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井上敏樹・小林靖子は本当に「人間」を描いていたといえるのか?

スーパー戦隊論が最近なかなか捗らずにいるわけだが、決してサボっているわけではなく、過去の自分が書いた感想・批評をしながら「これって正しいのだろうか?」という自問自答をしているのである。
そのためにはやはりスーパー戦隊以外の映像作品を見たり批評本を読んだりしてもっと鍛錬する必要があるし、思考の枠をもっと広げなければ見えてこないことがあるとわかっているからだ。
そこで最近疑問に思うことなのだが、よく特撮ファンが作品を褒めるときに使う「井上敏樹・小林靖子は「人間」を描く」が事実だといえるのか?

それこそこちらの記事で引用させて頂いている結騎了は「小林靖子は人を描く」などといっていて、井上敏樹にも同じようなことを述べているが、以前から私はそうだとは思えなかった。
一見、特撮ファンがよく使う既存の言説に対して「いや違います、小林靖子はこういう脚本家ですよ」と反駁を試みているが、むしろこの意見はかえって既存の言説に同調・迎合しているだけではないか
そもそも、私は『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』辺りのような「大人の鑑賞にも耐える高尚な文芸作品」なるものを論じる時に使われる「リアリティー」に全く賛同できない人間である。
『スター・ウォーズ』をパクって宇宙や地球のあちこちでドンパチやったり「逃げちゃダメだ」なんて言いつつ使徒という不気味なもんと戦ったりする作品のどこにリアリティーがあるのか?

例えばこちらはそういった批評の典型である。

「ブレードランナー」や「マトリックス」などの近未来SFに見られるような、先鋭的な空間デザインは、この世界にはありません。それは視聴者が「自分と近い」と感じられるようなリアリティを何よりも重視して作られているからです。見る人はその生活空間に、特に何の抵抗もなく入り込むことができるのです。

https://www.muddy-walkers.com/REVIEW/0079.html

はたして本当にそうか?
私はかれこれ何度も『機動戦士ガンダム』を見ているが、一度もあの生活空間を「自分と近い」などと感じたことはないし、それは自分が原体験で見たアナザーガンダムも同じである。
では人物描写はどうかというと、例えば部屋に閉じこもってメカを弄っているアムロや毒親のエゴに振り回されているシンジ君に共感できたかというと、ちっとも共感できない。
それは他の人物に対してもそうだし、もっといえば生身の人間が演じているテレビドラマにしたってあくまで「作り物」でしかないのだから、リアルもクソもあるか

そしてそれは井上敏樹・小林靖子にしたって同じことであり、よく特撮ファンは彼らの脚本をして「人物描写が細かい」と評するが、これとて所詮印象論でしかないであろう。
以前にも述べたが、そもそも映像作品において脚本がどの程度作品のクオリティーに影響するかはわからないし、脚本を元に具現化していくのはあくまで役者と監督ら現場のスタッフだ。
井上敏樹は「自分が作った脚本を役者や監督たちが超えてくれるのが楽しみ」と言っていたし、小林靖子だって「脚本に自分らしさは必要ない」といっている。
実際、脚本にないアドリブで生まれたものが名セリフになることだってあるし、脚本を超えた画面の動きが(アクション含め)視聴者の感性を揺さぶることもあるのだ。

そもそも映画・テレビドラマ・アニメ・漫画を問わず全ての画の表現は「フィクション」であり、固定されたキャメラから空間を切り取って役者たちが「記号」として演じているにすぎない
そう、例え井上敏樹だろうが小林靖子だろうが、全てのヒーロードラマは「フィクション」でしかないし、そこに描かれている登場人物は全て「記号」でしかないであろう。
問題はその「記号」がどのように画面の中で表現されており、それが見ている側の感性にどのような影響を与えるか、そして最終的には面白いか面白くないかでしかない。
だから私は「思想が優れているから高尚な名作、表層でしか語れない作品は低俗な駄作」という評価をいい加減改められないものかと思えてしまう。

思えば『鳥人戦隊ジェットマン』を「戦うトレンディードラマ」、『未来戦隊タイムレンジャー』を「思想」と宣ってしまうのもそうした批評の一環なのであろうか。
どこまで人間描写を細かくやってもそれは決して「リアル」でも「緻密」でもない、「記号」の表現の仕方が他とはやや異なっているというだけの話である。
そこの部分から見直すことをやっていかないと、スーパー戦隊をはじめとする特撮批評は変わっていかないのではないかと思えてならない。


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