【随想】討論会と独演会

 来年度から、久しぶりに学部での大教室の講義を担当することになった。
 現在、わたしが所属している法務研究科(ロースクール)は、わが国において大規模なものの一つといわれるが、学年200人程度。わたしが担当する経済法(独占禁止法)は司法試験の科目ではあっても、選択科目の一つであり、これを選択する学生はその1割にも満たない。少人数で、学生と教員とが討論しながら、授業を展開させていくのがロースクールのやり方である(しばしば、これを「ソクラテス・メソッド」と呼んでいる)。
 ところが、学部の講義ともなると、数百人単位で受講者が押し寄せる。他学部にも開放されると、もっと規模は大きくなる。かつて学部の講義を数年間だけ担当していたことがあるが、その時は600人以上の履修者がいた。学期末試験の採点だけに最低1週間は必要であった。ロースクールのように、討論型の授業を展開するのは、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授でもないかぎり難しく、必然、学生はお客さんとなり、さながら「独演会」となる(いかにも、これは大規模大学にありがちな光景である)。
 ちょうど今ごろ、学期末試験を目前にしたこの時期は、来年度の講義を準備する時期でもある。一年間、どんな講義を展開しようか、いろいろ構想するのは、とてもワクワクするものだ。討論会型の授業は、日常的に事案に接し、さまざまな思考をめぐらし、その積み重ねが基礎となる。そして、授業当日はある種の知的瞬発力がものをいい、マネジメント力が試される。だから、周到な準備をしても、無意味とは言わないが、必ずしも用意が十分に活かせるわけではない。
 他方、独演会型のそれは、毎回90分話し続けることになる。それには、当然、周到な準備が必要だ。もちろん、受講者の顔を見ながら、興味を引くエピソードも入れなければならないから、日頃の積み重ねや知的瞬発力もある程度はいる。しばしば揶揄されるテキストや講義ノートに目を落としたままそれを読み続けるだけの講義は、印刷・出版技術が発達した現在においては、本を買って読めばいいわけで、いくら周到な準備をしたものであっても、わざわざ講義に出る意味はないのである(2015年1月5日記)。
 

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