「文化人類学生が、デザインリサーチやってみる」批判

本稿は、以下の記事(以下「対象記事」という。)に対する激烈な批判である。これから冷却水を浴びせるので覚悟して読むといい。が、同時に、憶測を大いに含むために聞き流していただいても構わないようなものでもある。それでも、私としては私の都合で真剣に伝えておこうと思う。

対象記事全体から、いわゆる「文化人類学の実社会への応用」について、学術的な位置付けによる正当化や、効用・帰結による正当化を密かに求めている印象を受ける。度々顔を見せる命令的、禁止的な表現、借用的であることに自覚のない借用表現……。「流行」に対して懐疑的な目で見ながら、まさに「流行」の中にあろうとしているようにも思える。自らの活動、というより自分自身について、他人から、社会から、承認されたいと強く願っているようでさえある。むしろ、対象記事は一貫してそのことしか書かれていないのではないか。シリーズ連載の初回だとしても、フィールドワーク前の段階だとしても。ほかの方々がどう言おうが、私にとって文化人類学もデザインもあまり感じさせてくれるものではなかった。

だからこそ最後のほうは当たり障りのないお決まりの「グラデーション」に逃げるのではないか。たしかに誰も否定することはないだろう。間違ってはいけないことを大嫌いと言いつつ、完璧に正しいことしか言っていないではないか。グラデーション! そりゃそうだ! 線引きはいつだって人間の、あなたの、私の、不完全な都合でしかないのだから。そのことは文化人類学を扱ううえでよくご存じだとは思うが、そうした線引き――文化人類学の一部では「構造」と呼ばれているもの――に対する洞察は、ほとんど何も書かれていない。しかし、脱構築だって二項対立を明晰に分析するからこそできる話だろう。

僕が学んできた文化人類学と、巷で騒がれているそれは何かが違うような気がする。このモヤモヤはいったい何だろう?

同記事第1項「はじめに」

そのモヤモヤ、違和感は、「どうして自分の思うところの文化人類学は他人から認められていないのだろう」という響き、さらには「文化人類学を扱う自分は他人から認められていないかもしれない」とでも言いたげな響きが聞こえる。「それだけは避けたい」のはそういうことかな? だから注目を集めようとするのかな? そう捉えると「人類学的知見はどうやったら社会利用できるんだろう?」という言い回しにも別の響きがあるように聞こえるね。ちなみに私はこの読み方を「脱構築」と呼んだりしている。

そんなことよりも私が言っておきたいことを言おう。そうそう、あなたの都合はどうでもよかったのだった。

まず、あなたが何者であるか興味はない。そんなことは私の知ったことではない。私以外の人たちがどうであるか知らないが。次に、言論のスタンスとして「学生」という身分や立場に頼ることを私は許容しない。とてもとてもとても気に入らない。身分でも立場でも利用できるものは利用すればいいと思うが、言論内容自体の正当化や免責の事情にはならない。同等の立場として語ってもらう。身分や立場を前景に持ち出した言論を「謙虚さ」とは認めない。「間違ってはいけないことが嫌い」なのではなく、「間違うことに対して非難が来るのがこわい」のだろう? だからあらかじめ傷つかないように中途半端な予防線を文章のところどころに仕込まずにはいられなかった、と、私はそう読んだ。

私の身の上話をしよう。お年寄りがやるような昔話だ。私が学部生の頃は教授陣に議論で勝つつもりで生意気に意見をしていた。実際に生意気だと言われたこともあったし、問答法の中で何人かの教授をキレさせた。澄ました顔で議論に勝つために、ひとりでこそこそと周到に準備をしたものだし、擦り切れたいまだって戦う時機をかなり選ぶようになったほかは変わらない。そうでなければスタープレイヤーに対して無礼であろう? プロに対して手を抜くんじゃない、全力で殴れ!――そう自分に対して言い聞かせた。負けたことも多かった。審判なしでも自分自身でわかることだ。しかし、それゆえに、相手に対する畏敬の念も覚えた。教授としてではなく、ひとりの人間として。私も相手も人間的であったかどうかは知らないが。なんというか、あなたにはそういうのはなさそうだね。

ねぇ、フィールドワークであなたは相手のことをどう思っていたのかな? あるいは、これから何を思うことになるのかな?

私は文化人類学に興味を持っているが、どうも対象記事からは同じような興味を持っている人物が書いたとはおよそ感じられない。なぜ学問などどうでもよいと言わなかった? なぜ有用性などどうでもよいと言わなかった? 「文化人類学」を名乗りつつ、見たまま感じたままを記述していないようだ。いったい何が影響しているのかな?

デザイン論も商業論も論じることは面白いけどさ、私生活上で困っているときとかに、まさにその場で、いまここで、ふつうに道具ってつくるじゃん? そういうの見たことあるよね? 少なくとも昔はそうだったよね? それは何もデザインされてないのかな? それは生活の抽出物ではないの? 大量生産の工業製品に施された美術装飾やマーケティング用途の広告じゃないとデザインではないの? 資本主義に対抗するデザインやその思想とか学術レベルでは本当に鬱陶しいくらいにたくさんあるけど、それらはどう思うの? そもそもそれがデザインであるかどうかって重要なの?  何かを変えることってみんなふつうにやってるんじゃないの? 「自己変容」って言ってるけど、それだと観念的な「自己」自体は何も変容してなくない? 構造人類学的には、人間的主体は構造の結節点に解消されるんじゃないの? 意図のない関わり方はありうるの? 目的論的な介入と意図的な介入は同じことなの? 本当にやりすぎなくらいに反省的に諸前提を疑ったの? 苦痛や苦悶を感じてる? あなたの思う文化人類学が世の中に認められればそれで終わりなのかな?

私があなたならそういったことを自分自身に問うだろうが、あなたは私ではないので、あなたが本当のところはどう思ってどう考えてどういう意図で書いているのか、私は何も知らない。

あえて、だから考えてみてほしいね、と私は言おう。あなたが望むものは何かな?

私の都合に基づく噛み合わない押し付けなんだけどさ。

周囲の想いを認識しつつも顧みることのない大迷惑な昭和朝ドラヒロインとして、自分自身を拠り所として、傷だらけになりながら愛と真実の悪を貫いてもいいと、私はそう思うのだがね。そして、分野間の「相性の悪さ」みたいな話を簡単に持ち出してほしくないね。世の中には残念ながら「本当に」相性の悪い分野というものが存在するからね。厳密にはもはや分野でさえないが……とはいえ軽く見積もられては私が困る。

もし、以上のような私の言葉に何かしらの引っかかりがあるのならば、図書館にでも行って、中井久夫『家族の深淵』(みすず書房、1995年)冒頭収録稿「家族の深淵ーー往診で垣間見たもの」をご覧いただくとよいと思う。少なくとも私の言葉よりは何かしらの重さやきらめきを感じるはずだ。私の書いた記事など忘れていい。ついでに言っておくと、あなたを持ち上げる「大人たち」に心の底から引っかかるな。てきとうにいい顔をしておくだけにしておけ。注目されようとすること自体が癖になったらおわりだぞ。

これは私のお節介だ、悪いね。それでも私は言うのだが。あなたに届かなくても別の誰かに届けばそれでいい。

(文責:平塚翔太)

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