『オチ』#23

いっとう苦手である。話のオチをつけること、および、オチのある話をすること。複数人での会話になれば、面白いオチのある話をできる自信なんてないので口数が少なくなる(そもそも少ないのが、「一人喋りのターン・空気」に極小となる)。このnoteの文章末に関しては、「おあとがよろしいようで」とか「だれうま」って感じにしてなんとか、許してくだされって具合で納めている。それは序盤から中盤にかけて散らした話の、親戚とかいとこみたいな、言うなれば“血の繋がった他人”に文章末で登場してもらって「あれっ、最近どこかでお会いしましたっけ」って体験。
この手法は当然、私のオリジナルとか創作ではない。好きな小説家である吉田篤弘さんの文章内構成を参考にしている(つもり)。彼は私の小説への馴染みというか、本、文章を読むことを好きになったきっかけと言っていいぐらい存在感が大きく、読書の原初体験を形作っている。軽やかで、愉快軽妙な語彙と描写があり、立ち居振る舞いの見事な登場人物がいる。そして、物語導入部分に漂わせた香りを最後の一説でふわっと、鼻先をスッと横切る風で、思いださせる。落語的でもある。
伏線を回収していくのは読者の楽しみであり物語における醍醐味でもある。勿論、楽しみ方も書き方も千差万別である。言語表現と音韻の美しさを示す・楽しむ文章であれば、詩であるとも言える。ただ、オチのある詩もあろう。川上未映子さんの、『発光地帯』『魔法飛行』『安心毛布』この3冊は短めエッセイ集であるが、詩のように言語表現と音韻と息継ぎでできているものも多数収録されていて、お風呂で読むのがとても好きな本たち。オチらしいオチが無くとも、文は不思議と収束へ向かい句点で締められる。そう、詩的な感じの文章いくつかは文庫見開き2ページを読点だけで繋ぎ一文で書かれたものがありかなり衝撃もあった。読点のブレスだけで気持ちよく読み切れる文体、惚れた。
『オチ』をテーマに書き始めた文章ながら、「文章の締め方」を書いてしまっている。次元が一つ下がって少しメタ方面に行った。いま私の願い事が叶うならば、ベタでもオチが欲しい。その一方で、時々発散して拡散して散らばりまくった文章になることがあって(特に途切れ途切れに書いて継ぎ足したとき)、収束させたりオチをつけるのでなく、広がって広がって眼前に何も見えなくなるような文章を書ける技術が欲しいと願う近頃。まず、技術の前に、理想状態がイメージできていないところ、これは収束させて掴まねばならん。
今日は一切、オトしません。

#オチ #180110

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