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日本におけるCIAの活動②日本の政治への介入

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はwikipedia英語版「CIA activities in Japan」の記事を翻訳をします。

翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。


日本におけるCIAの活動

日本の政治への介入

⬛逆コースにおける役割

CIAと米軍情報部は、1947年の「逆コース」政策転換と、それに続く機密戦犯に関する粛清政策の終了において、極めて重要な役割を果たした。米軍情報部は、ジャパン・ロビーや米企業の利害関係者と連携して、米占領下で粛清された財閥や公務員をめぐるダグラス・マッカーサーの政策を覆すための圧力キャンペーンを行った。KGBはいくつかの文書で、CIAとSCAPが政策変更を正当化するために、松川事件を含む日本のインフラへの攻撃を演出したと非難した。国内的には、CIAは「日本の戦略的重要性」と題する報告書を作成し、国務省と軍部に圧力をかけた。報告書は、東南アジアを失うことでソ連が日本を同盟国にする可能性があり、そうなれば「冷戦の均衡はソ連に傾く」と警告した。報告書は国務省に対し、「独占打破」政策から「大規模な金融・貿易関係」の発展を奨励するアプローチへの転換を促した。

自由民主党のロゴ

⬛自民党の創設

CIAの仲間は1955年の自由民主党結成に広く関与していた。日本でのプロパガンダ・キャンペーンにおいてCIAの重要な戦力であったテレビ界の大物、正力松太郎とのインタビューの中で、正力は吉田茂鳩山一郎を和解させようとしたことを語っている。この過程で、正力と鳩山は、正力がこの話題を持ち出そうとしたことで対立し、鳩山は怒って正力の邸宅を出て行った。また、正力と吉田は会談を繰り返し、吉田は引退が決まれば鳩山と政権を交換すると約束した。しかし、吉田がパリへの反抗的な旅で退陣して鳩山に政権を譲ることを拒否すると、正力は吉田を辞めさせるための消極的な圧力キャンペーンを行うよう読売新聞に指示した。

読売新聞社社主・日本テレビ放送網代表取締社長・読売テレビ会長 正力松太郎
第45・48-51代 内閣総理大臣 吉田茂
第52-54代 内閣総理大臣 鳩山一郎

吉田と鳩山を通じて直接合併に影響を及ぼすことができなかった正力は、敵対関係にあった三木武吉大野伴睦の会談を取り付け、自由党が民主党と合併するための根回しをした。この会談は成功し、三木は4月13日、鳩山の政治的影響力を犠牲にして保守合併を発表した。

鳩山一郎の盟友 日本民主党⇒自由民主党 三木武吉
日本自由党幹事長・自民党副総裁 大野伴睦

岐路に立つ日本:安保以後の対立と妥協』の著者であるニック・カプールは、岸信介が中央情報局の助言と奨励を受けて、1955年の結党を画策したと論じている。

1955年の自民党合併への正力の関与を記した覚書

⬛岸信介の台頭

キャッスル・ブラボー実験における第五福竜丸事件の余波で、吉田内閣の多くの議員がアメリカを「戦争好き」と評し、通産大臣愛知揆一を含むアメリカの外交政策に反対の声を上げた。CIAと米軍当局は、吉田が自衛隊の育成に関して無為無策であること、1951年の日米安全保障条約の改定と拡大に躊躇していることに嫌気がさし、吉田を追放し、より積極的な候補者を後任に据えるための圧力キャンペーンを開始した。そして吉田は辞任に追い込まれた。アメリカ情報部は吉田に代わって岸を起用しようと、彼を訓練し、より魅力的な人物にするための広報キャンペーンを展開するまでに努力したが、結局、吉田のライバルであった鳩山一郎の手に政権が渡ってしまった。CIAの苛立ちをよそに、鳩山は吉田ドクトリンの継続を決めた。鳩山は安保条約の改定に消極的で、千島列島をめぐるソ連との融和政策にも取り組んだ。これに怒ったアレン・ダレスは、沖縄を日本の宗主国から永久に切り離すと脅した。

第9代 通産大臣 愛知揆一
第56-57代 内閣総理大臣 岸信介
CIA長官 アレン・ダレス

鳩山首相が辞任した後も、アメリカの諜報機関は自民党に圧力をかけ続け、岸首相を日本の首相として受け入れるよう要求した。米情報当局をさらに苛立たせたのは、自民党がその年の候補者の中で最も親米的でないと広く見なされていた石橋湛山を推薦したことだった。石橋は「中国に関してアメリカの意向に自動的に従う時代は終わった」と宣言し、アイゼンハワー政権との関係をさらに緊張させることになる。しかし、石橋は就任後わずか2ヶ月で健康状態の悪化により辞任に追い込まれ、外交危機は回避された。アメリカ政府高官と黒幕の児玉誉士夫の支持を得て、岸は1957年初めに首相の座を射止めた。駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、岸を日本政治が影響力を増すのを阻止できる唯一の人物と評した。マッカーサーは、岸なしでは日本の政治風土はますます反米的になると警告した。

第55代 内閣総理大臣 石橋湛山
第34代 合衆国大統領 ドワイト・アイゼンハワー
CIAエージェント 児玉誉士夫

1951年の日米安全保障条約改正の試みで岸が果たした役割は、CIAとアイゼンハワー政権の助言によるものだった。マッカーサー駐日大使は岸とともに安保条約の改定案を作成し、アメリカが国内に軍事施設を保持できるようにした。条約調印とそれに続く安保反対運動の後、国務省とCIAは岸を広報上のお荷物だと見なし、アメリカは岸政権への支持を撤回した。

⬛賀屋興宣のプロモーション

1958年、近衛文麿・東条英機政権下で蔵相を務めた戦争犯罪容疑者の賀屋興宣が国会議員に当選した。賀屋は1945年から1955年に巣鴨から釈放されるまで11年間服役していた。東アジアにおける日本の安全保障状況に不安を抱いた賀屋は、国務省や海軍政策立案委員会など複数の政府機関の代表者と安全保障政策について話し合うため、1959年に訪米した。訪米中、賀屋はCIA長官アレン・ダレスに会った。ダレスは、岸首相の日米安全保障条約の扱いに対する世論の反発が大きい中、日米安全保障条約の改定を推進することを熱望し、CIAに自民党内安全保障委員会との情報共有を開始する権限を与えた。ダレスとCIAは賀屋に接触し、彼を情報源として採用した。1956年までに、賀屋の報告の頻度が低いと思われたため、CIAは彼をC級情報源からF級情報源に格下げした。

元蔵相 後の法相 賀屋興宣

⬛自民党への財政援助

児玉誉士夫が巣鴨プリズンに収監される前、児玉鑑は日中戦争と太平洋戦争で押収したダイヤモンドとプラチナの相当な資金を河野一郎に譲渡した。これらの鉱物は、仲買人の辻嘉六を使って闇市場で売られ、約1億7500万ドルで落札された。その金は自由党の設立資金に使われた。

日本自由党幹事長・自由民主党総務会長 河野一郎
河野洋平の父・河野太郎の祖父

占領後、アメリカの諜報機関は日本共産党による日本の乗っ取りを恐れ、自民党の幹部に資金援助を行うという10年にわたるキャンペーンを行った。1955年の自民党結党当初から、CIAは党内に情報提供者ネットワークを構築し、自民党を監視すると同時に資金面でも支援した。岸信介の実弟、佐藤栄作はCIAとの会談で、CIAに多額の資金提供を要請した。同時に岸信介自身もワシントンDCを訪れ、1958年の総選挙に向けて自民党を支えるため、CIAからの選挙献金を受け取った。

第61-63代 内閣総理大臣 佐藤栄作
岸信介の弟・安倍晋三の大叔父

自民党への資金援助以外にも、CIAは日本社会党の穏健派議員にも献金を送っていた。これは、日本社会党の穏健派が穏健な離党派を煽り、日本の左派を党派に沿ってさらに分裂させるために行われた。

◾タングステン密輸

児玉誉士夫が、CIAと結託して私腹を肥やすために、代理店の金と引き換えにアメリカの防衛関連企業にタングステンを密輸する計画に参加した。児玉の「児玉エージェンシー」の活動は、第二次日中戦争中に憲兵隊が築き上げたもので、アヘンの取引に深く関わっていた。児玉自身、1932年には早くも日本国防軍のタングステン密輸組織に関わっていた。ジャパン・ロビーの一員であり、1945年に逆コースを支持するために退官したユージン・ドゥーマンは、日本軍と中国の供給源から1000万ドル相当の軍用タングステンをペンタゴンの防衛請負業者に密輸する計画を企てた。冷戦と共産主義が世界のタングステン生産量の半分を支配していたために供給が追いつかず、高級品種の価格は3倍になっていた。児玉のネットワークは、積極的に原料を移動させる物理的なプロセスに関与しており、CIAは作戦を円滑に進めるために約280万ドルを供給してこの計画を引き受けた。入手したタングステンのグレードが低かったため、この計画は結局失敗に終わり、ドゥーマンは返済をめぐって、CIAが2人の日本人共産党員を拉致し、東アジアの麻薬取引に積極的に関与していることを暴露すると脅し、CIAを脅迫した。

⬛プロパガンダ活動

CIAは、日本におけるアメリカのイメージを強化し、日本の右派を推進するための数十年にわたるキャンペーンに関与していた。1954年、CIAは時事通信共同通信の報道に揺さぶりをかけることを目的とした「中央調査局」の創設を後援した。CIAは「対日心理戦略計画」と呼ばれるプログラムを立ち上げた。この計画の目的は、日本の世論を動かすために、日本のメディアを親米、反共、軍縮の立場を支持するように操作することだった。アメリカ情報局はまた、コードネーム「PANEL-D-JAPAN」と呼ばれるプログラムに1億8400万ドルを注ぎ込み、秘密裏に日本のメディア制作に資金を提供した。CIAとアメリカ合衆国広報文化交流局USISは日本の知識層もターゲットにし、『自由』のような雑誌を創刊した。

松太郎が新聞を所有していた1959年の読売新聞の切り抜き

CIAの最大のメディア資産のひとつは、日本のメディア界の大物、正力松太郎だった。松太郎は影響力のある『読売新聞』を所有していた。松太郎は日本初の民間テレビ局、日本テレビを設立した。日本テレビは日本におけるアメリカの心理作戦の中心となる。松太郎はCIAのコードネームPODAMとPOJACKPOT-1で活動していた。POJACKPOT-1による作戦には、カラーテレビ受信機を10台入手し、日本に輸送するプログラムも含まれていた。この作戦の目的は、1958年の総選挙を前に自民党のプロパガンダを放送し、アメリカの家電製品の進歩を示すことだった。しかし、セットの到着が1958年の選挙で使用するには遅すぎたため、この計画は頓挫した。正力はまた、日本で原子力発電を推進するためのメディア・キャンペーンにも参加した。1953年のアイゼンハワーの国連総会での演説にちなんで「平和のための原子力」と名付けられた。この活動はCIAによって支持され、支援された。

⬛沖縄での活動

沖縄は、アメリカ国家安全保障局NSAによって「アメリカのSIGNT収集のための仮想空母」と形容された領土であった。沖縄人民党の情報・軍事配備への反対にもかかわらず、嘉手納基地からはSR-71とU-2による偵察飛行が続けられていた。沖縄、特に嘉手納の米軍施設は、ベトナム戦争中、航空、海軍、修理、後方支援施設として、南ベトナムにおけるアメリカ軍の作戦に重要な役割を果たした。

沖縄におけるCIAの影響力は、沖縄の選挙に繰り返し影響を及ぼそうとしたことから、重要な意味を持つようになった。アメリカン・フレンズ奉仕委員会は、アメリカが沖縄の自民党に180万ドルもの資金を提供したと非難した。このことは、1997年に機密解除された「秘密行動計画」によって裏付けられた。この計画には、復帰をめぐる抗議行動の激化に対応して、自民党への秘密資金提供を通じて琉球の選挙に影響を与えようとする秘密機関の計画が詳細に記されていた。

さらに最近、沖縄県での米軍作戦が終了した後も、CIAは沖縄の世論を動かそうとしていた。情報公開法の要請で入手した文書の中で、CIAは沖縄の世論を形成する方法についてアメリカ当局者に助言するマニュアルを示した。CIAはアメリカ政府高官に、人道支援や災害救援における軍の役割を述べることで、沖縄の平和主義者の意見を操作するよう助言した。CIAはまた、沖縄に軍隊が駐留し続ける理由として、軍事的抑止力について言及しないこと、沖縄県民への差別における米軍兵士の役割を否定することも助言した。アメリカン・フレンズ奉仕委員会AFSCはまた、辺野古への米軍施設建設に反対した鳩山由紀夫政権の倒閣を組織したのもCIAだと非難した。

第93代 内閣総理大臣 鳩山由紀夫
鳩山一郎の孫
沖縄県の米軍施設のオープンソースエンタープライズOSCマップ

犯罪組織への協力

⬛ヤクザとの接触

日本の右派はヤクザと長年にわたって関係を築いてきた。1919年にヤクザの超国家主義的傘下組織である大日本国粋会が結成された時点で、ヤクザと右翼の関わりは20万人以上の会員を育てていた。国粋会は、右翼政党であった立憲政友会と結びついた。政友会は、1920年の八幡製鉄所ストライキ、1925年のシンガー・ミシン・カンパニー・ストライキ、1928年の野田醤油(キッコーマンの前身)ストライキなど、しばしばヤクザをストライキ解散に起用した。国粋会はまた、大正時代にはさまざまな左翼グループに対して暴力を行使し、ヤクザのメンバーは部落カーストを擁護するグループである水平社と争った。ヤクザとスト破りや暴動鎮圧との結びつきは、昭和期にも及んだ。玄洋社は、国家主義移行期に組織労働者や社会主義デモ隊に対するスト破りとしてヤクザ組織を利用した。玄洋社の後継組織である黒龍会は、日本の超国家主義者の利益促進に積極的に参加した。黒龍会の創始者である頭山満は、八紘一宇の思想を信じ、ソ連との戦争を支持した。選挙による民主主義が弱体化し続ける中、頭山とヤクザ右翼全般との関連性は、「暗殺による政府」移行期に高まり続けた。頭山は東京御所での晩餐会に招かれ、1937年には近衛文麿を首相に任命した。日本の右派が台頭するにつれ、国粋会系ヤクザの公言する利益は、軍隊や国家全体と絡んでいった。ヤクザ組織は中国における政府のアヘン独占を利用し、麻薬取引や満州国での資源開発で軍部と協力した。しかし、真珠湾攻撃後、軍が頼りにしていたヤクザの多くが、安全保障上のリスクとみなされ、投獄された。戦時中のヤクザのもうひとつの問題は、徴兵制であり、これはヤクザを著しく弱体化させた。これらのマイナス要因により、太平洋戦争が終結するまで、政府とヤクザの関係は断絶していた。

玄洋社・黒龍会の創設者 頭山満
頭山とその仲間である五百木良三、後の首相となる犬養毅、児玉誉士夫。

ヤクザと日本の右派との関係は、日本占領後に再び築かれた。占領初期には、アメリカの占領当局者の多くが日本の組織犯罪に関与し、犯罪者のリーダーの給料を支払う当局者もいた。民警の武装解除もまた、ヤクザの復活に有利な状況を許す権力の空白を生み出した。日本の右翼に不利益をもたらす白狩りの継続を支持するコートニー・ホイットニーと、逆コースの政策転換を提案するG2リーダー、チャールズ・A・ウィロビーとの間の政策における意見の相違は、最終的に在日米軍情報機関がヤクザへの財政援助を開始する原因となった。SCAPもまた、当初はCIAよりも積極的な粛清者や組織犯罪に対する政策を採用していた。18軒の売春宿を経営していた元ヤクザのリーダー、アンドウ・アキラは、SCAPのトップであるダグラス・マッカーサーを親君主主義的な姿勢に変えることに成功したと推測されている。ヤクザの多くは建設業に深く関わっており、政府高官とのつながりはさらに深まった。「逆コース」の間、マッカーサーとSCAPは、反共産主義を理由に、非合法な超国家主義組織体とつながりのある犯罪組織の多くに目をつぶることにした。更生した政治家の多くは、こうした超国家主義組織とつながりがあった。その代わりに、SCAPとマッカーサーは赤狩りを採用し、労働組合、日本共産党、左翼学界のメンバーを粛清し、追い払った。赤狩りの間、ウィロビーと彼の仲間は、左翼を弾圧するために右翼の犯罪者やヤクザに金を払い始めた。ヤクザは、日本の左翼の指導者を攻撃するだけでなく、ストライキ破壊作戦にも使われた。ウィロビーとその部下たちは、共産主義者の潜入に関する陰謀を見つけることに「執着」し、「偏執狂的」と評されるようになった。ウィロビーとヤクザの工作員たちは、1949年8月、共産党の信用を失墜させる目的で、国鉄機関車の脱線事故を演出したと言われている。G-2とアメリカ軍情報部は、小説家の鹿地亘を含む左翼人物の超法規的拉致にヤクザを利用した。対外的には、児玉誉士夫がダグラス・マッカーサーと交渉し、数千人のヤクザと日本帝国陸軍退役軍人を朝鮮で志願兵として供給し、朝鮮人兵士を装ったため、ヤクザは朝鮮に配置された。

複数のヤクザグループが、政府に関連する右翼政治家によって、あるいは諜報機関の主導によって結成された。占領期以前には、後の山口組を含む多くの暴力団が、前述のアヘン貿易を促進するために、軍の明確なお墨付きの下で結成された。キャノン・エージェンシーの部下が町井久之(※別名:鄭建永)に接触し、横浜の中国人港湾労働者の虐待に対抗するために東亜会を結成させたと言われている。

在日韓国人の実業家・暴力団東声会創設者 町井久之(鄭建永)

⬛児玉誉士夫とのつながり

児玉誉士夫と中央情報局(CIA)および日本の右派との間には、長期にわたる広範な関係があった。児玉は、日本海軍最高司令部とのコネクションが確立していたため、管理的な役割を担うようになった。児玉機関になる前の彼の過去は、何度も逮捕・投獄され、天行会を設立したことであった。この会は表向きは超国家主義的な団体で、児玉が穏健すぎると見なした政治家の暗殺を企てたと伝えられている。児玉は上海に渡り、大日本帝国海軍航空隊に資源を供給するための組織、児玉機関を設立した。児玉機関の長として、児玉軍は超法規的徴発と恐喝を行い、中国や満州の農民に銃を突きつけて金属を売らせた。児玉機関は複数の塩、鉄、モリブデン鉱山を所有するまでに成長し、児玉は事業を維持するために複数の工場やその他の産業を設立した。児玉はまた、上海の組織センターでアヘン組織も運営していた。児玉の努力により、彼は1億7500万ドル相当のダイヤモンド、プラチナ、紙幣などの財産を手に入れ、上海の憲兵隊の財政担当者、上海の情報局の運営責任者としての地位を得た。日本政府は児玉の活動を容認し、その調達方法には目をつぶっていた。1945年半ば、日本が降伏の危機に瀕したとき、児玉は千を超える金の延べ棒やその他の徴発資産を日本に移した。日本の降伏後、彼はA級戦犯として逮捕され、巣鴨に1年間収監された。

巣鴨刑務所に収監されていた児玉は、同房者で後に首相となる岸信介と親交を深めた。ウィロビーは収監中の児玉と連絡を取り合い、手記『われ敗れたり』を書くよう説得した。年間服役した後、アメリカ当局は児玉に対する法的手続きを終了することを決定し、1948年末に釈放した。彼の早期釈放は、G-2が彼に関心を持ったためとされている。児玉はG-2の諜報部員と取引し、彼の釈放を取り付けたと推測されている。アメリカ政府高官は、児玉の莫大な富と中国における彼の広範な諜報ネットワークに興味を持っていたとされ、G-2は、特に間近に迫った「竹松作戦」のための貴重な資産とみなしていた。特に加藤エージェンシーの責任者であった有末精三は、北朝鮮と満州における情報網の構築に児玉を参加させた。

1951年の日米安全保障条約の再交渉に端を発した1960年の安保闘争の際、岸信介は友人の児玉誉士夫に、来日中のドワイト・アイゼンハワー合衆国大統領を警護するためにヤクザの部隊を編成するよう命じた。秘密裏にM資金を管理していた児玉は、その資金を「大量動員」に活用し、必要な人員の費用を捻出した。マッカーサーがハリー・S・トルーマン・ビルディングに送った電報には、アイゼンハワーの来日を「出迎える」ために数万人のヤクザを街頭に配置するという児玉の計画が詳細に記されていた。自民党はこの計画を支援するために複数の使者を派遣し、憲政会、住吉会、テキヤ組織のトップと会談した。これらは、主に右翼の退役軍人や暴力団で構成された全日本愛国団体協議会(全愛会議)の下にグループ化された。岸は、マッカーサーと国務省から訪問を許可するよう圧力と激励を受けたにもかかわらず、ハガティ事件の再発を避けるため、最終的に訪問を中止することにした。

CIAのメモには、児玉の貪欲さと諜報員としての価値のなさを嘆き、児玉の不愉快な姿が描かれていたが、児玉が1953年以降もCIAで活動を続けたかどうかは議論の余地がある。タッド・ズルクは、ロッキード・スキャンダルに関連して『ニュー・リパブリック』紙に、「情報筋によれば、児玉は1948年に日本の刑務所から釈放されたときからCIAと協力関係にあった」と書き、児玉がCIAと連絡を取り続け、CIAのスパイであり続けたことを示唆した。とはいえ、児玉は政治的地位と莫大な資本を利用して、フィクサーとしての役割を果たし続けた。児玉が中国から盗んだ資産は資金に流動化され、自由党の結成を支えた。黒幕としての児玉の役割は、自民党内で大きな影響力を持ち、再軍備に協力的な人物を登用することで、児玉事務所の利益のために何度も利用した。その中には、1957年に彼が首相になるのを助けた岸信介や、1963年に彼が自民党幹事長になるのを助けた小野伴睦が含まれる。ロッキード事件以前の1970年代には、児玉は自民党と組織犯罪を結ぶ存在として、日本の政治体制の大部分から忠誠を集めていた。歴史家のスターリング・シーグレーブによれば、児玉はロナルド・レーガン大統領に就任し、1984年に児玉が亡くなるまで、CIAに在籍していたという。

⬛ロッキード事件での役割

1950年代のロッキード・マーチン贈収賄スキャンダルの際、CIAは贈収賄に関与した外国政府高官や政府機関職員の名前を世間から隠すことで、隠蔽工作に積極的に参加したとされている。CIAは国家安全保障を理由に、関係者の名前を公表すれば外交関係に悪影響を及ぼすとして、名前を公表しなかった。CIAはまた、報道関係者向けの覚書を発表し、ロッキード・マーチンが賄賂の資金洗浄に利用したパイプ役であるディーク・アンド・カンパニーとCIAとの関係を否定するよう報道関係者に指示した。それにもかかわらず、賄賂の首謀者であり主要な受領者であったと疑われている児玉誉士夫という人物は、「日本におけるCIAの最高情報資産」であると説明されている。

複数の著者が、CIAはスキャンダルの間、児玉氏との積極的な諜報活動やつながりを維持していたため、賄賂の存在を知っていたと主張している。『ニューリパブリック』紙は、ディーク&カンパニーを経由して支払われた430万ドルは、児玉経由で送金されたと述べている。さらに、児玉はCIAとスキャンダルの期間中、協力関係にあったと主張している。ジェローム・アラン・コーエンは、ロッキード社が児玉を仲介者として選んだのは、児玉が自民党の指導者たちと有力な人脈を持っていたからだと書いている。児玉誉士夫はスキャンダル以前の15年間、ロッキード・マーチンの有料コンサルタントであり、コンサルタント料としてロッキードから700万ドルを受け取っていた。ロッキードを宣伝する活動のために、彼はロッキードから全日空にロッキードL-1011トライスター航空機6機を販売する手数料の一部として600万ドルを受け取っていた。

児玉の政界人脈には中曽根康弘幹事長もいた。児玉はまた、1972年に選挙で支援した田中角栄元首相ともつながりがあった。児玉はまた、岸信介とも長い付き合いがあり、岸と児玉は巣鴨の刑務所仲間で、岸は児玉に何度も便宜を図ってもらった。政治家としての人脈に加え、児玉は三井物産の子会社を経営する萩原吉太郎とも親密な関係を保っていた。また、野村證券の会長で東京証券取引所の元会長である瀬川美能留との関係も記録に残っている。

第71-73代 内閣総理大臣 中曽根康弘
第64-65代 内閣総理大臣 田中角栄
日本の実業家・北海道炭鉱汽船・札幌テレビ放送社長 萩原吉太郎

児玉の活動は、主要な資金洗浄者でもあったシェル企業のディーク・アンド・カンパニーと連携していた。ディーク&カンパニーのオーナーでOSSの工作員であったニコラス・ディークは、エイジャックス作戦の際、ディークの香港事務所を通じて28年モルダッド・クーデターの扇動者にCIAの資金援助を行ったことで知られている。ディークはまた、投資家に対し、存在しないはずの多額の銀債権口座を保有していると約束し、電信詐欺を働いたと報じられている。ディークが関与したその他の疑惑には、CIAの知るところとなったリチャード・ニクソンの1972年の再選キャンペーンへの資金洗浄が含まれる。ディーク&カンパニーはこの事件で、ロッキード社から日本政府関係者に推定830万ドル相当の賄賂を流していた。

第36代合衆国大統領 リチャード・ニクソン

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最後に

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