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『大戦隊ゴーグルファイブ』は本当に「空っぽの器」なのか?本当に批評する価値のない凡作なのか?

素人レベルならともかく、仮にも作家としてそれなりに影響力のあるスーパー戦隊のファンがこのような語りをしているのを見ると、妙に腹立たしい気分に襲われる。
私は別に『大戦隊ゴーグルファイブ』という作品そのものに深い思い入れがあるわけでもなければ、リアタイ世代でもないため本気で怒っているかというと微妙だ。
だが、本当に「ゴーグルファイブ」を見て、画面上に映っているもの全てその瞳で捉えた上で尚このような薄い言説しか浮かばないようであれば、事態はとても深刻である
なるほど、スーパー戦隊シリーズのファンがこの程度の知性と教養・批評のセンスしかないのであれば、それは平成ライダー批評家連中に見下され「様式美」なんて言葉で雑に括られるはずだ

私はこの作品のことを「決して何も特徴がない凡作だということはない」と記した上でその特徴を論っているが、私の「ゴーグルファイブ」論がこのようになったのは以下の批評があったからである。

『ゴーグルファイブ』は未来科学と暗黒科学の戦いを描いた作品ということになっている。しかしよく見ると、両者は実は同じものであるということに容易に気づくはずだ。恐ろしい兵器を作り、人類に災厄をもたらす目的で使用されればそれが暗黒科学であり、それを防ぐ目的で使用されればそれが未来科学である。

悪は人の心の中に 正義も人の心の中に―― 『大戦隊ゴーグルファイブ』と冷戦

更には本作品でどうしてもビジュアルのみで語られがちなゴーグルピンク・桃園ミキの存在意義に関してもしっかり言語化されている。

桃園ミキというキャラクターにとって幸運だったのは、戦隊シリーズにおいてヒロインが、男たちに付き従う五番目の戦士という位置づけからの脱却を模索し、だがそれに取って代わるヒロイン像が明確に存在するわけでもない、まさにその時期に登場したということである。今、全51話の映像を見れば、最初は弱々しく頼りなかった彼女が、戦士として必死にがんばっていく過程で、強くたくましく成長し、男たちと対等の、場合によっては男たちのピンチを助けるほどの活躍も見せるほどの戦士となっていった軌跡を目にすることができよう。作り手に「成長を描こう」という意図があったのではない。結果的にそうなっただけである。であるがゆえに、あらかじめ定められたレールに従って成長したのではなく、まさに本当に一人の人間が試行錯誤をしながら成長していっているかのような感じを受ける

戦いの軌跡

これらの文章はそれまでのあらゆるスーパー戦隊シリーズの感想・批評サイトを覗いてもなかった斬新な語り口であったし、具体性があって的確だ。
ブログなどで書いたものを見るとこの人の考え方は歴史や思想面を基にして書いていることが伝わってくるのだが、特に「ゴーグルファイブ」論に関しては現状この方の右に出る言説を見たことがない。
「空っぽの器」なんてそれこそ空虚で何の具体性もない漠たる言葉よりも遥かに説得力を持って私の心に刺さったし、「ゴーグルファイブ」という作品に対する見方や感性を変えてくれた
本当に良質な批評は受け手の感性や見方そのものをも変えさせる力を持つのだが、それには何より作品に対する深い造詣と愛が必要であり、間違いなく根底に愛を感じられる文章だ。

他にも「テンプレすぎて語るべき中身がない」などと雑に評する人のも見たが、私に言わせればそれは作品が悪いのではなくその人の感性や見方に問題があるのではないか
いわゆる「王道」と呼ばれる戦隊であっても掘り下げていけば一言でこうだと安易に定義できない細部の情報が画面に詰まっているのだし、それを拾って歴代と比較するだけでも実に多くのことが汲み取れる。

以前私が書いた「処女作には、その作家の全てが詰まっている」という記事の観点に基づいて「ゴーグルファイブ」を「曽田博久のメインライターとしての処女作」と見ると、最低でも以下の要素が詰まっている。

  • シリーズ初の私設組織所属

  • 一方的な選抜ではなく戦う前にメンバーの決意が入る

  • 正しい科学VS間違った科学

  • 滅んだ文明のオーバーテクノロジー(宝石とレリーフ)

  • 強烈な色気=存在感を誇る女幹部・マズルカ

  • 「ゴレンジャー」以来となる中盤での武装強化

  • 歴代初の司令官不在の戦隊

最低でもこれらの要素が後のシリーズで洗練された形で提示されているわけであるが、最初の3つは「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」までの上原正三メインライターの戦隊にはなかった要素である。
強いて言えば「デンジマン」が私設組織に近いが、あれとて選考基準は完全にアイシーの一方的な選抜であり「お前は今日からデンジマンだ」で有無を言わせず戦隊メンバーにされていた。
それがこの「ゴーグルファイブ」から曽田博久の全共闘の思想が入り出し、戦う前に戦士たちが「よし!俺たちがやろう!」というフェーズが入るが、実はこれが大事なのである。
上から言われたことをなあなあで受け入れるのではなく、自分たちで戦いを決意してこそであるし、そうでなければ戦いはできないというのが曽田博久の作家性なのだ。

また、本作にしかない特徴として「コンピューターボーイズ&ガールズ」という、5人にとっての司令官が実は子供であるという本作ならではの設定が存在する。
しかも4話の桃園ミキが大怪我を負い子供たちがそれに責任を感じてしま展開までもが描かれているわけで、このような葛藤をめぐるドラマは既に本作で描かれていた。
これらのことを解説していくだけでも実はまだ言語化されていない「ゴーグルファイブ」の魅力を批評として言語化できるはずなのに、なぜそれを「空っぽの器」「テンプレ」で片付けられようか
それは自らの無知のみならず、作品の魅力を自分なりの言葉で言語化し他の人に伝わるようにしていこうという意欲がない、つまり向上心の無さの表れと見て間違いないであろう。

もっともそれは「ゴーグルファイブ」に限らず、彼らが高く評価していると思しき名作群(『チェンジマン』『ジェットマン』『カーレンジャー』『ギンガマン』『タイムレンジャー』など)もそうである。
「戦うトレンディドラマ」の「ジェットマン」や「狂気の浦沢ワールド」の「カーレンジャー」だってまだまだ言語化されていない細部の魅力はたくさんあるはずだ。
「シンケンジャー」にしたって未だにファンの間では丈瑠の正体に関する終盤の展開だけが取り沙汰されがちであり、まだまだその魅力の全てが真に語られ尽くしていない
せっかく今は東映特撮FC・YouTube・ニコニコ動画といった有用なサブスクリプションがあるのだから、それらを存分に駆使してもっと画面を隈なく見るいい機会である。

別に今の見方を大きく変えていこうという気がないのであれば私もとやかくいうつもりはないが、同じスーパー戦隊ファンとしてそれはどうなのかという違和感と憤りは残る。
スーパー戦隊シリーズの魅力は個々の作品においても、そしてシリーズ全体としてもまだまだ語る余地は残されているわけだが、そこに気づくかどうかで大きく見方は変わってくるはずだ。
既存の言説に乗っかるだけならまだまだ、「この作品にはまだこれだけの魅力が残っている」ということをいえるよになってこそ真のスーパー戦隊ファンではないだろうか。


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