マーケティングとデザインの噛み合わなさ

前から思っていたことなのですが、うーん、デザインって「消費財」なのかなぁ、と。マーケティングの賢い人に訊くとだいたいそういう答えです。「単なるコストでしかない」ということです。意思決定の基準は、数値化し、より高いものを選ぶ、ということで、極論をいうと「造形的にいい悪いなんて、知らん」ということです。まあ、それはそれで正しいです。すごく頭を使って施策を考えるマーケッターがそういうと「なるほど」と思うのですが、結構「にわかマーケッター」みたいな人が「だからデザイナーはさぁ〜」とかいう話を延々しはじめたりするのは正直めんどくさい(笑)。おそらく、2000年ぐらいには「かっこいいデザイン」を提案のキモにした企画書書いてたよね?ってツッコミを入れたくなる人にたまに遭遇することも...。わたくしが会ったなかで、信頼できるマーケティングの人は、Googleに在籍していた高広さんとFICCの荻野さんぐらいでしょうか。この二人はクリエイティブ表現でも実績を残していますし、様々な状況に対応する能力を磨いているので、言葉に説得力と重みがあります。

1.デザインの本質は「うつろい」
デザインを撰び取る過程は、効果を生み出すコストや数値から算出して考えることだという考えは正しいと思います。デザインは、それのみで自律的に存在可能な表現ではありません。デザインの本質は「うつろい」です。うつろうことで刷新されていく表現です。ですから、正直、デザインそのものはいかに造形的に優れていようがいまいが、強度は高くないと思っています。第一、Webだと技術や環境ごと陳腐化するので、まさに短期的な消費をされていきます。設計思想や技術、表現をアップデートしていかないと、単に古臭いというだけではなく、閲覧そのものが不可能になったりします。そういう意味では、まさに消費財であり、単なるコストです。目立たないよりは目立った方がいいですし、古臭いものは新しくしたほうがいい。コストをかけるのなら、効果を実感できる数値が帰ってくるものがよい、ということです。ただ、そこで「どうでもいい」という話が全てなら、デザインは社会的に本当に必要なのでしょうか、と考え込んでしまいます。

2.「うつろい」の蓄積の中に資産がある
ところで、ファッションの世界をみると、わかりやすく「うつろい」です。毎シーズン新しいものを提案し、過去のものは店頭に行っても、ほぼ買うことができません。消費者も過去の写真を見て「この頃はこういうのが流行ったよね、今はとてもじゃないけど恥ずかしくて着られない」なんていう話になることがあります。
しかし、「あんな格好してたよねぇ、恥ずかしい」の繰り返しかというと、実はそうでもなくて、「でも2000年のトムフォードは好きだった、2002年のエディ・スリマンも素晴らしかった。処分できないんだよ」となることもあります。発表された瞬間だけでなく、今となっては過去のものが、ずっとユーザーの心にひっかかる。そして、それが次への期待になる。さらに、ブランドや企業そのものへの信頼になる。そうなってきたデザインは、実は単なる消費財ではなくなってるんじゃないかとも思えて来ます。

デザインは、って考えると、「うつろい」の繰り返しの中に、「前やってたアレ心に残ってます」っていう声がときどき届くという現象を無視できません。そういうものの蓄積は単なるいちデザイナーのポートフォリオに入るだけのものではありません。そもそも、デザインは発注ありきですので、デザイナー個人の資産などというものではないと考えています。人の心に引っかかったデザインは、ユーザーや、それをやってきた企業やブランドの「資産」になってくるのではないかと考えています。商品や企業を愛してくれて、リピートしてくれるユーザーって、割とそういうとこでついてきてるという事実もあります。長期的に見ると、「ブランドや企業への信用」になりえる、ということです。信用とまではいかないまでも、何かしらのひっかかりにはなりえてる気がします。

とはいえ、そうそうそういうものを獲得するまでの耐久力を持っている企業や商品がすべてではないですし、そんなん待ってられない、っていう話にもなるんでしょう。

まあ、弊社はそういう界隈の方からは絶対オーダー来ないですが....(笑)

わたくしは造形的に美しいものを提供していきたいですし、質が高く使いやすいものをつねに刷新していくことに存在意義を感じるタイプですので、IDEOのデザイン思考やブランディング方面にステータスを割り振っていったほうが自身がそれなりに研ぎ澄ませた能力を発揮できそうな気がします。

Webフォントサービスを片っ端から試してみたいですし、オンスクリーン組版ももっと探求していきたいです。もしサポートいただけるのでしたら、主にそのための費用とさせていただくつもりです。