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空海の哲学をざっくり解説【真言密教とは何か】

日本でいちばん尊敬されている人物といえばだれでしょうか?

これといった偉人が思い浮かばないのが現状かと思います。しかし近代化以前の日本ではそういう存在がいました。

それが空海。

弘法大師とも呼ばれる仏教徒です。「弘法も筆の誤り」という言葉がありますが、あれは空海のことです。

空海は日本史上でも最大の異能のひとりでした。哲学、語学、書道、建築などを極めた、万能型の天才として知られます。

彼の仏教哲学は「密教」と呼ばれる独特なものです。

しかもそれを、密教正統派のボスである唐の恵果から直々に継承して、日本に持ち帰ってきたのです。

この空海の思想が以降の日本仏教史、いやそれどころか文化史全体に与えた影響は甚大なものでした。

以下、空海の思想をざっくり解説します。


空海の生涯

空海は西暦774年、現在の香川県に生まれます。

父方は豪族の佐伯氏、母方は阿刀氏。名家の坊ちゃんです。

母方の伯父は天皇家の人々に学問を教えたほどの大学者でした。空海は幼少期よりこの伯父から学問を学びます。

内容はおもに儒学。彼は仏教よりも前に儒学に親しみ、有名どころの漢籍をマスターしていたことになります。

藤原氏の権勢に押される地方の豪族にあって、幼少の空海はよほどの期待を背負っていたものと思われます。

しかし空海が出世の道を進むことはありませんでした。むしろ20代の若き空海は、山や森を渡り歩く乞食僧と成り果てています。

何が起こったのかは謎ですが、空海は「自分には公の仕事をこなす才能はない、しかし故郷に帰るのも忍びない」と書いています。


空海はこうして世を儚む仏教徒へと変身。

その宣言書は名著『三教指帰』として知られます。

放蕩息子に対して、儒教・道教・仏教から代表者が一人ずつ生きるべき道を説く内容。最終的には、仏教がもっとも優れた教えであることを主張します。


『三教指帰』の7年後、空海は唐にわたります。

この7年に空海がなにをしていたのかは不明。しかし唐に到着したときには、すでに密教を学ぶことは決まっていたようです。

空海は密教の中心地、長安に向かい、恵果と出会います。

恵果はアモーガ・ヴァジラの弟子であり、インド以来の密教の正統を継ぐものでした。

その恵果が日本から来た空海に密教を伝えます。彼は空海を見るや「あなたが来ることはわかっていました」と言ったそうです。

教えを伝授した恵果は、「早く日本にお帰りなさい、そして密教を広め、人々を幸福にしなさい」と言います。

中国に20年滞在する予定だった空海は翌年に帰国。恵果の教えの通り、怒涛の活動へと身を投じていきます。


帰国した空海は嵯峨帝との交友により影響力を確保。

嵯峨帝から与えられた東寺を鎮護国家のための根本道場として運営します。

高野山には真言密教の修行場をつくります。

また東寺の近所に学校を設立。これは日本史上初の庶民向けの学校でした。

そして密教の奥義を説く著作を連発。

多彩な影響力を振りまきつつ、空海は835年に地上を去ります。


空海の弁証法的体系

空海の仏教は「密教」の名で知られます。

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