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『デジモンアドベンチャー』(1999)再視聴の簡易感想〜ポスト「ポケモン」にはなれなかった、排他的差別主義と選民思想が作品全体に滲み出ている時代の敗北者〜

『デジモンアドベンチャー』(1999)を10年ぶりくらいに再視聴したので、簡潔にだが感想・批評をば。

評価:F(駄作)100点満点中15点

こないだ「フロンティア」に書いた時のC(佳作)という評価と大きく違うではないかと読者の皆様はお思いだろうが、「Vテイマー」と「02」以外はあくまでだいぶ前の評価なので、改めて2024年現在に見直した上での評価ではないことを明記しておく。
ネットではやたらに「デジモンシリーズは全体的にクソだが無印のアニメは別格」みたいなことが宣われ、それこそ作品データベースやAmazonのレビューでも高評価なので本当にそうかと思って見直したが、さっぱり魅力がわからなかった

こちらの解説動画やコメント欄でもやたらに初代を賛美する声が高いが、何だかどうにも『君の名は。』『鬼滅の刃』がやたらに称賛されるのと似たような気持ち悪さを感じてしまう。
私はやはり「王道」が好きではあるのだが、同時に世間一般の評価とは根本的な感性の部分でズレが生じてしまうらしく、私にとってのアニメ版「デジモン」は正にそんな作品である。

そもそも本作のコンセプトというかキャッチコピーの「ポケモン卒業生集まれ」や本作に登場する「選ばれし子供」という単語、しかも8人8体のクソガキとそのパートナーデジモンのバランスも全てが今見直すと反吐が出る程に気色悪い
まず「ポケモン卒業生集まれ」に関してだが、何を勝手に「ポケットモンスターはあくまでクソガキ向けで、大人になったらそれを卒業するもの」というような、しかもそれが至極当然みたいなスタンスなのかが理解できないのである。
少なくとも私に関しては「ポケモン」の初代原体験世代だが、度々離れることはあっても大人になるとふと「ポケモンやりてえなあ」と再熱する瞬間はあるし、一時期離れて戻ってくるのを決して「卒業」とは言わない
スーパー戦隊シリーズしかり勇者シリーズ然りジャンプ漫画然り、なぜ子供の頃に好きだったものを大人になってもずっと好きで居てはならないのか、自動的に卒業するのが当たり前でそれをずっと好きでいるのがださいみたいな決めつけをしているのか?

確かに「ポケットモンスター」に関していえば子供の頃は誰しもが一度はその世界に熱狂し、時には寝食も忘れるくらいにのめり込んでプレーするものであり、私も本当に一度「ポケモン」をやり出すとそれをとことん極めるまでやりたくなる。
それをこの初代『デジモンアドベンチャー』は「卒業生集まれ」などと言い放ったことにより無自覚に「ポケモンは所詮中身のないクソガキ向けの低俗なもの、リアルな世界観と設定・ドラマを持つデジモンこそが真に高尚な作品」だと言い放ったも同然だ。
要するに「ポケモン」を喧嘩に売って敵に回すようなことを言ってるわけであり、しかもこの手法は一回ではなく『美少女戦士セーラームーン』に喧嘩を売った『ママレードボーイ』然り『カードキャプターさくら』に喧嘩を売った『おジャ魔女どれみ』と同じである。
本作から「フロンティア」までチーフPとして携わる関弘美のお得意な手法なのだが、端的に言ってしまえば「コバンザメ商法(認知度や集客力のある店舗と類似した業種で店舗をその近くに構えて、認知度や集客力のある店舗のおこぼれをもらう阿漕な手法)」だろう。

そうなのだ、関弘美に関する個人的嗜好も含んだ評価を正直にここで書かせていただくなら、彼女は「ファーストペンギンになれない報われぬ苦労人」であり、いつの時代も「0→1」を作ることはできず「1→10」しかさせて貰えない後追いのプロデューサーである。
魔法少女ものにしろモンスター育成ゲームにしろ彼女が「卒業生集まれ」と売りにしているそのやり口は既にジャンルの基礎土台ができた上でその逆を行って後発者利益でお零れを預かろうとするニッチな隙間産業ではなかろうか。
それがたまたま大衆の認知度を得てしまうことになって私のような者の目にも留まったのが本作なのだが、そうやって豪語するほどのクオリティーがあったわけでもなく、単に「ポケモン」がやらなかったことをやったという奇抜さだけが受けた印象だ。
だから、私は本作は「モンスター育成ゲームもののアニメ作品」という視点では評価していないし、むしろその路線は同時期にメディアミックスでコミカライズされている『デジモンアドベンチャーVテイマー01』がしっかりやってくれている。

2つ目に、「選ばれし子供」という次作「02」まで使われる造語(英語でいうとdigidestined)が実は私は大嫌いである、なぜかというと「自分たちは特別な存在なのだ」という選民思想がそこに透けて見えるからだ。
確かに本作の8人の子供達は光ヶ丘のテロ事件の目撃者にしてたまたま夏のキャンプに参加していた子供達だったのだから選ばれていたのは事実だが、それを「選ばれし子供たちを、甘く見てもらっちゃあ困るな!」と自称するのは気持ち悪い
第一「選ばれし」とか「勇気」「友情」とか言ってゴテゴテと妙な理屈をつけてはいるが、彼らは家庭事情に闇を抱えている問題児だらけであり、そんな奴らがたまたまデジタルワールドに招かれただけで特権化されても全くかっこいいとは思わないのである。
これが例えば『星獣戦隊ギンガマン』(1998)のギンガの森の銀河戦士たちのように幼少期から戦士になるべく訓練を受け厳しい選抜を勝ち抜いて戦士の資格を勝ち取ったというプロ戦士ならともかく、太一たちはそこら辺にいそうな普通の小学生だ。

しかも次作「02」では大輔たち相手に無駄に先輩面して出しゃばっては足を引っ張る古参の老害と化しているものだから、余計に私は初代のこの8人8体の言動も行動も「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」レベルで嫌いなのである。
まあこれも恐らくは「ポケモン卒業生集まれ」の一環として「未熟なポケモントレーナーであるサトシとピカチュウの成長物語」と差別化を図った結果なのだろうが、そのせいで自分たちこそが特権階級みたいな勘違いが言葉にせずとも作品の個性として滲み出ていた。
そりゃあ「02」で「自分こそが選ばれし子供」と勘違いを暴走させたデジモンカイザーみたいなのが生まれるはずである、何故ならば本作の子供たちの暗黒面として登場するのがデジモンカイザーなのだから
あまつさえ、その選民思想は彼らのパートナーデジモンの種類と敵として立ちはだかるデジモンたちにもあるのだが、私が本作で最も相容れない要素だと感じたのは正にここだ。

これは意図的にそういう差配だったのかもしれないが、実は選ばれし子供たちのパートナーデジモンの中にはワクチン種とデータ種はいるがウイルス種やフリー種は一体もいないのである。
逆に彼らと敵対するデジモンはヴァンデモン然りエテモン然りナノモン然りダークマスターズ然り、ほとんどがウイルス種かデータ種でありワクチン種とフリー種がいない
これは物凄く偏っており、ワクチン=光=善、ウィルス=闇=悪という物凄く偏った稚拙な二元論で話を進めているのもまた今見返すと違和感でしかないのだ。
ましてやコロナワクチンが実は日本医師会の儲けのために作られたプロパガンダであり、打ったらとんでもない副作用があるという代物である現実が露呈してしまった今では排他的差別主義としか映らない。

そしてパワーバランスもグチャグチャで、8人8体もいながらたかがヴァンデモン一体やダークマスターズごときに無駄な苦戦を強いられているのは見ていて滑稽である。
デジモンアニメで一番絶望的なのが無印のダークマスターズ編と言われているが、ピエモンが指摘する通り選ばれし子供たちが負けるのは「究極体になって間もない」という言葉通り、紋章と進化のスペックに依存しているからだ
少なくともモンスターたちをどんどん倒して戦闘訓練を積み、ポケモンで言うところの「努力値」と「レベル上げ」をしっかり順当にやっていれば勝てるはずである。
現に漫画版「Vテイマー」のタイチとゼロマルは本作の選ばれし子供たちが無駄に苦戦したヴェノムヴァンデモンを完全体エアロブイドラモンのエアロナックルの一撃であっさりと粉砕してしまったのだから。

しかし、「ポケモン卒業生集まれ」なんて言った手前特訓やレベル上げなんてめんどくさいことをやりたくない関弘美ら作り手はそこで昼メロ路線の人間関係の泥沼を選択する
まるで「シリアスめいた人間ドラマを展開すればそれが深いドラマになる」などという、シンプルな王道のあり方を見失い思考を複雑化させる方向に走った三流作家が行きがちな方向性だ。
私が「デジモン」で見たかったのはそんなものでもないし、ましてや「勇気」「友情」だのと言ったクサいマジックワードで蓋をして逃げるような脳内お花畑のスイーツ思考でも絆()でもない。
「ポケモン」では見ることのできないデジタルモンスターならではの過酷なバトルであり、混沌に陥った世界を救う「ヒーロー」の物語であり、それは本作を見て感じられるものではなかった。

そういえばたまたま見かけたのだが、数年前のデジモンのインタビューで関弘美は本作も含むデジモンシリーズを「「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな親子3代に渡って楽しんでもらえる作品に育てたい」などと大言壮語をほざいていた。
だが、自身がポケモンブームに便乗する形で「卒業生集まれ」とか喧嘩売って始めたコバンザメ商法に基づいて作られた本作がお粗末なクオリティーになってる時点で、そんなものには到底なり得ないことなど容易に想像できたし、実際そうなった。
結局のところ「デジモンアドベンチャー」は一見時代の最先端を行き10年後や20年後にも語り継がれる名作を作ったつもりのようでいて、実はとんだババを引き当ててしまった作品のような気がする、少なくともアニメ版に関しては。

そうして当時も今も一度たりとて「ポケモン」を超えることができないまま時代の敗北者になってしまった、憐憫の情すら寄せるのも躊躇われるのが私にとっての『デジモンアドベンチャー』という作品である。

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