ニュースとの接し方が分からない

生きているといろんなニュースに触れる。子供のころは良いニュースも悪いニュースも新鮮で、毎回あーだこーだ考えたり発信したりしていた。大人になると「同じ事が過去にもあったな」ということが増える。テレビ、SNS、ネットニュースが提示する論点は大体同じだし、自分が行きつく答えもほとんど同じだ。悲しいくらいに。

といって思考停止するとどこかで偏ってしまうので、毎回イチから考えるようにしている。ただ時々むなしくなってしまう。結局自分は考えるだけだし、ツイートするだけだ。いやまあそれが普通なのだけど。そう思うのだけど。

じゃあ何かできることがあるのか、首を突っ込んで何かしらの責任を負う覚悟があるかというとそこまでではない。かといってただの興味本位で考察をしているわけでもない。今すぐでなくてもどこかで役に立てるかもしれない(と期待している。誰に、何にかはわからない)。これは承認欲求に近いものかもしれない。

被害者、加害者、被災者、親族いろいろな当事者のことを想像する。でもそれは現場を知らなければ結局は想像だ。どれだけ事実や背景を押えたとしても足りないだろう。

考えれば考えるほど偏った見方をしてしまう可能性だってある。当事者の感情と当事者意識は全然違う。当事者意識を持っても、事件を正しく認識できるとは限らない。いや、そもそも正しい認識なんてあるかはわからない。あったとして、正しい認識をすることが正しいと言えるかもわからない。当事者にはなれないから本当のところははかり知れない。

記者を経てもなお、ニュースを見てどうしたいのかがわからなかった。大学生のころは高尚なべき論を絶叫していたが、それは間違っていた。僕は人間関係も仕事も、ことごとく距離感を間違えてきた。ニュースとも適切に距離を取るのが望ましいのだろう。

都度考えるのみ。たとえ似たような結論でも。
うん、十分じゃないか。

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