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『バトルフィーバーJ』(1979)パイロット感想〜公権力所属とヒーロー性の有無はあくまで別物である〜

また脈絡もなく東映特撮YouTubeで『バトルフィーバーJ』(1979)の無料配信が始まったが、今見直してみると色んな意味で「」というか、「浮いている」印象がある作品だ。
『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)の最終回後に放送された「スーパー戦隊大集合」というスペシャル回で「ゴレンジャー」「ジャッカー」が公式に加えられるまでは「バトルフィーバー」がスーパー戦隊の第1作目扱いを受けていた。
しかし、今見直してみると作劇といい設定といいスーツのデザインといい、明らかに色んな要素が噛み合ってないというか喧嘩していて、初代扱いにはしにくいし、かといって3作目として見るにもどこか中途半端である
そんなこんなで今改めて見直しているわけだが、故・上原正三がメインライターを務めていた時代のスーパー戦隊シリーズは本作を含めて「公共機関に所属する」という設定が根幹にあることがわかるだろう。

なぜ今回急遽本作の感想を書くことにしたかというと、タイムリーに私が以前書いた「公権力とヒーロー」の記事に以下のようなコメントに来ていたので、それに答えるためである。

うーん、ウルトラマンもゴジラもガンダムも一部の例外に過ぎない、というのは違和感があります。科特隊とか地球連邦軍は現実には存在しないから別ってことでしょうか?

>警察や自衛隊は出てこない。なぜなら、出てきても役に立たないからである。

これも嘘じゃないかなあ。戦闘に貢献できないとしても調査とか補給とか市民の避難とかヒーローたちから見てやってほしいことは山ほどあると思うんですが。
多くの人が警察や自衛隊が出てこないことを突っ込むのは、ヴィランのせん滅はできないとしても、街や人に被害が出るような事件があれば警察や政府は何かしら対応するはずだ、という意識があるからでしょう。
ヒーロー物でそれを描かないのは単に面白さにつながらないからですよね。描写してもつまらない部分は省略してるだけだと思います。

公権力が常に正しいわけではない、というヒュウガさんの意見には100%同意しますが、ヒーローが公権力の一部になっていない理由にはならないと思います。

こういう反論が来たわけだが、私は別にこの意見に対して反論しようというわけではない、書いてあること自体はその通りだし、昭和は公権力(自衛隊・警察)型のヒーローも少なくなかった
例えば『ウルトラマン』の科学特捜隊や『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊、『ゴジラ』に出てくる自衛隊など確かに昭和時代は公共機関に所属するヒーローは多い。
『機動戦士ガンダム』のホワイトベースも地球連邦軍という所属だが、これらはあくまでも架空の所属部隊であって現実に存在する軍隊・警察などの公権力とは違うであろう。
バトルフィーバー隊にしても対エゴス用に特化した戦闘部隊であり、言うなれば『秘密戦隊ゴレンジャー』のイーグルに所属するゴレンジャーの5人と大きな差はあるまい。

本作が「ゴレンジャー」「ジャッカー」と異なるポイントの1つに「警察・自衛隊とはあくまでも別の部隊である」という設定が登場人物の動きや話の特徴に活かされているということだ。
初期二作は徹底して鍛え上げられたプロの戦士達だから、いわゆる「世間とのつながり」をあまり描く必要がなく、敵対する組織との駆け引きや戦いに焦点を当てて話を描けばそれでよかった。
しかし、同じことを何度も繰り返していては手詰まりになるので、本作は各国の精鋭から集められた踊りを鍛え上げた今時の若者達という設定にしてあるが、これが意外にも面白い。
例えば2話目でいきなり仕事そっちのけでパチンコに興じている謙作やディスコで踊り狂っている京介を倉間鉄山将軍が「バカモノ!」と叱り飛ばし、リーダーの伝正夫もこれに呆れるシーンがある。

ここで示されていることとして、彼らは国際的組織に所属していながら、普段はそこら辺にいる若者達と何ら変わるところのない等身大の若者という感覚が描かれているだけではない。
もちろんそういう側面もあるし、この描写が後々の『激走戦隊カーレンジャー』(1996)でもパロディとして使われているのだが、この設定にはもう1つの意味がある。
それは何かというと、バトルフィーバー隊はあくまでも「対エゴス」に特化したエリート集団であって、警察や自衛隊とは全く違い怪事件が起きても動じない連中ということだ。
この後の話でも5人は基本的に「普通の若者」であり、いわゆる普通の犯罪が起こった程度では「そんなの知ったことじゃない。放っておけ」という態度で応じている。

しかし、その怪事件や犯罪の裏にエゴスが絡んでいると知ったら話は別、血相を変えて一致団結し戦意高揚させて戦うのだが、この描写が個人的には絶妙に思えるのだ。
「バトルフィーバー」の面白い点は「公権力ヒーローだが警察・自衛隊とは違う」という点を若者達の人物描写と行動によって視聴者に伝えていることである。
これは長らくの間公的動機をメインとして戦うヒーローを描いて来た上原正三をはじめとする当時の作り手の中で偶然にそうなったか、意図的にそうしたのかは明らかではない。
どちらにしても「公権力側」であることと「ヒーロー性の有無」はあくまでも別問題であるということを本作は話の根幹に組み立てて来ているのである。

だから「ヒーロー物でそれを描かないのは単に面白さにつながらないからですよね。描写してもつまらない部分は省略してるだけだと思います」というのはその通りだ。
もちろん、中には「デカレンジャー」「ルパパト」のようにヒーローと公権力が等式で結ばれる作品も存在するが、「ヒーロー」であることを「職業」とするとややこしい問題が生じる。
なぜかと言うと、ヒーロー性とは本来「守りたいと思う優しさ」「正義」「使命感」といった「心」の部分が大事であり、それが公権力所属か否かは本来別問題のはずだ。
しかし、それを例えば軍人や警察という形で「お仕事」にしてしまうとどうしても「義務感」が発生し、戦うことが「ノルマ」みたいになってしまう

現にこの辺りの上原正三〜曽田博久がメインライターを担当していた時代の軍人戦隊を90年代にそのままやろうとして迷走してしまっているのが現在配信中の『超力戦隊オーレンジャー』(1995)ではないか
あれなんかは最初に「公権力ヒーロー」という設定をあの堅苦しい星野吾郎隊長らによって印象付けたのだが、それが作品そのものを蝕む毒になってしまい話が無味乾燥になってしまっている。
最初にエリート軍人という設定にしたために第一印象は凄かったのかもしれないが、年間のドラマとして続けていくとなるとそれ自体が作劇の幅を狭めてしまい面白みが削がれてしまうのだ。
そう、作り手が「公権力に所属するヒーローだから」という「あるべき」を決め打ちしてしまうと、年間のドラマを描く上で色々と支障が出てしまうのである。

また、「オーレンジャー」を見ていると「どうしてそこでそんな行動や描写になるのか?」といった無理が生じてしまいうのだが、その1つが「大企業病」だ。
吾郎たちはバラノイアが怪奇現象やら何やらを意図的に仕掛けたとしても、個人の判断ではなく常に三浦参謀長というボンクラ司令官にお伺いを立てて動かなければならない
しかし一方で、なぜか軍人であるはずの彼らが普通にオフの日に夏祭りに出かけたり、作戦とはいえ夏祭りの法被を着てアホみたいな作戦を決行したりしているのはどうなのか?
しかもブラックマグマばりに宣戦布告をしておきながら、割と街並みの描写が現代的で明るく平和なようであり、明らかに齟齬を来している。

こういう風に「ヒーロー性」と「公権力所属」であることをガチガチに設定してしまうと身動きが取れなくなってしまい、あちこちで破綻が出てしまう
「バトルフィーバー」はその辺りを敢えて詰めずに余裕を持たせているわけだが、この「公権力所属」と「バトルフィーバー隊のヒーロー性」をしっかり書き分けているのが本作のユニークさである。
公権力ヒーローのあり方について、やや変化球ではあるのだが、試みとしては非常に面白く、まだシリーズ物の基礎文法が固まっていないこの時代だからこそできた遊びだったのかもしれない。

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