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持つ者と持たざる者、公的動機と私的動機、中央集権と自律分散、それらを併せた先にあるスーパー戦隊のイデア(理想)とリアル(現実)その1

今年YouTubeで見たスーパー戦隊シリーズは実に面白いというか、シリーズの歴史を縦にも横にも見られるような並びの作品が多い。
ニコニコ動画では『秘密戦隊ゴレンジャー』、東映特撮YouTubeには『バトルフィーバーJ』『忍者戦隊カクレンジャー』『超力戦隊オーレンジャー』『未来戦隊タイムレンジャー』『炎神戦隊ゴーオンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』『獣電戦隊キョウリュウジャー』が並んだ。
そして現役がシリーズの中で「ヒーロー同士の覇権争い」を描いた『王様戦隊キングオージャー』なのだが、今年並んだ作品を改めて見るとスーパー戦隊が根幹の部分で抱えている本質について改めて考えさせてくれるものばかりであると思う。
以前から私はスーパー戦隊シリーズに関して公的動機と私的動機、中央集権と自律分散の二軸を中心に考えてきたわけだが、それでも今ひとつシリーズの本質について迫れている気がしなかったのである。

だが、最近これらを見ていて改めて発見したこと、これはスーパー戦隊シリーズに限らずあらゆるヒーロー作品が抱えている問題だが、最終的には「持つ者と持たざる者」に二分されることに気づいた。
というのも、これに関しては私が以前に酷評した『炎神戦隊ゴーオンジャー』で追加戦士のゴーオンシルバー・須塔美羽がゴーオンレッド・江角走輔に以下のようなことを言っていたのである。

「ヒーローの価値は、くいもんとか、服装とか、そんなんじゃねえんだよ。ここ(心)だ」
ヒーローは人を幸せにする使命がある。人を幸せにするなら、自分も幸せの何たるかを知らねば」

ここには残酷なまでの「持つ者と持たざる者」、すなわち「富める者と貧しき者」「強き者と弱き者」の冷徹な価値観の相違が示されているわけだが、これをスーパー戦隊シリーズ全体の問題に置き換えるともう少し話を広げられる。
それは歴代のスーパー戦隊の歴史が如何に表面上をシンプルに見せかけながらも、奥底の部分で複雑な揺れ動きがあって歴史が積み重ねられてきているのかということの証左でもあるだろう。
スーパー戦隊シリーズの熱心なファンの皆様はお気付きかもしれないが、70〜80年代、即ち『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『地球戦隊ファイブマン』までの14作はこの「持つ者と持たざる者」が極端なまでに別れていた。

  • 持つ者:プロフェッショナル・公的動機・中央集権・強き者(ゴレンジャー・ジャッカー・バトルフィーバー・サンバルカン・チェンジマン・フラッシュマン・ファイブマン)

  • 持たざる者:アマチュア・私的動機・自律分散・弱き者(デンジマン・ゴーグルファイブ・ダイナマン・バイオマン・マスクマン・ライブマン・ターボレンジャー)

もちろん全ての作品がそうだというわけではないのだが、大体この図式に当てはめて二分されており、『秘密戦隊ゴレンジャー』を始祖とする「プロフェッショナル」戦隊と『大戦隊ゴーグルファイブ』を始祖とする「アマチュア」戦隊の2つが昔の区分だった。
前者は上原正三がメインライターを担っていた初期作品群、そして後者が曽田博久が9年間メインライターを担っていた作品というのも興味深いのだが、曽田博久は正確にいうともう少し作品ごとにばらつきがある。
「ゴーグルファイブ」「ダイナマン」「バイオマン」「マスクマン」「ライブマン」「ターボレンジャー」が「アマチュア=持たざる者」であり、残りの「チェンジマン」「フラッシュマン」「ファイブマン」が「プロフェッショナル=持つもの」という図式だ。
スーパー戦隊シリーズはウルトラマンや仮面ライダーに比べると「素人が偶然に力を手にしてしまった」という図式で始まることが多いのだが、それはおそらく曽田博久が担当した80年代戦隊のほとんどが「持たざる者」の作品だったからだろう。

その上で上原正三と曽田博久の双方に共通していたのが「一度ヒーローとして描かれたからには個人の幸福は全て捨て去らなければならない」という「自己犠牲」の精神であり、時にはそれがなければ勝てない程に敵に打ち勝つ絶対条件としてあった。
『地球戦隊ファイブマン』の最終回ではそれを崩すように戦いを終えた星川兄弟が宇宙にいる両親の元へ旅立つ前向きなラストを飾ったが、それでも「両親との再会」が直接的に映像で示されていない以上再会を本当に果たしたかどうかは定かではない。
そんな暗黙の了解というか絶対的に破ってはならない黄金律のようなものが大枠としてあった中で、初めてそのジンクスのようなものを打ち破ってシリーズ全体へのパラダイムシフトを起こしたのが『鳥人戦隊ジェットマン』だったのである。
明確にこの作品から「持つ者と持たざる者」の図式が大きく崩れ、「ヒーローだって所詮は一人の人間なのだから、個人の幸福を追求してもいいのではないか?」「持たざる者には持たざる者なりの持論がある」ことを示したのだ。

「ジェットマン」という作品の悪辣にして革新的な部分は設定面で「持つ者=強き者」のレッドホーク・天堂竜と小田切綾長官、そして「持たざる者=弱き者」の素人4人の混成部隊にしたことである。
ここでまず上原正三・曽田博久が提示した価値観を大きく打ち崩し、さらにその上で戦いの動機も初期が公的動機かつ中央集権に猛反発しながらも従わざるを得ないという感じで続いていた。
しかし、これ自体が後半に向けて崩壊させるための図式に他ならず、実は「持つ者=強き者」の天堂竜こそが精神的には最も持たざる者=弱き者で、亡き恋人・葵リエを救うという私的動機で動くことが明らかになる。
そしてまた、それまでは竜の言うことに反発ばかりをしていた4人がそんな竜の「弱さ」に共感し受け入れることで徐々に自律分散型のチームとして動いて行くようになったという明確な転換が描かれていた。

単なる「戦うトレンディドラマ」などという陳腐な評価では決して語り尽くせないパラダイムシフトを1年がかりで起こし、そのことによって「70・80年代戦隊の死」を司り90年代に向けてエネルギーの転換を起こしたのである。
つまり、上原正三・曽田博久が示した二極の価値観が「ジェットマン」という作品を通して大きくその価値観が平準化されていくのだが、それでもまだ本当の意味で等しい価値観になったわけではない。
この「ジェットマン」が持ち込んだパラダイムシフトは結局のところ「シリーズにおいて尊い試み」程度にしか評価されず、杉村升がメインライターを担当した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『超力戦隊オーレンジャー』ではまたもや80年代戦隊の図式に戻る。
持つ者と持たざる者の差異を無くしていき、最終回で結婚式という大人の通過儀礼を経てスーパー戦隊シリーズはその価値観を一度平準化させたにも関わらず、結局その後の4年間はまたもや「持つ者と持たざる者」になってしまった。

よく「ジュウレンジャー」〜「カクレンジャー」を「戦隊黄金期」と呼ぶ人は多いが、それはあくまでも「科学的な世界観から非科学的(魔法的)な世界観へ変わった」という外面の変化のみを捉えた時の話である。
だから内面の部分、即ちヒーロー側の設定や動き方などに関してはむしろ再び以前に逆戻りしてしまったと言っても差し支えはなく、その弊害が最悪の形で出ているのが現在配信中の「オーレンジャー」であろう。
シリーズ屈指の玩具売り上げを叩き出しているにも関わらず年間の平均視聴率は4.5%と90年代戦隊の中でも一際低く、やっている内容もほとんどが70・80年代戦隊でやり尽くしたネタの焼き直しの域から抜け出ていない。
実際、「オーレンジャー」という作品は「チェンジマン」以来となる職業軍人戦隊という「持つ者」として描かれているにも関わらず、一度もその価値観やヒーロー像が見ている者の感性を揺るがす瞬間が存在しないのである。

悪い意味での「世間の人が思うスーパー戦隊シリーズとはこういうものである」というパブリックイメージをただなぞった描写に過ぎず、その作品だからできること、スーパー戦隊シリーズだからできる創意工夫が感じられない。
皮肉にもメインライター・杉村升がそれまでのスーパー戦隊を支えてきた上原正三・曽田博久・高久進などを招いてしまったことで自分たち自身が過去の成功体験に縛られたエピゴーネンと化してしまったのである。
せっかく「ジェットマン」で1年をかけて起こしたはずの革命が無に帰するところだったわけであり、「持つ者には持つ者」の、「持たざる者には持たざる者」なりのヒーロー像を更に解像度を上げて組み直すべきだった。
正にその「持つ者」と「持たざる者」のヒーローフィクションの本質に3年かけて切り込んだのが高寺P三部作(「カーレンジャー」「メガレンジャー」「ギンガマン」)であろう。

いうまでもなく「カー」「メガ」が「持たざる者」の、そして「ギンガ」が「持つ者」の理屈なのだが、今回の話はひとまずここまでとする。
次回はこの「持つ者と持たざる者」が「カーレンジャー」以降でどのように再定義されたのかという流れを見ていこう。


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