恋愛特権化社会 ようこそ実力主義の教室(クラスカースト)へ

.Qです。締め切りがいっぱいあります。なんでこんなに締め切りがいっぱいあるんだろうと思ってたら、大学で文化系サークルに5つも参加しているからでした。何考えてんだお前。


女をあてがえ論

最近話題のやつです。

総マッチング論だとかなんとか、どう言い換えてもいいんだけど、つまり、非モテの苦しみを救うためには、女の人が魅力における下方婚をして、非モテも恋愛できるようにしなさいっていう考え方。

赤木さんだっけ、働く女性には男を扶養する義務がある、と主張したの。

まあ、つまり、恋愛市場において劣位に位置する男性にも、恋愛における保障が必要なのだという主張ですね。ぼくもこれには部分的に共感するところがある。だがまあ、無理筋ですよね。当たり前だけど。


女をあてがえ論への反論

選ぶ権利がありますからね。キモオタと義務で恋愛なんかやってられんでしょ。上を向いて夢を見て、夢野幻太郎に壁ドンされたいじゃないですか。あれっそういう話じゃなかったっけ?

まあ夢野幻太郎じゃなくても、女性側には自由意思で伴侶を決める権利があるので、キモオタを選ばなければならないっていうのはその自由の権利の侵害になるよね。当たり前じゃん。何言ってんだよキモオタども。

富の再分配、みたいなことで、愛を享受できない人間には愛の再分配が必要なんだけど、それは「持っている」人間について明らかに人権侵害である、と、人間は主張せざるを得ない。単なる商品と違って、自分が愛を与えたい人間以外に対して愛を与えることは根本的に不可能だからだ。だからこそ愛は素敵で、かけがえがない。

だからこそ、主にフェミ系とか、アンチ非モテ論の立場からは常にこのタイプの反論が来るし、実際非モテ論やってても女をあてがえには否定的な意見が多い。メンズリブ系はどっちかっていうと「隣に女が居なくても幸せになれる」だしね。

でもここで、反論としてなされるものの中に、「女性に選ばれるように努力すればよい」「能力が足りないのがわるい」という反論がある。かの上野千鶴子も、「『非モテ』のミソジニー」っていう文章において、モテないやつはコミュ力や魅力が足りないからであり自分が悪いと痛烈に批判しているんですね。別の文章では非モテは女に近づかずに一人で生きていけって書いてたはずなんですけど出典忘れました。レポートだったら怒られるけどいいでしょ別にnoteだし。

これがね、ズレの原点なんすよ。


能力が足りなければ行動が制限されてもよいのか

これには二つの立場がある。人権的には当然、よくない。けれど、能力主義の考え方もある。能力がないならそれに見合った役職や報酬を得られないのは当然である。選ばれないのだから伴侶がいないのも当然である。ま、資本主義における自由競争の考え方ってこんな感じですよね。

ここで対立するのが基本的人権の考え方で、実は二つの対立する軸が両方存在しているんですね。これがすれ違いの原因だと、僕は思っています。

能力主義をラディカルにおしなべて適用すれば、例えば障害精神病によって金が稼げない人間は飯も食えんということになる。そのために日本国憲法では、すべての国民が「最低限度の健康で文化的な生活」を送れることを保障しているのである。そういうのが福祉だ。能力が足りない人間にも権利はある

ここで対立しているふたつの軸っていうのは、

小中学校は義務教育(人権)と、

有名私立中学に入るのは受験に勝利した奴だけ(能力主義)のことだ。

世界のあまねくことがらにはこの二つに類されることがらが混在していて、どっちなのかぼんやりしているようなことがらもある。小中学校で教育を受ける権利はあるけれど、開成中学で教育を受ける権利はない


恋愛は最低限度か

というか、保障や福祉の対象か、という議論である。女をあてがえ論というのは、恋愛をしたり、セックスをしたり、結婚をしたり、ということがらは、人間が人間として尊厳をもって生きていくためにはそれらが不可欠であるという世界観に基づいている。逆にアンチ女をあてがえ論については、受験に合格できない人間は開成中学には受からないのと同様に、恋愛やセックスや結婚するに至る競争に勝てない人間がそれらを得られないのは当然だと主張している。つまり、恋愛の世界を能力主義に類するか人権に類するか、という部分において食い違っているから、論争が先に進まないのである。

と、ぼくは思っている。

女をあてがえ論じゃなかったとしても、非モテ論壇はおおむね、恋愛をすることは人間に不可欠である(つまり恋愛ができない人間は救われるべきだ)という世界観で動いている。

健康で文化的な最低限度の生活を保障するために生活保護があるのだから、健康で文化的な最低限度の恋愛を保障するために彼女保護が必要      ――.Qが中学生のころによく言ってたやつから引用

これを現実的に考えると、いちおう、恋愛をすることっていうのは生きていくために必須のものではないし、それに適性がないからといってマッチングが義務化されるということは現実的ではない。

ただ、生きていくうえで、それが「アンチ非モテ」の人がみているよりもよほど深刻な「生きづらさを非モテの人々が感じていることは確かなのだ。けれど非モテの当事者ではない人間は、そんなことのために他人の自由(恋愛)が阻害されてはいけない、というふうに(過小に)解釈している。ただし、まあ、一般的に非モテじゃなくてなんだかんだ恋愛やセックスを楽しむことができる人間のほうがマジョリティなので、非モテが勝手に恋愛ができないことの苦しみを過大に解釈していると言い換えることもできる。これはクオリアで、どっちが正しいってことも無い。主観について客観的な結論を出すことはできない。

とにかく、「恋愛」は必需品で、それが無いから苦しいのだ、という非モテ論は、恋愛が足りている人間から、「恋愛は必需品ではない」と切り捨てられている、という構図だ。非モテ論とアンチ非モテ論がわかりあえない理由は、恋愛が人権によって保障されるべきなのか強者の特権なのか、という部分ですれ違っているからだ。

そしてぼくは、二十代の半分くらいが童貞であることや、セクハラ・告ハラといったハラスメント概念の敷衍により「恋愛における能力が足りない」ことが単に非モテであるだけでなく加害でもあると規定される昨今の潮流を、恋愛が人権の側面を縮小実力主義(強者の特権)の側面を拡張している、と感じている。恋愛は、公立中学から開成中学化しつつある。

だからこそ、これから、それに比例して非モテ問題は拡張していくと思う。非モテは苦しみを持っている。それを軽視した結果がインセルを産んだんだ。女をあてがって非モテの苦しみが氷解するとは思わない。けれども少なくとも、「非モテが恋愛できないのは当たり前だろ一人で死ね」っていうのは、少なくとも人権的じゃないとは思う。フェミ系が非モテを攻撃しながら人権派を名乗っちゃいけないと思う。

非モテが救われるためには、まず、非モテが苦しみを背負った弱者であることを認めることだ。それを自己責任だと攻撃しないことだ。「恋能力がないんだから飢えていてもいい」なんて言えるのは、自分が飢えていないからだと自覚することだ。

ただひとつ問題が、そんなことは無理だということだ。非モテは魅力がないゆえに、救いたいと思われないがゆえに、非モテなのだ。だから今日もぼくたちは地を這い、泥を啜り、枕を濡らして生きていく。

女を濡らさず、枕を濡らす。



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