【菓子探究】小樽・「館」のロールケーキ

 物心ついたとき、「小樽の小父さん」はすでにわが家の定期的来訪者であった。容貌も姿も鮮明に覚えているのに、名だけはどうしても思い出せない。小樽からやってくるので、こう呼んでいた。親しみをこめて。「小父さん」は、いつもお土産を携えて月に一度やってきた。型くずれしないよう、硬くしっかり誂えた箱の中には「黒」と「白」のロールケーキが一本ずつ。「黒」はカステラのような褐色の焼き色がついていた。「白」は生地に干葡萄が点々と混ぜてあった。どっちもアーモンドのプラリネを練り込んだバタークリームを巻いたものだった。この手みやげに幼いわたしは何の疑問も差し挟むことなく、それこそ毎月誕生日がやってくるぐらいの心持ちそのケーキを楽しみにしていた。ささやかな大人の事情も知らずに。
 後になって知るのだが、「小樽の小父さん」は取引先の卸問屋の社員で、わが家への来訪は営業のためであった。当時、わが家は炭鉱の町の、駅前の商店街の一角で文具店を営んでいた。卸問屋とはそれなりの取引があったのだろう。この関係は10年以上にも及んでいた。だが、やがて「小父さん」がやってくる頻度は徐々に減っていく。事業が芳しくないとの心ない噂も聞こえてくる。多少成長したわたしは、あえてその話題を持ち出さなくなってもいた。それでも、「小父さん」がわが家にくるときは必ず手みやげを持ってきた。いつを境に「小父さん」がこなくなったか覚えていない。体調を崩したとも聞く。取引がなくなったのかもしれない。
 ロールケーキは「館」という小樽にある洋菓子店のもの(現在は「館ブランシェ」として営業)。この菓子の思い出は小樽の都会的なイメージとともに、今や札幌に取って代わられたかつての北の商業都市の記憶とともに、わたしの脳裏に刻まれている(2011年度『萌木』(47号)「校内アンソロジー:忘れられない味」より)。
追記:後日(といっても20年後)、北海道に出張した際、小樽の「館」を訪ね、かつて売られていた(はずの)ロールケーキのことを尋ねたが、従業員の誰一人も覚えている者はいなかった。

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