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社会派フィクションって難しいよねって話

はじめに


 
 僕は一応小説を書いていて、読んでいただく方には「社会派」なんて言われたりしますが、正直2018年ぐらいから「社会派フィクション」っていうのはもう難しいんじゃないかと思っていたりしています。

 その理由としては作品の受け取られ方の変化、もっと言えば世の中の「創作」への意識の変化とでもいえばいいのでしょうか。
 最近求められることとして「当事者性の重視」や「現実との差異がより批判的に扱われる」とか「より明確に善悪をはっきりさせることが求められる」とかがあって、こういうのをまとめると「ノンフィクションとか報道でやったほうがいいんじゃないかこれ」ってなってくるんですよね。フィクションの持つ脚色性やダイナミズムがむしろよくないものととられることが増えているのかなぁと。特に、今現状で起きている社会悪をフィクションで描くのはかなりきつい(実際「現代に起きている問題をエンタメ化するな」という意見も見ました)と思っていて、「新聞記者」が批判にさらされているのもそう言う面があるなぁと。

(個人的には「フィクションだから改変はある」というのは全然ありなのですが、現代においてはおそらくそれはダメなのでしょう)

 もう一つ付記しておくと、前述した理由は、決して「悪いこと」ではなく、基本的には「いいこと」であり強いていえばその「副作用」であるのだと思います。もし悪いことなら無視すればいいのですが、そうではないので、おそらく何かの揺り戻しが来るまでこの傾向は続いていくのでしょう。

じゃあどんなものを書こう?

 

 特に、今はこういうのを書きたいと前から言っているのですが、「読者を宙ぶらりんなところ、なんともいえなくなるところに導きたい」と思っています。
 もちろん今後も社会的なテーマを取り入れた作品も書くでしょうが、その時にも単純に「どういう問題があって、何がいいのか(悪いのか)」を語るというより、何かそこに割り切れないもの、人間性といったらいいのか、ものすごく言葉では表現できないのですが、読んだ後読者が「え…え…?」となってもらえるようなものを書ければと思っています(社会悪を明示的に指摘するのがよくないと言っているのではなく、それはノンフィクションや報道の方が適切で、今社会派フィクションでそれをやるのは違うように感じるということです)。そういう意味で、僕は映画版の「新聞記者」のあの終わり方はわりと好きで、松坂桃李さんが演じる官僚のあの最後の姿、あれは本当に人間らしく、そしてそれこそが権力による巨悪が尽きることがない理由の一端なのだとそう思わせてくれました。あれはフィクションだからこそできることじゃないかなと思います。「ゲット・アウト」も、人種差別をテーマにしたホラーでありながら、何かもっと言い知れないものに届いているような、そんな感じを受けまして、ああいう感じが出せればいいのかもしれない、そしてそれは単純に言うと「人間」を描くということなのかもしれないと、そんなことを考えていました。



 ただ、そういうテーマだとやはり今現実で起きていることを下敷きにするのは決して簡単じゃないと思います。やはりまずは当事者の権利や尊厳を救うことが優先だろということになるでしょう(「ハゲタカと少女」は恐らく少女を救うべきという結論に完全になってしまっている)そしてそれは前述したとおりフィクションがやることとしてはあまり妥当じゃないのでしょうから。より寓話的にするとか、もっと昔の話にするとか、そういう感じになっていくでしょうか。ただそれでも、ある属性の描き方とかがまた色々議論にはなるのでしょうが。

もしよければ自分の過去作でわりと「社会派フィクション」なやつをあげておきますので読んでいただければ…。この中にはそれこそ直球で社会悪を告発するような作品もありますが。


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