる

PAUSE/ナカジマシン

聴覚の形而上学/砂蘭

声に関する連作。
同じ声がこだまする空間に置かれているような、不思議な読後感が魅力の作品であると思う。相互評でも触れられているが、話し手と聞き手という構図を考えれば、声には直線的なイメージが付随するが、音の振動という面で声を捉えれば360°あらゆる方向へ声は向かう。そして、ときに反射し、こだまする。「こゑ」という単語が作中で繰り返し用いられることも、この「こだま感」に寄与している。

世の〈おと〉は余りに高くひろがりて下げたピッチのごと生きる我

聴覚の形而上学/砂蘭

suffocation/湯浅桃

タイトルの通り、窒息がテーマの連作。
suffocationは窒息すること/させることの意。花は水が多すぎれば枯れてしまうし、煙草を吸っている間、酸素の運搬機能は低下する。これらは広義の窒息と言える。人魚が長時間陸地にいれば、窒息してしまう恐れがあるし、洞窟壁画を描くためには光源を確保するために洞窟内で火を焚く必要があるが、これにより描き手は酸欠状態に陥る。窒息することと窒息させることは、案外表裏一体なのかもしれない。

そのために刷られた英字新聞に包まれている深青の花

suffocation/湯浅桃

Swept away/真中遥道

物の移動が印象的な連作である。
さまざまな速度感での移動が繰り返し連作中に登場するが、その中に停止感のある歌が紛れているのが見事である。また、6首目に関しては、通常は共存しないはずの速度感と停止感が共存する。5首目で停止したはずの動きが、6首目で停止しながらも動き出す。これが、表題を回収する8首目における連作中の最高速度感を演出する。短歌で言及されているわけではないが、桜吹雪の中に立っているかのような大きな速度感を感じる。

ポケットにしまったはずのものが無くそれを諦めるまでの速さ

Swept away /真中遥道

0.999999……=1/布野割歩

視点の転換がおもしろい連作。
相互評でも一部触れられているが、1首目の帰納的な視点、3、4、8首目の相対的な視点、5、7首目の無限を感じさせる視点など、日常の出来事を数学的な視点で捉えなおそうとする試みを感じる。そもそもタイトルの0.999999……=1という式自体がある種の思い込みというか、そう信じているものである、ということを踏また上で、それが破綻する可能性を頭の片隅のどこかで意識しているような作中主体を感じるのであるが、わたしだけなのかな?

そうしてもいいという確信がありだれもが隣の部屋へ移った

0.999999……/布野割歩

Parasaurolophus/奈辺

恐竜がテーマの連作。
恐竜へのまなざしを通して、生命全般ついて考えさせられる一連であった。恐竜が隆盛を極めた時代、恐竜同士が番となって子孫を残す、というのは(少なくともわたしは)あまり意識をしたことがなかった。しかしそれは現代の人間と異なり(?)、本能的な営みであって、そこには制欲が関わるわけではないことを指摘する5首目が興味深い。8首目で子らに対して「初恋を控えし」という措辞を施すことで、恐竜と人間の対比構造が暗に示されている。

一対の骨格標本 繁栄の跡あれど性欲の気配なし

Parasaurolophus/奈辺

冬の櫂/豆川はつみ

淡い印象の連作。
一連において繰り返し登場する「連続性」を感じさせる措辞がおもしろい。1首目「読めていたはずの本」、3首目「そのころの」、5首目「やんだらやんだで」、6首目「いま見ている」、7首目「それからの」など、明確に連続性を感じさせる措辞もあれば、暗に連続性を示す歌もある。その中では2首目が秀逸。下の句の「記憶をとりもどす音がする」という措辞は、あくまで「音」に焦点が当たっているため、その段階では記憶はとりもどされていないような印象がある。音がして、一定時間が経ったのちに記憶はとりもどされる。ここに連続性が案に示されている。

眼をとじて冬湖に櫂をおろすとき記憶をとりもどす音がする

冬の櫂/豆川はつみ

それなりに盛り上がってる/柳

除外がテーマの連作。
当然と言えば当然なのだが、この世界には自分に関係するものと、自分に関係しないものの二つが存在する。それらが共存しながら世界は動いているものの、どうしても自分に関係するものの方へ意識を傾けてしまう。自分に関係しない世界であっても、それなりに盛り上がっているということに気がつく機会は日常にありふれている。

どこだろうと思っていたらここら辺一帯のことを指す言葉だった

それなりに盛り上がってる/柳

最終手段としての祈り/雪野菜帆

抽象名詞の扱いが上手い連作。
「性愛」、「記憶」、「想像」、「重力」など、抽象度の高い語を含む上の句を、「渓谷」、「海馬」、「ロールケーキ」、「シャンデリア」、「ボート」など具体的なモチーフで処理するのがうまい。かなり宗教的というか、「愛とは何か」のような大きなテーマを下敷きにしている印象があった。

朝方の空気の揺らぎ 神さまは右手の方が冷たいらしい

最終手段としての祈り/雪野菜帆

空目/津島ひたち

認識に関する連作(であると思う)。
主体がそれを誤認識であると自覚的であるのが1首目と8首目であるが、これらの歌以外においても誤認識が生じていると思うし、それに主体が無自覚であること自体が誤認識であるとも言える。受け皿に落ち着いた小銭は花にはならないし、風はいくらつかもうとしてもつかむことはできない。また、誤認識であると自覚的であるのにも関わらず、その認識をやめずに、むしろ一歩進めるかのように2段階に景を構える8首目の下の句はとても興味深いと思う。

つかれていて今日は何度か空目する窓ごしの雨、雨ごしの塔

空目/津島ひたち

気づいたら/武田歩

発見の連作。
モチーフに対して一歩引いた目線で向き合っている歌が特徴的。蝿は朝刊ではなくその文字に潰され、缶を捨てるとき、缶だけではなくその缶への意識も同時に手放される。日常生活から短歌のタネを発見するためのまなざしが徹底されている印象があり、そのまなざしへ定型が寄って行っているような印象さえしてくる。7首目の下の句の句またがりは本当に無意識のうちに紅茶を飲んでいたのだろうな、と思わせてくれる。

ティーバッグ抜けば紅茶は軽くなる気づいたら片手で飲んでいる

気づいたら/武田歩

マンドリン・レイン/小池ひろみ

雨の連作。
男女(とは限らないが、)の別れが背景にあるような感覚がする。この失恋感を演出するのは、雨という場面設定だけではなく、嘘、背中で笑う、思い出、などという失恋へ容易に連想されるモチーフが頻出するからだろう。また、7首目からは失恋の失意(?)の中で前を向いていくための自己暗示のような雰囲気を感じる。よく見るとグロいのはガーベラだけでなく、人体もかもしれない。

よく見るとグロいガーベラ お金さえあれば一人で暮らしてゆける

マンドリン・レイン/小池ひろみ

ダリア/金井優々

低体温なまなざしが貫かれる連作。
奇妙な身体感も特徴である。ねっとりとしているというか、変な色っぽさのようなものを感じる。「しつこく撫でる」「垂らす」など、語感に粘性がある動詞によって身体感が演出されているために、このような奇妙な感覚になるのだろうか。また、タイトルの付け方が面白い。通常花の名前を連作のタイトルにする場合、連作中にその花を詠み込んだ歌が登場するのだが、この連作はそうではない。ダリアを通して何を伝えようとしているのだろうか。たしかにダリアと名付けられた主人公は大人びてそうであるが。

図書がたくさんあるという部屋 花の名前の主人公が出てきてませている

ダリア/金井優々

gazeatganymede@/今紺しだ

壮大な視点が魅力の連作。
どことなく乾燥した印象を全体を通して感じた。「昼前の細き月」「荒野」「噴水の涸れし広場」「神殿の遺構」などが連れてくるイメージに乾いた感覚がある気がする。個人的には1首目と2首目の並びが好きだった。1首目で展開される「回転」のイメージが探査機の着陸のイメージとしずかに響き合う。また、表題の回収の仕方がとてもおしゃれなので、ぜひ印刷して楽しんでほしい。

昼前の細き月その荒野へと着陸したる月探査機(SLIM)を思う

gazeatganymede@/今紺しだ

ゆっくり大人になっていくと思っていた/ますだなぎ

大人への変化がテーマの連作。
詠み込まれるのは自分/周囲の変化の両方である。眉毛をブリーチしていることから、主体は比較的自立した。大人に近い年齢であると想像したが、自身の身の軽さを感じていることから、自分ではあまり大人になったとは思っていないような気がした。眠る人へも福音を届けようとするような優しい内面を持つ主体が、自身の印象を柔らかくするために眉毛ブリーチをするのであるが、周りに何を言われようと気にせずに、優しい内面を持ち続けてほしい、と切に願ってしまった。

教会にフリック音が響いたら ねむるひとにも福音が届く

ゆっくり大人になっていくと思ってた/ますだなぎ

空っぽの箱/三上麦

喪失感のようなものを感じる連作。
それぞれの歌が持つスピード感が印象的である。「?」や「→」、「・・・」など、さまざまな記号を多用しているのもスピード感を演出する要因になっていると感じる。また、主体は異様に外からの見られ方に気を遣っているように感じる。「君」の前ですら泣くことができず、玉ねぎを切ることで泣いていることを誤魔化せると思っている。美しくなるために、主体が失ってきたたくさんのものを感じ図にはいられない。

空っぽのおもちゃ箱をひっくり返しかつて王国だったこの場所

空っぽの箱/三上麦

嘘の夏/千百十番

嘘と現実が入り混じる連作。
タイトルが「嘘の夏」であるだけに、全てが虚構であるのかと思いながら読むと、2首目や3首目のリアリティのある、というか事実ベースの歌とぶつかったときに驚き、奇妙な感覚になる。6首目、笑顔でカメラに映る作中主体は何を考えているのだろうか。撮られるときには無意識に笑顔(というか撮られる顔)になってしまうが、これは本当の笑顔なのか、などと考えてしまった。

ピースしてカメラの画角に収まった随分ちいさい私の笑顔

嘘の夏/千百十番

以上です!!!長かった!!!
そのうちvol.3も出ると思いますので、気長に待っていてくださるとうれしいです!


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