田舎者と子供と世間知らずと、行きつく先は。

身の程を知る、現実的になる。そのためには大きな衝撃が必要だ。

僕らは小さいころから道徳とか綺麗ごととか人情だとか、調子が良いときにも悪いときにもてきめんの効果がある麻薬を浴びてきた。

調子が良いときは綺麗ごとを吐き、その様に振舞う余裕がある。若者に夢を与えられるし、何より模範的な感じもあって結局は商売をやりやすくなるメリットもある。
調子が悪いときは、綺麗ごとなんて吐いていられないし、なりふり構っていられない。みっともなく情けない姿を晒してしまうだろう。
これらは人間らしい反応で、誰しもが取りうる行動だ。

問題は調子が悪いにもかかわらず綺麗ごとを吐き続け、そのように振舞ってしまうことだ。(本当にできているかは置いておいて)

調子が悪いというのはお金がない、仕事がない、人気がない、能力がない、実績がない、頑張っても積みあがっていかないし、評価もされないような状態だ。本当は見栄など捨てて泥をすすってでも前に進むべきだ。

しかし、「良い音楽を作り続ければいつか売れる」「面白いネタをやり続ければいつか売れる」「面白い動画を作っていればいつかバズる」などなど。
芸事に限らず、「頑張っていればいつか評価される」「優しくしていればいつか彼女ができる」「誠実でいればいつか本当の友達ができる」などなどだ。

綺麗ごとは理想である。理想は未来である。理想は魅力的だ。
だから語っているだけで、あたかも何か事を成しているかのような錯覚に陥る。麻薬的だと思う。
綺麗ごとは期待である。期待は未来の放棄である。

綺麗ごとを吐くのは成功者と落伍者と、子供だ。
落伍者にとっての綺麗ごとは理想に見えて、ただの期待だ。

太宰治は「大人とは、裏切られた青年の姿である」と言ったがその通りだと思う。大人は綺麗ごとを吐かない。

僕は最近、大人になった。明確にその自覚がある。かなり遅くて恥ずかしいのだけれど。それまでは子供だったのかと思ったが、多分落伍者だったのだと思う。

大きな衝撃によって、綺麗ごとの麻薬から逃れ、世間や他人の裏切りに気づいた時、僕らは大人になれるのだろう。

「落伍者とは、裏切りに気づけないでいる青年の姿である」

からからんの名言として後世に語り継いでほしい。

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