オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

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新潮の福田恆存訳。出版社の梗概に“耽美と異端の一大交響曲”とあるけれど、少し僕の考える耽美とは趣が違うような。佐伯彰一が解説で指摘する以下の見方のほうがしっくりくる。

彼の「悪」からは、多くの「悪事」につきものの官能的な陶酔や、はげしい解放感はいささかも嗅ぎとれない。
(略)
この小説は、高らかな芸術至上主義宣言などとしてよりも一箇の倫理的な寓話として生きているのではないだろうか。

ドリアンが彷徨う背徳の世界が匂い立つように描かれてはいない一方で、自分で自分の罪を裁く倫理的なシーンがクライマックスになっているのだから。

面白いかつまらないか、といえば面白い小説ではあるのだけれど、あまり耽美だ背徳だというイメージを持って手に取ると、肩透かしをくるうかもしれない。(僕も一度目はそんな読後感だった。)

婚約者への裏切りと婚約者の自死という出来事が、ドリアンの精神を昏いところへ押しやったのだろうか。

婚約者の死を知ったドリアンは

ああ、神さま、神さま!ぼくはいったいどうすればいいのだ

と叫ぶ。ここからドリアンの地獄巡りは始まった。自分の犯した罪から目を背け、快楽と悪徳の限りを尽くす淫蕩で放蕩な暮らし。しかしこの小説の眼目は、そういった悪の世界を描くのではなく、ドリアンの苦悩と改心に主眼が置かれている。まさに“根深く倫理性、宗教性が喰いこんでいる”(佐伯彰一の解説)作品なのだとおもう。

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