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功利主義

もう一つの帰結主義の考え方は功利主義 (Utilitarianism) である。倫理的利己主義が個人の利益の最大化を推進したのに対し、功利主義では最大多数の最大幸福が行動の原理となる。より詳細に言えば、功利主義においては、ある行為が正しいと言えるのは、それが全ての人にとっての苦痛よりも快楽が最大化される場合であるとされる。この功利主義には大きく二つの考え方がある。一つ目は量的功利主義と呼ばれるもので、ベンサムによって主張されたものである (Bentham 1789/1907)。ベンサムによれば、正しい行いとは「効用 (Utility) 」を最大にするものだという。この効用とは、快楽や幸福を生むすべてのものであり、苦痛や苦難を防ぐすべてのものであるという。そして、この効用は最終的に量的に計算できることを功利主義は説明する。

一方、量的功利主義を発展させたのが、ミル質的功利主義である (Mill 1861/2001)。ミルは快楽や幸福をそのものの質を区別することを主張している。つまり、彼はある種の快楽にはほかの快楽よりも望ましく価値が高い場合がある、と主張するのである。例えば、ミルであればオペラや演劇を鑑賞することによって生み出される快楽は、YouTube を見ることによって生み出される快楽よりも価値のあるものと考えるかもしれない。

功利主義の最大多数の最大幸福という考え方は現在でも多くのシステムに用いられている。最も代表的なのは多数決ではないだろうか。選挙などにおいても、票数を多く獲得した人が当選するわけだが、これもまた功利主義的な考え方に基づいたシステムであるといえる。この意味で、功利主義は現代においても一定の規範として機能していると言えるだろう。

一方、以下の問題点が指摘されている。第一に、主観的判断と数量化の問題である。ベンサムの量的功利主義にしろ、ミルの質的功利主義にしろ、快楽と苦痛の判断は主観に基づかざるを得ない。先ほど述べたように、オペラや演劇の鑑賞によって得られる快楽は、その人のオペラや演劇への関心度合いによって異なるであろうし、他の快楽との比較も主観的にならざるを得ない。また、幸福量の総和を求めることが現実的に可能か、という点も考慮すべきであろう。例えば、企業が株主に対して利益を還元することで、どの程度株主の幸福量が増加したのかは、単に配当金額や株価の値上がりによって把握できるものではないかもしれない。さらに、従業員に対する幸福量を測定しようとしても、単に給与水準の高さだけではなく、休暇の取りやすさや職場の雰囲気など様々なことが要因として絡んでくるだろう。こうした要因をどのように測定し、どのように合計値を計算するかに関しては、功利主義は主観的な判断しかできないのである。

第二の問題点は、効用の分配に関するものである。すなわち、功利主義に基づくと少数派の犠牲と公の便益との間のジレンマに必ず直面する。とりわけ、功利主義においてはどうしても少数派の人々が犠牲にならざるを得ない状況に陥ってしまう。こうした少数派への配慮をどうすべきか、という点は功利主義において大きな問題となるだろう。

References

Bentham, J. (1789/1907). An introduction to the principles of morals and legislation. Oxford: Clarendon Press.
Mill, J. S. (1861/2001). Utilitarianism (2nd ed.). Cambridge: Hackett Publishing.

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