【随想】ヒューマニティーズ・ミーツ・ジュリスプリューデンス〜本当の学際的研究とは何か?〜

 漢字文献情報処理研究会とのご縁のはじまりは、たしか2003年のことだから、きょうまで10年以上のお付き合いになる。あるとき、経済学部のM氏が、「著作権の問題についていろいろ疑問点があり、話を聞きたいという人がいる……」というので、紹介を受け面会したのが、この研究会の世話人の一人、C氏であった。Cさんが、わたしのオフィスに訪ねてきたときの光景はいまでも鮮明に覚えているし懐かしくも思うのだが、不思議とこのときのやりとりはあまり覚えていない。もしかすると、それから展開する10年以上におよぶ議論があまりにも濃厚で印象的であっただけに、出会いのときのやりとりはその後の記憶に希釈され淡白で印象の薄いものになってしまったのかもしれない。ただ、そのときは、夏に研究会でセミナーを予定しており、そこでの講演を依頼されたのだと思う。
 このセミナーは「漢情研2003年夏期講座:東洋学情報化と著作権問題」と題して、2003年8月に催された(『漢字文献情報処理研究』4号参照)。事前のやりとりのなかで、メンバー諸氏のただならぬ関心の強さを感じていたが、セミナー当日は予想以上の刺激的な議論が展開され、その後におけるこの研究会へのわたしのコミットメントを決定づけた。
 もともと、わたしが漢籍や日本の古典に親しんでいたこともある。しかし何よりも、当時、科学(サイエンス)たろうするあまり、法学が価値判断の学であることを覆い隠し、問題解決を回避しようとする姿勢にやや大げさではあるが嫌悪感を感じていたこともたしかで、問題解決という法律学の真価を発揮させるためには歴史学や哲学、論理学、さらには修辞学に弁論術といった人文学的な素養が法律家にとってきわめて重要であると感じていた、そんなタイミングでもあったのである。まさに、わたしは人文学(ヒューマニティーズ)への接近を渇望していた。
 実は、この「夏期講座:東洋学情報化と著作権問題」で、すでに、のちの検討課題となる「校訂」の問題が示唆されていた。「校訂」の問題は、岩波文庫版『風姿花伝』の一件で、デジタル化との関わりで議論になるとの認識はあった。だが、わが国の著作権法に規定がなく、これに関する判例もないことから、分析の手がかりがなく、しかも校訂・校勘という方法論にもわたる部分もあり、一筋縄ではいかないなと感じていた(もちろん、ドイツの著作権法には校訂に関する規定があるので、ドイツ法の研究としては取り組む余地がないわけではなかった。しかし、残念なことに、わたしはドイツ語の素養がなかった)。
 そんな状況が変化したのは、英国で古楽(early music)の楽譜校訂について訴訟が提起され、判決(ライオネル・ソーキンス対ハイペリオン・レコード事件)が出たとの情報を得てからである。たしか、漢字文献情報処理研究会のBBSでのやりとりのなかでこの事件に関する投稿があったと思う。
 校訂・校勘とはいかなる知的営為なのか、また、音楽において古楽の復刻とはいかなる意味を持つのか。法律学に関する論点はおおよそ予想できるものの、文学者や音楽学者がどのようなかたちでテキスト・クリティークをおこない原文確定し、古典を復刻しているのか。わたしは、テキスト・クリティークの前提となる文献学的方法論に大いに興味をもち、池田亀鑑『古典学入門』(岩波文庫)をはじめ、この事件を理解するために古楽に関する音楽学の文献を読みあさった。わたしは、この研究の経過を『漢字文献情報処理研究』のいくつかの号に掲載し、それらをまとめるかたちで、「『校訂』の著作権法における位置」(2009年3月号)を発表した(そのとき、この研究に着手してから5年の月日が経っていた……。研究そのものに時間がかかったというよりも、好奇心のためヨコ道にそれていたという方が正しい……)。
 校訂についての研究を進めていく中で、わたしは、いくつかの確信にいたることになる。それは、真の学際研究というものは、それぞれ専門を持ったものが集まって同じ問題に取り組むというのではいまだ十分ではなく、相互の専門分野の方法論に立ち入って議論してはじめて有用な研究ができるということ、表面上の問題を敷衍しただけでは正しい判断には到達できないということである。もちろん、そうした研究が可能になるには条件がある。お互いの人と学問に敬意を持ち、互いがこれまで身につけてきた方法論を持ち寄り他者に理解してもらってこそ、それによっていままで到達し得なかった学問そのものの高みにいたることができる。漢字文献情報処理研究会は、そうした学際的な研究、議論そして仲間を日常的に提供してくれる貴重な場であった。
 2003年から10年余りにおよぶ漢字文献情報処理研究会での議論をまとめたいという企画をちょうだいしたのは、数年前のことである。これは、2014年に『人文学と著作権問題』(好文出版)というかたちで実を結ぶ。著作権問題や法律問題といっても、主題によって関心も熱意もまちまちなので、これまでの議論をすべてとりあげてまとめるということにやや不安があったものの、とてもおもしろい法学の入門書ができたのではないかと思う。しかも、この編集過程がわたしにとって出色であった。インターネットを使ったテレビ会議での議論、終日慶応大学の日吉キャンパスにあるC氏の研究室にこもっての議論と執筆、そして、そこで振る舞われた中国茶と乾燥果実の美味しいこと。こんな楽しい編集作業はなかった。
 メンバーの学問的な能力だけではなく、文章力、語彙力、エディティング能力のすべてが動員された。それゆえ、あのような短時間での編集が可能になった。それもこれも、これまでの長い間、問題意識を共有しながら、議論をしてきた信頼に足るメンバーであったからこそ、この作業ができたのだと思う。
 漢字文献情報処理研究会は、わたしにとって、近年の法学(ジュリスプリューデンス)が忘れかけた人文学(ヒューマニティーズ)との邂逅の場であったということは間違いない(2015年8月17日記)。
(『漢字文献情報処理研究』第16号・特集「私と漢情研」pp.4-pp.5所収)

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