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『中世荘園の様相』網野善彦、岩波文庫

『中世荘園の様相』網野善彦、岩波文庫

 網野さんの本はかなり読んでいたつもりだったけど、一般向けの本ばかりだったんだろうな、と改めて反省。学生の頃、この『中世荘園の様相』を読んでいたら、マジで日本中世史をやろうとしたかもしれないなどと仕方ないことを考えながら読みました。

 本書は太良庄の開発から、東寺の荘園となるいきさつ、百姓や代官同士の訴訟合戦、突然やってきて突然終わる得宗支配と南北朝の混乱、何がなんだか分からない観応の擾乱に晒されながら、農業以外の手仕事なども含めて経済が発展、貨幣経済がこんな荘園にまで浸透していく様子が生き生きと描かれていて感動させられます。

 いまの列島に生きる、ほとんどの人は、中世には荘園で百姓をして生きていた祖先の末裔でしょう。先祖たちが、どのように自分たちの権利を護り、守れなかった時には、どう対応したか、そんなことも分かる気にさせられます。

 太良庄が成立した後、治承・寿永の乱(源平の争乱)に巻き込まれ、やがていったんは御家人となった土着の豪族の領地となるのですが、それが鎌倉幕府から排され、東国武士が直々に地頭となって入部するというあたりから本書は始まります。その地頭が横暴を極めるという、お約束の展開となるのですが、全国の土着の権利は《荒々しい関東武士の土足の下に蹂躙されはじめていた》(p.24)ということで、「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺は、最初にガーン!と幕府と惣領のパワーを見せつけるために、わざと集中的にやった当時の世相をあらわしているんだろうなとか考えてしまいました。

 それにしても、新たに開いた耕作地は、たとえ最初は借り物の土地の延長線上にあったとしても、開発者のものになるというのは東国武士の権力集団の明るさというか合理性も感じさせられます。承久の乱の気分が醸成されるのも、いったんは東国武士に与えられた打撃から回復した土着層が、中間管理職的に再雇用されるも、同じような心情から、過去の土地を忘れられなかったんだろうかな、とか(p.26-28)。

 『中世荘園の様相』の様相で凄いな、と思うのは治承・寿永の乱、承久の乱、元寇、得宗支配の強化と突然の崩壊、南北朝の争乱、当事者でもおそらく何にがんだか分からなかったんじゃないかと思う観応の擾乱などの大事件が、山深い小さな荘園にも確実に影響を与えていること。また、東寺や地頭などの代官だけでなく、農民も含めた訴訟合戦の膨大さには驚かされます。鎌倉幕府も苦労したろうな、と。

 こうした訴訟は「所職」を巡って行われるのですが、《「名主職」や「領家職」など、中世社会内部での地位を表わす用語であり、また同時にそれに随伴する職務や利権(得分権)を意味する》もので、《「所職」は、基本的には上位者から補任されるものであり、その点では職務としての意味合いが強いが、一方でそれを手に入れた者はそれに付随する排他的な得分権を手にすることができた》(p.439)ということで、網野さん考えは、所職とは得分であり、主従関係の意味は喪失されていく、というものです。所職から主従関係が喪失されていく過程で下剋上が発生するのですが、そうした権利を巡る闘争も織豊政権、徳川幕府によって終わりをつげ、荘園自体も終わる、ということなんだろうな、と。

 農民の私有財産意識を、あまり網野さんは高く評価していないようにも感じるのですが、いったん耕作を依頼されたら、自分の手で拡大した耕地はもちろんのこと、依頼された土地も自分のものであるという意識から、それを懸命に守ろうとする態度は、実はそれこそが新しい意識なんじゃないかな、と個人的には感じました。

 岩波書店が、これを岩波文庫に入れた意義は大きいと思いました。

 以下は解説の清水克行先生による太良庄の歴史のまとめです(p.431-)。

 《父平忠政の私領太良保を継承した開発領主、出羽房雲厳が本書の最初の主人公であるが、一二〇八(承元二)年、彼はその土地を地域の御家人稲庭時国に譲って早々に没落する。
 しかし、その稲庭も承久の乱で没落、太良保は地頭若狭忠清の手に帰する。一方、京都では仁和寺菩提院の行遍の工作により、一二四○(延応二)年、太良保は東寺に寄進され、東寺供僧領太良荘として生まれ変わる。新たに太良荘の経営のために現地に乗り込んだ東寺の代官定宴は、百姓勧心らの協力も得て、地頭若狭忠清の勢力を排除することに成功し、一二五四(建長六)年に念願の実検(田数把握)を実現する。この時期、代官と百姓たちの間には懸命の連帯があり、両者のあいだには生きた主従関係が存在していた。(第一章)
 ところが、蒙古襲来の激震のなか、太良荘では末武名の名主職をめぐって稲庭時国の孫娘である中原氏女と、出羽房雲厳の養子である宮河乗蓮の対立が起こる。おりしも東寺では供僧グループが実力を蓄え、太良荘経営に貢献した行遍・聖宴・定宴ら菩提院一派の排斥が進む。この東寺内部の対立が現地にも波及し、故勧心の名田をめぐって西念(勧心の甥)と重真(勧心の下人)のあいだでも争いが起こる。また、預所浄妙(定宴の娘)と地頭若狭忠兼(忠清の次男)との間でも助国名をめぐって争いが再燃する。こうして荘内の混迷が深まるなか、逃亡百姓や下人といった人々が名主職を競望する新たな力として浮上していく。また、それにともない名主職などの「所職」(荘園制内部の地位と、それに随伴する職務や利権)も次第に一個の権益化、非個性化の道をたどり、本来の補任者との主従関係とは切断された意味合いを帯びるようになってくる。(第二章第1~2節)
 一三〇二(正安四)年、鎌倉幕府の得宗(北条氏嫡流)の勢力拡大により、地頭若狭忠兼は罰せられ、太良荘は一時期、得宗領となる。得宗支配下では、借上(高利貸)あがりの熊野僧、石見房覚秀が起用されるなど、時代は人々の利得や欲望を解放する方向へと向かい始める。しかし、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇の建武政権が発足すると、東寺は太良荘の領家職と地頭職を手に入れ、荘支配を復活させる。そのなかで太良荘の百姓、禅勝・実円らは惣百姓と連帯し、地頭代脇袋彦太郎を追い落とす。これが太良荘の歴史始まって以来、最初の「土民」の「一揆」だった。しかし、その後、禅勝・実円らは復権を企てる若狭忠兼との抗争に血道をあげ、みずからの「所職」に執着するあまり、惣百姓の反発を招き、姿を消す。新たに現れた法阿や乗蓮(宮河乗蓮とは別人)らの惣百姓たちは、過去の人間関係の歴史と因縁を無視した図々しくも現実主義的な風貌をもっていた。(第二章第三〜四節)
 その後、室町幕府下の守護大名一色氏の支配は、一三七一(応安四)年、地域の国人たちが起こした応安の国一揆を鎮定し、新たな秩序を生み出した。しかし、その「守護領国制」においても、上は天皇から、下は一般の百姓まで、すべての人々はなお「所職」の世界のなかにあり、荘内に生きる人々の生活は基本的になんら変わるところはなかった。「歴史を無視する人たちはそれを克服する力を欠いており、歴史になお未練をもつ人々はそれを主張し切る力をもっていなかった」(三五五頁)。所職のなかに生き、その遺産のなかでしか「自由をまもる砦」を求め得なかった百姓たちの歴史は、一五八八(天正十六)年、豊臣政権による太閤検地の実施により、その幕を下ろす。(第三章・終章)》

 50年以上も前に書かれた本だから色々克服されるべきところもあるかもしれませんが、GWが終わったら小浜まで延伸された北陸新幹線に乗って太良庄を訪ねてみようかな、と思います。

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