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努力・友情・勝利?いいえ、才能・環境・勝利です!

すみません、本日ある記事を一本投稿したのですが、誤って削除してしまいました。
バックアップも残ってないので再掲載は不可能です、どなたかが魚拓を取って私の方に送付してくだされば話は別ですが。
でもあの記事は正直考えがまとまってないままグチャグチャになって投稿してしまったので、あれから少し考えを整理しました。
ということで、ここからはいつもの「だ・である」調で偉そうに書いていきますが、ついてこれる人だけついてきてください。

最近『ONE PIECE』『NARUTO』を読み返していて思うのだが、このブログで批判されているように、私はどうもこの手の目標を宣言する直情径行な主人公が幅を利かせる作品が好きではないらしい。
『ドラゴンボール』をはじめとして私はジャンプ漫画のいろんな作品を読んできたが、結局自分に合う作品は『ドラゴンボール』『テニスの王子様』『ワールドトリガー』のようなアンチ熱血風の作品である。
というか、「黙して語らず」みたいなタイプの淡々とした、でもバトルや見せ場のシーンのドラマがしっかり詰まっている作品の方が好きなのかもしれないということに最近気付いた。
それでいうと、実は『SLAM DUNK』の桜木花道も好みでいえばそんなに好きではなかったりする、ちょうど流川楓のような気持ちで才能は認めつつも桜木にイライラしながら見ている。

昨日の記事に「ドラゴンボールは根性論や熱血スポ根と呼ばれるものに対して冷めておりドライである」という指摘を受けて確かにハッとした。
あの漫画には確かに場面という場面での盛り上がりは見せても、従来のジャンプ漫画にありがちな熱血スポ根にありがちな押し付けがましさがないのがとても心地いい。
アニメオリジナルの短編映画だと「地球を守る」だの「仲間のため」だのとありがちな「正義の味方」に改変されがちな孫悟空だが、原作の鳥山先生が描く孫悟空はそんなことを言わない。
映画「神と神」の前にめざましテレビに出演した時の野沢雅子と鳥山先生の対談の中で悟空のことを「強くなりたいというのだけをもって描いてきた」と言っていた。

そう、孫悟空が地球を救ったり人助けをやっていたりするように見えるのはあくまで「結果論」であって、悟空やベジータはただ強くなりたいだけの男である。
むしろ地球人としての正義の味方の意識を持っていたのは孫悟飯とピッコロの2人だったし、その2人ですら普段から慈善事業として地球を守っているわけではない(グレートサイヤマンは除く)。
ギニュー特戦隊がそうであるように、鳥山先生は特撮作品に対する愛やリスペクトはあっても、それ故にこそ下手に自分の作品をありがちなヒロイズムに持っていかないのだ。
それが逆に「ドラゴンボール」が世界的ヒットを巻き起こした理由にも繋がっていて、「ドラゴンボール」には特撮作品や他のジャンプ漫画にありがちな傲慢・偽善・独善・欺瞞がない

それは「テニスの王子様」「ワールドトリガー」においても同じことであり、「テニスの王子様」は青学がそうであるように「テニスを楽しむためのテニス」というテーゼが私は大好きである。
主人公の越前リョーマは全然熱血していないしルフィやナルトみたいにけたたましく目標を口にしないが、テニスに対する情熱というか内に秘めたる熱さは誰にも負けない。
しかし、最終決戦の幸村精市を倒すときに出た「天衣無縫の極み」もありがちな熱血表現ではなく、むしろ涼しい顔をして淡々と敵を圧倒していく
どちらかといえば熱血というか昭和のスポ根要素が強いのはライバル校であり、特に不動峰と立海はその傾向が強かったのではないだろうか。

「ワールドトリガー」では私は太刀川慶が絶妙なアクセントになっていて好きなキャラであり、従来のジャンプ漫画の根性論をズバッと正論でぶった切っている
この爽快感はどうしても熱血が王道として幅を利かせがちな『ONE PIECE』『NARUTO』では見られないものだし、それこそ『鬼滅』はありがちな正義感の押し付けで辟易していた。
『鬼滅の刃』が実際のところヒットした理由はジャンプ漫画ではあまり見受けられない勧善懲悪という東映特撮や時代劇のような勧善懲悪を取り入れたからである。
別に深い思想を語ったわけでも何でもなく、単純に主人公たちが鬼をやっつけるというだけの単純明快なストーリーにしたから普段ジャンプを読まない層にも刺さったのだ。

だが、改めて思うのは勧善懲悪ものの難しさであり、私が「鬼滅」を根底から信用できなかったのは勧善懲悪を決して売りにしていないジャンプ漫画でそれをやったことが大きく影響している。
この事実が何を示しているかというと、人間はいつの時代も結局はシンプルなものをこそ求めていて、複雑で高尚な頭を使うような作品を求めていないということだ。
これは1971年の『仮面ライダー』がそうであり、あれだって最初は「同族殺し」「改造人間の悲哀」などと重苦しくご大層なテーマを掲げて始めたが、最初は伸び悩んだ。
「仮面ライダー」がバズったのは藤岡弘が大事故に遭って2号編からシンプルでライトな作風にしたからだが、正に「鬼滅」のヒットもこれと似たようなものだろう。

だが、やっぱり長年特撮作品を見て目が肥えている私にとって、『鬼滅の刃』は勧善懲悪としても底が浅くてとても見るに耐えない作品であった。
それはスーパー戦隊シリーズが何十作という歴史の中で積み上げてきた勧善懲悪のヒーロー論を漫画家風情が安易に扱ってしまうとどうなるかが見えているからであろう。
話を戻すと、『ONE PIECE』『NARUTO』はギリギリのところで勧善懲悪にはしていないが、それでもやはりルフィなりナルトなりがけたたましく主張する正義感の傲慢さが鼻につく
ルフィもナルトも普段は陽気にバカやってるだけの癖して、戦いになると途端に正義の味方や義賊みたいなツラをするから「いい子ちゃんぶりやがって!」と言いたくなる。

だが、それ以上にもっと腹立たしいのはルフィもナルトも才能・環境・運・縁があって今の自分の地位と名誉を確立してきたのに、さも仲間の友情や努力・根性が大切だと訴えてくることだ。
いわゆる「努力・友情・勝利」というジャンプ漫画の三本柱だが、よくよく見ていくとジャンプ漫画なんて昔から「才能・環境・勝利」ではないかと思えてならない。
孫悟空や越前リョーマもそうだが、ジャンプ漫画の主人公は(もちろん例外はあるが)親ガチャに当たっている「選ばれしもの」であることがほとんどだ。
例外は「SLAM DUNK」の桜木花道辺りだが、あれだってとんでもなく高い身体能力と成長率があるし、そういう「恵まれた個性」がないと話は成り立たない。

実際、ルフィなんて祖父は海軍のお偉いさんだし父親は革命家、更に義兄弟のエースの父親は海賊王というとんだ親ガチャであり、幼少期からの環境・運・縁に恵まれまくっている。
うずまきナルトにしたってそうだ、彼も一見落ちこぼれの田舎のマイルドヤンキーがジャイキリでのし上がったように見えて、事実は逆で彼も親ガチャに当たっていた。
九尾の力がお腹に封印されていて莫大なチャクラを持ち、4代目火影の波風ミナトを父親に持ち、更に伝説の三忍の1人である自来也に弟子入りしている。
孫悟空にしたってやはりサイヤ人の下級戦士の中でも上位の強さを持ったバーダックの息子という親ガチャだったし、越前リョーマなんか最初からその親ガチャを設定として打ち出していた。

なぜこのような設定になっているかというと、ジャンプ漫画も結局は根っこの部分で「神話」の構造を用いているからであり、芸能界やスポーツ選手と一緒でそこに選ばれるべくして選ばれている。
炭治郎だってあんなに強くなれたのは鬼殺隊に入ったからというだけではなく、元々鬼を殲滅する剣術を磨いた特殊な家系だからであって、結局親ガチャであり友情でも努力でもない
努力や友情なんてものはあくまで「結果論」でしかなく、まず血筋を含む才能とそれを伸ばせる適切な環境があって初めて形成されるものだし、またそれが絶対でもないのだ。
それに私は自分自身がそうだからというのもあるが、ルフィやナルトみたいな目標を口にして暴れ回るビッグマウスタイプの主人公は好きじゃないのである。

私はどちらかといえば流川楓やうちはサスケ、ロロノア・ゾロみたいな野望はあっても内に秘めて寡黙に結果を出す不言実行の渋さを持っている方が好きなのだ。
どんなに口で目標や理想を語っても結果を残せなかったら意味ないし、実際桜木花道みたいにビッグマウスな癖して退場連発するような失敗例も見てきているから。
孫悟空や越前リョーマのような主人公が好きなのは語らずともしっかり結果を残してみせるからであり、ビッグマウスじゃなく淡々と着実に結果を出しているのがとてもいい。
友情や努力などこの風の時代において何の価値も持たないとわかっているのに、表向きはそれを信じているふりをして正義の名の元に暴力を振るう。

そういうタイプの主人公が私は好きではないのかもしれない、だから「ONE PIECE」「NARUTO」はヒットする理由には納得しているが、好き嫌いでいえば嫌いで肌に合わない。
いっそのこと無気力で眠たそうな大野智君タイプを主人公にしたジャンプ漫画を描いてみると受けるかもよ?(笑)

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