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小さなタイムカプセル

4年前の夏、秋葉原の中古カメラ屋さんでフィルムカメラを購入した。PENTAX ASAHIという、見た目がレトロなフィルムカメラ。どれを買えばいいか分からない私に、店員さんが勧めてくれたものだ。一目でそのフォルムが気に入った私は、特に悩むことなく「それをください」と言っていた。

自己表現から日常を記録するものへ

フィルムカメラを手にしてからは、たくさん写真を撮りに行った。といっても、デジタルカメラと違って、フィルム代や現像代がかかってしまうので日常使いはせず、「撮影に行こう」と決めた日だけフィルムカメラを持ち出していた。

江ノ島や河川敷をバッグに、友達を撮影していく。フィルムを丸々1本、多いときには3本くらい、1日の撮影で消費していたと思う。

当時の私にとって、フィルムカメラは「自分の世界観を演出できる道具」だった。友達にポージング指示をして、フィルムを使い切るまで撮影して、現像に出す。だから、現像後のデータには、作品のような写真が並んでいるのが当たり前だった。

それが大きく変わったのは、購入から1年が経つ夏頃。きっかけは、制作会社への転職だった。

転職した会社では、社員のほとんどが写真を好きで、みんな当たり前のようにカメラを持っていた。休憩時間になると、全員がカメラをぶら下げて、ごはん屋さんに向かう。晴れた日には、何人もの同僚が道の途中で立ち止まって、シャッターを押していた。

その光景を目の当たりにしたとき、私は「何でもない道を撮影してもったいなくないのかな」とちょっぴり思った。フィルムだとコストがかかってしまうのだから、何気ない光景は、デジタルカメラで撮った方がいいんじゃないかーーそんなことを頭の片隅で考えていた気がする。

そこから数日経ったある日、同僚の女の子が、ごはん屋さんまでの道で撮影した写真を「現像したから」と見せてくれた。

光が差し込む道路、踏切越しの街の人々、風に揺れる木漏れ日ーーそこには忘れたくないような瞬間がたくさん映っていて、「あぁ、日常はこんなにも綺麗なのか」と、驚いたものだ。 

何も作品のような写真だけが、コストに見合ったものではない。そう教えられた気がして、彼女の審美眼に心底感動した。

フィルムと、ちょっとだけタイムスリップ

それからというもの、私も日常生活でフィルムカメラを持ち歩くようになった。これまでと異なり、自分のペースで、記録したいと思った瞬間にシャッターを押していく。

すると、今までフィルムを使い切るまでに、たった1日しかかからなかったのが、平気で何ヶ月もかかるようになった。夏から撮りはじめたフィルムを、冬に現像に出すということも、ザラにある。

初めて何ヶ月も撮り溜めたフィルムが、現像を終えて手元に帰ってきたとき、なんともいえない懐かしさが体中を包んだ。「あぁこの時楽しかったな」とか、「こんなことあったっけ」とか。そんなことを思いながら写真を眺める私は、まるでタイムカプセルを開けたときのようだったと思う。1日で撮って、すぐに現像に出していた頃には、感じられなかった感覚だ。

思えば、忙しい日々のなかで、過去を振り返る時間というものは、なかなか持てない。友人と思い出話をしない限り、カメラロールは遡らないし、日記をつけていても、読み返すのは、まとまった時間があるときだけ。

そんな中で、ほんの少し前の過去を遡れるフィルムカメラは、日常で温かい記憶に触れられる、唯一の道具なのかもしれない。スマホやデジタルカメラによって、なんでもすぐにデータ化されてしまう世の中だけど、時間を置くことでしか感じられないものは確かにあると思う。

そういえば今ではもう、作品のような写真は撮っていない。でも相変わらず、自分のペースで、日常の写真を撮り溜めている。

今ではすっかり、私にとって小さなタイムカプセルになったフィルムカメラ。これからも日常の中で、タイムカプセルの中に入れる記憶を、撮り続けていきたい。


*先週から週1更新に変更となりました

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