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東映特撮OfficialYouTube配信『宇宙戦隊キュウレンジャー』簡易感想〜とりあえず「キュウレンジャー」というオンラインサロンに入会することが宇宙を救う鍵〜

東映特撮OfficialYouTubeの『宇宙戦隊キュウレンジャー』を全話再視聴したので、改めて感想・批評をば。

評価:F(駄作)100点中0点

何が素晴らしいといって、「宇宙戦隊」という名前にもかかわらず、最終的に全部単なるご当地ヒーロー以下のレベルに収めてしまうという、一歩引いた姿勢である。
リアルタイム当時も見てあまりのショボさにガッカリしたものだが、東映の公式サイトには最終回によせて以下の文章が綴られていた。

最初から自分で入り口を狭めない。
実現の可能性を探らずに勝手に閉じない。
不安でも、まずは大風呂敷を広げてみる。
取捨選択するならば、その後で決めればいい。

時間も限られる中、それはある意味非効率な提案なのかもしれませんが、
必ずや個人の、そして作品の糧となりレベルアップにつながるはずだと信じて、
そう、まさに『やらない理由を探すのはやめよう』と。

「その心意気や良し!」と応援したくなるのが戦隊ファンの心理であろうが、この残念なクオリティーと完成度の低さを見る限り、とても「お疲れ様」とねぎらってやる気にはなれない
まあそもそも私は「ゴーカイジャー」以降の戦隊シリーズは「公式が同人」というスタンスで見ているから評価軸は変わっているのだが、その評価軸で見てもこれはあり得ないだろう
ほとんどの部分は過去の評価で書いているので今更特別に付け足そうとは思わない、実際改めて過去の評価でほとんど本作については書いているので十分であるし、擁護しようもない。

その上で今週配信分の最終回を見たのだが、新たに書き足すとするならばまず最終回手前でツルギを救済して全員揃って最終決戦に向かうわけだが、その絵面がこちら。

小・中学生の校内マラソン大会かよ!!

曲がりなりにも(設定上は)宇宙最大の規模だといっているのに、全然宇宙レベルの規模をこのショットからは感じられないし、何より変身前も変身後も1人1人の色気(存在感)が皆無である
何が凄いといって最終回直前まで見た上でもなおパッと見誰がどんなキャラなのかがラッキーぐらいしかわからないし、人間だけならまだしも着ぐるみの奴らまでいるので肉感性がまるでない。
そんな奴らが12人も一斉にラスボスに向かって疾走したところで何の感慨深さもなく、また変身後も結局は一人一人個別に技を繰り出すだけで、最終回ならではの知略や工夫も全くないのである。
そもそもラストバトルの流れ自体も全然面白くはなくて、宇宙中の人々を体内に吸収→ラッキーが只管精神論を押し付ける→12人がかりでフルボッコ→巨大戦でも宇宙中のエネルギーでフルボッコ→ラッキーを乗っ取ろうとするも、再び「宇宙一ラッキーだから」という理由で拒絶→フィニッシュも12人でフルボッコで終了、という山も谷もない薄っぺらい絵面がただイベントとして消化されるのみだった。

しかも宇宙最大の規模のラスボスという設定にも関わらず、ラストバトルの攻撃が単なるロボ同士のエネルギー波の撃ち合いで、しかもそれすらショボい規模感に留めている。
この絵面で思い出したのは漫画『ドラゴンボール』のサイヤ人編の一番の見せ場である3倍界王拳かめはめ波VSギャリック砲の撃ち合いだが、まだそこまでインフレしていない時期のバトルですらこの迫力だ。

すでに悟空とベジータの対決の時点で星々を滅ぼせるレベルの戦いを生身の人間がやっているわけだが、「キュウレンジャー」はこのラインにすら到達していないのである。
何が「実現の可能性」だ、何が「大風呂敷を広げる」だ!大風呂敷を広げるならな、まずラスボスに地球以外の星々を軽く消すくらいのことはやってみせたらどうなのか?

太陽系惑星も含む銀河を丸々1つか2つは消滅させてきたことに対して映像がチープであったとしても説得力を持たせるくらいのこともせずに宇宙最強を名乗るとは笑止千万である。
「貴様は宇宙ではない!」とヒーロー側に突っ込ませていたのが、それが作り手の怠慢に対する自虐を皮肉を込めて言っているのだとしたら、本当に失笑を禁じ得ない。
そもそも星王バズーとていくつもの星々を食らいつくし、バルガイヤーも999個もの星を食らってきたし、魔獣ダイタニクスだっていくつもの星々を滅ぼして宝石に変えてきた。
一方でキュウレンジャーはジャークマターらに星々を支配されているものの、かつてのゴズマ程の圧政が敷かれている様子もなく、むしろどこか平和そうに暮らしている

また、ダップや黒騎士ブルブラックみたいに故郷の星が滅ぼされて復讐鬼になるといったような深刻なドラマや対立・葛藤のようなものが演じられているわけでもない。
そのせいで、ラッキーが最初から最後まで単調気味に言い続けている「ラッキー」という言葉や彼らの身振り手振りに些かの説得力も重みも生まれず、作品全体の根幹を成すほどでもないのである。
この最終回だけを切り取ろうが、どこにも「ショット」と呼べるものは存在せず、ただ「宇宙最大の規模」とは名ばかりの野原で行われる小・中学生のガキ風情の喧嘩がそこに描かれているのみだ
事によると、スーパー戦隊はこの「キュウレンジャー」という作品によって宇宙レベルのものが田舎の不良同士の抗争未満の領域に貶められてしまったことを嘆かねばなるまい。

そもそも「取捨選択するならば、その後で決めればいい。」などという無責任で怠惰な謙虚さと恐れを欠いた姿勢が益体もない駄作を生み出した事実をなぜ許すことが出来ようか。
スーパー戦隊シリーズとは大凡未就学児童向けの総合芸術として、「チームヒーロー」の代表・象徴なるものとして今日にまで発展し、歴史を作り上げてきた。
しかし、その長き歴史が必ずしも良き発展・繁栄ばかりをもたらすとは限らず、中には本作のような作り手の無作為によってエントロピーの増大に近い現象が起きることもある。
本作は紛れもなく作り手の体たらくにより益々シリーズの歴史を希薄化させ、世にスーパー戦隊を驚きの対象たり得ようという意思を皆無にしてしまったともいえるだろう。

歴代最多の12人の戦士、宇宙幕府と名乗る最大規模の組織とラスボス、そのいずれもが全てはいかにラッキーなる男が凄いかを見せるためのトリックでしかない。
確かに映像はあくまでも徹底した「表層」「外面」ではあるものの、そこに対してどれだけ「瞬間の感覚」「間合い」「味」といったものを個性として生み出すことができるかが大事である。
ただ派手に宇宙規模の設定を上っ面だけなぞったような幼稚園児の落書きレベルを抜け出ないものをいくら大袈裟に見せたところで、それは決して受け手の感性を些かも震わせるものにあらず。
スーパー戦隊シリーズが積み上げてきた歴史に対しても、役者に対しても、あらゆる被写体に対する覚悟と戦隊という「枠」に対する格闘から逃げていては真の名作は生まれ得ない。

最後に少しだけ、2016年という年はDMMをはじめオンラインサロンが次々と台頭し、クラウドファンディングや情報商材などのネットビジネスが台頭してきた年である。
それを意識したか否かに関係なく、キュウレンジャーとはつまるところ宇宙規模の名を騙った、実態は単なるラッキーを中心としたオンラインサロンや高額セミナーみたいなものであろう。
ラッキーに投資し信じた者だけが救われる、つまり「ガオレンジャー」以来の形を変えた宗教戦隊の再来とでもいうべきものだったとも見ることができる。
だが何れにしても、そんな胡散臭いものに投資・擁護するほど私は愚鈍ではない、やりたければ勝手にやっていろと結論づけて、本作の批評の締めとしたい。

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