イスラム教と世間体

おせっかいシリーズ(笑)

世の中のイスラムに関する読み物には、権威ある人のイスラム批評か、知識があって敬虔な信徒のブログか、はたまた偏見を正当化するためにコーランの特定の箇所を持ち出す人らの記事が多い。(←個人の感想です)
私のようにムスリム歴が浅い人は、発展途上の自分のイスラム知識を書いて批判されることを恐れたり、まだ信仰心が浅い文章を敬虔な信徒に見られることが憚られたりするから、数としては少ないんじゃないかと思う。でも改宗した人は誰でも最初は赤ちゃんなんだし、いちムスリムの成長記録として読んでもらうのもアリかなと思って書いています。

さて、今日のお題はムスリムと恋愛し結婚したとある日本人女性の(無)宗教観について思うことがあり、書いてみました。

書面上ではムスリマ(イスラム教徒の女性)になったものの、実生活では私は関係ないしという人をたま~に見る。

結婚後、その女性の夫はますます敬虔になり
タバコや酒を辞め、礼拝に勤しむようになったが
とある女性はまったく相手に寄り添わず無関心(相手もちゃんとイスラム教を教えたり、女性の文化に寄り添う努力は必要だけどね。)、
とある女性は夫が宗教を押し付けているように見えて口喧嘩になることもあるとか。(過激派がいるような宗教はおかしいでしょ!みたいな)


イスラムのことをよく知らず(調べずに)相手の宗教はよくわからないけど別々でも何とかなるさ…と付き合ったものの、やっぱりというかうまく行かなくなって別れた後に「イスラム教徒はダメだ!」とかブログに書かれたりするのを見ると、私は悲しくなる。終いにはその地方に元々ある部族の文化や家族の習慣に至るまで全部イスラム教のせいにされてしまったりもする。アチャ~
価値観の合わなかった部分を全部イスラムに押し付けないでくれ~
当たり前のことだけど、国際結婚に限らず相手を理解しようとする努力なしに、他人と一緒に人生を歩んでいくことは出来ない。だから端からイスラム教は理解不能だ、可能なところだけ妥協しようなどと壁を作らず、疑問を持って聞いてぶつかっていいと思う。ときどき、相手がイスラムと関係ないただの習慣に執着しているだけの場合もあるし、日本の文化って何なんだと気づくきっかけにもなるし、自分が切り離せない・大事だと思っていたものの本質も見えてくるから。


最初から価値観が違うのが分かってて付き合っていても、結婚するとそこを無視して生活できないのよね。日本人的な「周りに合わせて」ってのは必ずしも相手に通じない。というか「周りに合わせて」っていうのは周りに合わせて欲しい人の価値観の押し付けだという場合もある。私も昔は「改宗するから、あなたも墓参りとか初詣に来てよ」とか言ってた時代がある…。


以前の記事にも書いたけど、寄り添いと妥協(我慢)は違う。
ときどき相手に苦手な要求をされたときに、その場を丸く収めるために無理して受け入れている人もいるけど(例えば家族を優先したり仕送りしすぎる、頻繁に急な来客をもてなすなど)それは宗教というより家庭の事情や文化の違いだろうと思う。イスラムの教えで家族や旅人や客人に親切にっていうのはあるけど、イスラム成立以前からその地域に存在した文化でもある。そういった人たちの根底にあるのは身内を大切にする人間の本能的な部分であったり、風土から培われた共感と相互扶助だ。逆に人々の出入りが激しくない地域において、警戒心が強くこういった習慣に慣れていない人にとってはストレスが大きいと思う。
これに関してはお互いに持っている常識が真逆なので、すり合わせの話し合いが必要だと思う。私はそういうことに慣れていない部類の人間なので「突然の来客は苦手」「もてなすけど、来客となる時点でラインで教えて~」と言っています(笑)。ただ黙って我慢して、相手には私が我慢したんだからあなたも次は何かで我慢してよ、という「空気読んで察しろ」いうのはほとんど通用しません←日本人同士でも通用しないときもあるんだから…^^;ストレスを抱えたままいると後で爆発します。

なーんて偉そうに言ってすいません。
夫婦にはいろんなかたちがあるんだから、知らんムスリマにとやかく言われたくないわ!と言われそうだけど、好きな人の思想の根幹にあるものとか、どうして日本ではお金にもならず、不便にしかならなそうな信仰を持っているのか興味わきません?私にとっては、例えば同じ家に住んでいても入れない部屋(彼の宗教)がある感じでモヤモヤするので、そこにどんな内装や家具があるのか知りたい。その人と一緒に生きるならシェアハウスに住むような部屋を分けた共同生活ではなく、チームや共同体として生きたいと思うから。
私の夫は常々「結婚は同じ目的がないと続かないよ」と言っているが、確かに、世間体や経済面のメリットで一緒にいたら、イスラム的な志向と合わないところがどんどん出てくると思う。(好きなだけでは続かないというのもある。)

まぁ個人的には一緒に礼拝してみたり、断食体験とかやってみるのをおすすめする。知識を詰め込むだけではなく、実際にやってみて気づくこととか共有できる思いなんかもあるので。私は改宗前に興味があって、ムハッラムの3日間の断食とかやってました^^;←マラソンに参加しているような感じで達成感がある!終わったあとは打ち上げと称して美味しいものを食べに行きましたよ。


そんな私も昔は断食は身体に悪い!と思い込んでて、出来れば回避しようとすら思っていたが、医学的な意見とか読むとドライファスティングは逆に身体にいいって分かり、一年に1回のラマダンは身体のためにもやりたいと考えるようになった。むしろいつも身体が求めるだけ貪り食うのは、胃腸を始め内臓や血管に負担かけてるから、時間を定めてそいつらを休ませるのも大事だと思うようになった。(おかげでラマダン後はいつも体調がすこぶる良くなります。)
それに欲しいときに何でも得られるっていうのは、人間の自制心を怠惰にしてしまう。それは何かが得られないときに何倍もの辛さとなって戻ってきたり、少しの不便が耐え難い苦痛となる。簡単に飲める水を、期間を決めて自発的に「先延ばしする」ことは精神力を鍛え、自分に自信を与えてくれる。ちょっとしたことでも「あの暑い時期のラマダンに比べりゃ楽だな」と思えるようになる。
今は何でも便利・快適になってしまい、手間や時間なんか簡単に短縮出来て人間がどんどん甘やかされてしまった。その結果、少しの不便が我慢出来なくて、それを解消するためにお金を払ってサービスを受けることも多いんだよね。

さて、日本人の一般なイスラムイメージといえば、「社会」系の授業で学ぶ
六信五行とか、ムハンマドが開祖で~、アラブ人が崇拝するアッラーの神で~だろうか。
ムハンマドは開祖でもなければ、ムスリムは数多ある神々のうちのアッラーという神を崇拝している訳でもない。

ムハンマドは世界中にいる預言者のうちの一人だし(予言者ではない)
アッラーはキリスト教・ユダヤ教と同じ、唯一創造神の呼び名である。

今は日本の教科書もだいぶ改訂され、私が義務教育で学んだ内容とは変わってきてはいると思うが、少なくとも私が当時の学校教育や特定のメディア( )から得た知識は実際に自分が見て知ったイスラームからはかけ離れたものだったと思う。


私が昔イスラームと聞いて思い浮かんだのは、ジハードという言葉を使いテロを起こす奴ら、一夫多妻がデフォルト、男尊女卑、大陸の人の強い性格に合った宗教、という感じだったかな。
それこそイスラムについて自分が勉強して、盲信している現夫を言い負かしてやるぜくらいの気迫で片っ端から調べたが、イメージ先行の自分が思い描いたイスラム風のことはコーランやハディースに書いてないし(自分の解釈が誤っていた)、イスラムの表面をかじった人らがイメージで語ってる情報に自分が踊らされてたと気づいた。


基本的に人は生まれ育ってから染み付いた文化・習慣からくる考えを簡単に覆すのは難しい。どんな人も自分が長年生きてきた環境や人生を普通は肯定的に受け入れるし、違う価値観を持った人をまずは疑ってかかるもんね。
私もムスリムになる前は「ひえー、ムスリムってテロリストの思想なんだねー」と思ってた時期もあるんでそういった気持ちも分かる一方、自分の夫に口答えするなら少しくらいイスラムを勉強した方がいいなぁと思ったりもする。私は過去によく知らないまま否定してて、後でちゃんと知識をつけたら「恥ずかしいほどの思い違いをしていた…あのときの自分が情けない…」となった経験が数回では済まない。

さて、日本人女性側の言い分として「宗教とは無縁です」「私は慣れ親しんだ神道・仏教の教えがしっくり来て共感できます」がある←だいたいこれが並立している^^;

完全な無神論者に対して論破出来る力は私には無いが、日本人のふわっとした無神論と多神論は突き詰めていくと根幹となるようなものがない。
だが、信仰心のない人でも生命の危機に「かみさま助けて~」となる「かみさま」は天照大神や如来や本尊なのだろうか。多くの日本人は神仏に祈る考えを持っているようだが、こういうときの「かみさま」はきっと「人事を尽くして天命を待つ」の天命で表現されるような、自然界における絶対的な力を持つような対象に対しての祈りじゃないかなと思う。
世界中の多くの一神教の信者はこの対象(天命)が意思を持って、自然や人間をどうとでも出来るような絶対的な力を持った(&慈悲深い)唯一の存在として「神」と呼んでいる。

日本でいういわゆる八百万の「神」は、そういった一神教の神の力を分散して個々に名称をつけて崇める対象だ。学問の神とか、安産の神とか。山の神とか。
(掘り下げると、その神々でさえも自然発生したという概念で見るので、最終的には創造神と別の存在になってしまうのだが・・・。)


さて、慣れ親しんで捨てられないほどの宗教というものの、それらの根幹の部分はどこにあるのだろう。固執するやり方はどこから来たのだろう。
神棚、仏壇が何のためにあり、当初から正しい祀り方などがあるのだろうか。本質的な教義も本尊も(仏教で言う)戒名も、どこからやり方が生まれたのか。祝詞もお経も誰の何のための言葉なのだろうか。まぁ別に信仰心の篤さが知識量と比例する訳ではないので、そういったことを知らない人たちを責める気は全然ないし、神道・仏教思想をサゲるつもりもないのだが、宗教儀礼や自分の国に長らく根付いている文化について少しくらいは知ってて欲しいなと思う。


そういうお前は神道・仏教について知ってんのかよ!と突っ込まれそうだなぁ^^;
私の宗教観はしごく普通の日本人だと思う。小さい頃、生家に(道徳的なことを子供に教育するための?)仏教の漫画が20冊くらいなぜかあったので、他に娯楽もなく読み漁っていた。それらは主に釈迦と鎌倉新仏教の開祖らの人生や、お経の意味を漫画にしたものだった。学生時代は宗教に興味を持って講義を受けたり、図書館で本を読みあさったりした。そんなこともあって何となく神仏はいるだろうと考え、節目では墓参りや神社にお祈りに行き、祝詞とお経くらいは暗記していた。イスラム教徒になる前は年に一回は伊勢神宮に参詣し、一人暮らししてたときには家には神棚を祀り、仏壇の前でお経を唱えていた程度だけど。


暴力的なイスラム教徒と違って(失礼^^;)日本は温和な多神教だと信じてたので、今の夫を説得するために、いかに神道・仏教が「正しい」かを説明しようとしたこともある。けれど、調べれば調べる程 自分の宗教って何?って疑問が出てきてしまった。

「一神教は不寛容で、八百万の神は何でも受け入れる」から日本は寛容で素晴らしいとは思ったが、一神教と多神教は同時に存在する概念じゃないから寛容と言う耳障りのいい言葉で一緒くたにできないことが分かる。そもそもそう言ってしまうことは一神教を否定し、あんたの神より俺らの神の方が上だぜっていう風にしか聞こえないような気が…(多神教優位論というらしい)。

神道・仏教のどの部分がしっくり来るのか?というと、しごく道徳的なこと(他人に優しく、先祖を大切に)が出てくる、でもそれって仏教じゃなくて儒教の教えじゃないのか?葬式の儀礼・作法も儒教式だしね。

もしかしたら私は生地生家やその生活の文化圏でやってきた儀式を見様見真似で数十年やっていて、それが宗教だと思いこんでいたんじゃないだろうか。周りの人間がそうしてなかったらどうしてたんだろう?また、まったく環境が違うところに行ったら、その儀礼を独りでも継続的にやるのだろうか。

学んでいく中で、宗教として必要なお祈り・葬儀の方法などは日本に入ってからいろんな人が知恵を絞り改造して今の形になったようだ。弔い方だって少し前はおそらく土葬が一般的だったが、世界大戦などで死者が一時的に増加したときに埋める土地がなくて火葬が定着したんだろうな。(江戸時代は今のような焼却施設はなかったろうし)
宗教的にこだわられがちな火葬は、おそらく直近の先祖のやり方を踏襲・尊重することが儀礼として定着しているのであって、信仰心に基づいて行われているのではないんだろう。ここには仏教というよりも、八百万神への信仰がベースとなる「祖霊崇拝」の慣習が目を出し、先祖のやり方を続けていくことが良いことという考えに基づいて行われているのかもしれない。


あとどんな宗教も政治的(←政府に限らない。特定の権力者が都合よく統治するためなど)に利用されている側面がある。
日本に最初に仏教が広まったのは聖徳太子の時代だが、釈迦の教えを取り入れたというよりは、中国で統治に利用されていた仏教の考え方を日本の国家統一のために取り入れたことによる。憲法十七条なんかは仏教だけでなく、儒教や法家の影響が見られるから(第一条の和の精神なんかモロに論語の影響よ)豪族を治めるために(中国の科挙にみられるような)役人としての心得を示したものなんだよね。儒教は封建的な支配制度をするにはもっとも適した思想といわれる所以。
↑決して聖徳太子を下げるわけではないです^^; この人は仏教をなかなか研究してて、経典の注釈書も書いている熱心な人。

神仏習合・本地垂迹説・廃仏毀釈なんかが歴史上どういうタイミングで誰によって行われてきたかを振り返ればなかなか面白い。神道と仏教の本質は果たして一体どこにあるのだろう…。私は今まで信じてきた自分の中の神道・仏教の認識が 最終的にはあやふやなものな気がしてきた。世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)→この世は虚しい仮のもの。仏こそが真の存在であるというが、仏すらも作った存在についてはいつも日本お得意の自然発生論で煙に巻かれている気がするんだよね(- -;)


私は輪廻転生論さえも、人間がそのときに自分を納得させるための都合のよい一時的な解釈のように感じてきてしまった。使い方によっては現状の良し悪しをすべて自己責任に帰してしまう無慈悲な考え方にもなるし、生まれ変わりがあることが現世からの逃避に使われ自殺をする人の動機の一部分にもなる。だったら前世なんてものはなく、現世で人間が与えられた環境で魂が試験されて、それが死後に評価されるシステムの方が私にとってはシンプルな世界だなと考えた。


私の宗教観の遷移はさておき、宗教ついては今回のタイトル「世間体」というものが一番の引っかかりではないかと思うんですよ。
私だって、イスラム教への改宗については「親や親戚の目が良くないんだろうなぁ」と思ったもの。


日本では信仰心があると「ギョッ」とされることが多いと思う。
それはカルト宗教に盲信している人を想像させたり、一家で宗教団体の餌食になっている人を想像させるためかもしれないが、世間体の悪さがあるかもしれない。

ある子供が人前でお経を口ずさむ(たぶんその家のおばあさんとかが仏壇前で毎日唱えているのを覚えたんだろうね)と、それを聞いた他人にその一家が怪しい宗教にでも入っているのではないかと疑われることを気にして「シッ」と止める母親を見かけたりするし、私の親も「宗教にはのめりこむな」という風に釘を刺してきたこともあった。
日本人は他人にどう思われているかを異常に気にする。なぜなら集団から嫌悪感を持たれて排除されるムラ文化があるからだと思う。そして「多数が行うようなやり方で宗教に向き合う」ことが周囲(という謎の空気)から求められる。


コミュニティにおける寺がその地域の子どもたちにそろばんや習字を教えていた時代、宗教はもっと身近なものだったかもしれない。しかし現代では学校や塾では宗教について教科書以上のことは教えてくれないし、宗教の寛容さを説く前に「特定の宗教に肩入れしてはいけない」という空気があるので、宗教めいた話をするだけでも怪訝な反応をしてくる人もいるし(宗教的なものを忌避・嫌悪している)、そこから信仰や宗教に偏見を抱く人もいる。そんな中で生きていると、宗教の本質が何かわからないまま触らぬ神に祟りなしということで宗教に無頓着な人たちが多くなってしまうのも仕方ないのかもしれない。
そうやって信仰心が何か分からず、相手の信仰心を「尊重」できず、知らず知らずのうちに相手の信仰心をないがしろにしてしまっている人はいる。


日本の場合、周りがやっている宗教儀礼を先祖から子孫へ脈々と続けていくことで、それが家族やコミュニティが一体感を持てる共通の価値観として定着したんだと思う。その儀礼は季節ごとに親族が集まるときの土着のイベントの一部として組み込まれ、世代を超えて共有できるものとなっていった。そして周りに合わせる意識が強い民族だから(特に田舎では周りとは別のことをやると目立ってしまうから)、そういった多数派の慣習が文化・季節行事・宗教っぽいものとして、残っていったんだと思う。


まぁ日本は世間体がある種の宗教みたいなもんだから、大多数に合わせることが身を守ることでもあるし、仕方ない部分もあるとは思う。「みんな」がやってることを自分もやることで安心感が生まれ、また周囲のコミュニティに「私はあなたたちと同じですよ。安全ですよ。」とアピールすることにもなる。
逆に「あなたたちとは違いますよ。」というのを日本の閉鎖的コミュニティでやることは危険な場合がある。←自分たちと違うものを危険だと思い、排除したい集団本能が働くから。


かくいう私も、入信するときに信仰心が育っていた訳ではない。
今から見たら、よく分からないままに改宗したなぁと思う。最初の頃は「人に見られること」を意識していたから、自分の礼拝のやり方がかっこ悪くないかとか、コーランの章をいくつ暗記すべきかとか、断食も中途半端な面があった。
それでも様々な導きがあり、今日まで勉強して少しずつ理解するようになれた。


崇拝行為も奥が深い。改宗する前はイスラムの六信五行を字面しか理解しておらず最低限の義務さえやればいいと考えていたが、いやいや奥が深い。

礼拝も雑にやれば義務のものをまとめてやることもできるが、
いかに時間どおりに、また丁寧にやるかが大切だと考えるようになった。
例えば礼拝の前の清めをきちんと行うこと、5回の各礼拝の中には任意の礼拝をくっつけたり、祈願をしたりすることもできる。断食は定められた時間内に飲食を慎むだけでなく、怒ったり陰口を言ったりしないこと、期間内にできるだけ善行をすることが大切だ。

こうなると人目を気にすることなく、常に自分に正直になれる。いわゆる「お天道様は見ている」状態だ。他人には分からなくとも自分には怠けたりズルをしたことを隠せないし。
そして、今までいかに周りを他人を意識して生きてきたかが分かって恥ずかしくなった。他人の目を基準に考えや行動を判断するのって善悪の基準を自分の中に持たないことになるんじゃないかなって。


まぁそんな訳で、相手の国での結婚契約のときに紙の上だけ入信するのももったいないし、今からでも少しずつイスラムを知って欲しいなぁと思います。そこまで悪い宗教が世界で4人に1人が入っている訳ではないので…。


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