コーヒー豆と餌、あとお尻の穴

何かを思い出すきっかけは、日常の至る所に散らばっている。匂い、モノ、場所、音楽、日にち、味‥‥。「ふと」思い出してしまうことの大抵はもう二度と訪れない瞬間が多く、切ないという表現では物足りない感情になる。そら失恋ソングも多くなりますわな。好きだった人の匂いや汚い地下の部室なんてものは脳内思い出再生ボタンと名付けられてもいいほどの代物だ。

尊敬するコピーライターが「思い出すから思い出になる」というタイトルで本を書いていて、思い出さない(思い出せない)記憶は思い出とはいえないのだと思った。あの日の大事な記憶を「思い出」にするために存在する匂いがあるし、場所がある。動作がある。


私のアルバイト先は商業施設内にあるイベントスペースで、会期によってちがう展示や企画が行われている。今はコマ撮りアニメの会社の周年を記念した展示で、喫茶スペースではコーヒーを提供している。

普段あまりコーヒーを飲まない私は慣れない様でコーヒーメーカーの前に立つ。とりあえずコーヒーフィルターなるものの底を折る。一応教えてもらったことはあるので、とりあえず豆を挽くんだと意気込む。そんな心の隅で「(豆を掬う以外でいつ使うんだこの匙は)」と思っていた匙は「コーヒースプーン」という名前のものらしい。実に安直である。コーヒースプーンを大きな銀色の袋に潜らせて、豆を掬う。

なんだか覚えのある感触だと思い、記憶を探る。1年前まで飼っていたうさぎの餌を掬うのとまったく同じだ。この1年間、ぽて(飼っていたうさぎの名前である)のことを思い出す瞬間は何度もあった。誰にも言えないことをたくさん話した相手で、言葉がないと何もわからないのだと教えてくれた相手でもあった。そして今日、ペレットフードとコーヒー豆はよく似ているということを教えてくれた相手になった。


帰りに聞いたラジオの中で、芸人が自分たちのことを「俺らはケツの穴見せてお金もらってる人間」と言っていた。その発言に至るまでにはさまざまなエピソードトークやコンビ間での口論があるのだが、それらを省いて説明するとするならば「ありのままの姿を見せて、それを評価してもらっている」ということである。

私はそうはなれない。
なんせ自己肯定感が高くも低くもない中途半端な人間だし、ありのままなんてひねくれた部分ばかりである。そのような煤のかかったような感情でぽてを眺める時は、「君は可愛くていいね。生きてるだけで可愛くて価値があるなんていいね。」とよく声をかけたものだった。そうすると、ぽては何にも聞こえてないような素振りで自分の小屋に帰る。頭の中で、そっぽを向くぽての姿を思い出してみる。長い耳とまんまるな瞳は反対側を向き、小さなしっぽと目が合い‥‥ああ、ぽてのお尻の穴も、餌やコーヒー豆に似ているかもしれない。ぽては今日、君を思い出にする形を教えてくれた相手になった。



昨年から受講を熱望していた他学科公開のエッセイに関する授業の課題で書きました。普段文字数を気にせず自分がなんとなく満足するまで文字を打ち込んでいたので、1200字までという制限は非常に私を苦しめたし、上手いことまとめることが出来ず悔しいです。

しかしこれは元々先月末のぽての一周忌に合わせて書き進めていたものでした。満足するまで、のラインがなかなか来ずあってもなくてもいいような一節が多く、だらだらとしたものになっていたので課題の提出期限が訪れたことはラッキーともいえます。

これからは少し文字数を意識して書いてみようかな、たくさんの言葉で伝えるのは簡単だけど、それを少ない言葉にまとめるのは難しいですし…。あと適当でもいいから色々書いてみようと思います!夏、よろしくお願いします。

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