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自分という存在は大事だけれど、自分で全部背負わなくていいんだ

こんにちは!明日美です。

遠くに見える富士山が霞みがかって、すっかり春の景色かと思ったら、寒の戻り。身体も緩んだり、寒さで締まったり、調整を繰り返してくれている。

今日は、「自分で全部背負わなくていい」ということについて、書いてみたいと思います。

子どものいない夫婦生活10年が過ぎ、それなりに色々ありながらも、丁寧に仲を深めてきた。と私は思っている(彼はどう思っているかはわからない(笑))

昔から、彼は、「お笑い」が好きで、私がお風呂に入ってボーっとしていると、離れたリビングで、大笑いして、ヒーヒーいいながら、涙を流している。(実際は観ていないけれど、そんな姿を想像させる気配が伝わってくる。)気配というか、声というか、動きというか。全身で笑っていることがわかる。

そんな時に、私は彼をこんなにヒーヒー言うまで笑わせることはできないなぁと思う。卑屈になったり、落ち込んだりはしていない。
ただ、彼にとって、私がその担当ではないだけなのだけれど、最近は、その気配を感じるたびに、今日もあんなに大笑いさせてくれて、どこのどなたが笑わせてくれているのか存じませんが、ほんとうにありがたいことだなぁと思う。

10数年前までは、目の前の誰かにとって、完璧であらねばいけないような気がして、いつもあくせくとしていたし、どこか緊張していた。楽しませねば、寄り添わねば!!みたいな。そんなのお互い疲れるだけ。当の本人は、必死にそれを遂行しようとしていて、今思い浮かべてみると、ひとりコントのようだった。(答えがそれだけだと思ってる時はそれを必死にやるしかないし、やりきったら、あら不思議。ちゃんと次の展開が訪れる。不要なことなんて何も無い)

ひとりでなんでもしようとする傲慢さは一体どこから来ていたのか。思えば、どこか一角が崩れると自分の存在価値が総崩れになる怖さを抱いて生きていたのだと思う。常に期待に応え、そこにいる価値を、存在そのものを誰かに認めて、許してもらおうとしていた。

「ここにいていいよ」

その一言を喉から手が出るくらい欲しがっていた。あまりにも苦しい(笑)

今では、私にできないことは、誰かや何かが彼を楽しませ、満たしてくれるであろうことに信頼を置いている。だから、彼がこの冬、20年ぶりにスノボを再開しようとしたときも、冬の山々やスノボが今の彼にとって必要なのだなぁと思った。怪我だけはせんように準備だけはしっかりしなされよとだけ、伝え、気持ちよく送り出す。10年前の私にはなかなかに困難だったこと。

そのように至った過程にいろんな要素があったけれど、やはり茶の湯の影響は大きい。

お茶のお点前や美味しい一服のお茶というのは、自分一人では成立しない。そのシンプルな真実をこれでもかというほど、体感してきた。一人よがりの頑張りだけでは、どうにもならない。

道具の声なき声を聴き、身体の自然な動きを思い出す時間の積み重ねがあり、観て、聴いて、味わって、触って、のどやかでありながら、ピンと張るような空気も共にある。
ある。ある。ある。ある。をこれでもかと積み重ねる。

茶杓が無ければ、茶碗が無ければ、お湯が無ければ、お水が無ければ、自分がいなければ、先人たちがいなければ・・・無数の繋がりの中にある奇跡のような一杯。まさに一期一会。空。

そんな中で教えてもらったことは、その時の自分の最善を尽くすこと。背伸びも謙遜も必要ない。その場にいるすべての人たちの協力のもと、道具のよきように身体を動かし、茶筅に茶を点ててもらう。それすらも点前の間は意識にも上らない。

大切な人を楽しませたいなら、今のその人を満たしてくれるものが宇宙のどこかに必ずあるのだ。それが自分でももちろんいいのだけれど。自分が難しいなら、その人の世界に支えはいくらでも顕れる。その無限の可能性を想う。自分が何かをしたければ、進んでする。それもまたよし。

私はそういうことが本当にわからなくて、若いときは本当に辛かった。人付き合いを地獄のように感じていた時もある。

今は、自分の心地よさや、時折やってくる修行のような時間とともに、自分の宇宙を楽しみ始めている。私の凸凹がそのまま自然であったことを思い出しつつある。

誰かが笑うこと、機嫌が悪いこと、泣くこと、拗ねることにも、前ほど執着が無くなった。ただやみくもに振り回されなくなった。その時、心の赴くまま、見守ったり、寄り添ったり、距離を取ったり、話し合ったり。

どの瞬間はよくて、この瞬間はダメだということが一切合切ないことを知ってしまったから。

なんというのだろう、その人の人生の「瞬間」の大切さを想った時に、その人の「今」によって必要になってくることはまるで違うのだ。自分のその時の状況でできることが変わってくるように。

笑っているから悲しんでないとは限らないし、悲しんでいるから助けが必要というわけでもない。自分が何を感じるか。何を大切にして動くのか。

だから自分がその時できることしかできない。それすらも世界からOKが出なければ、できない。

そんな風に思う。選択肢が無限になればなるほど、「自分」というものの重要さを知る。

何が言いたかったか・・・

自分という存在は大事だけれど、自分で全部背負わなくていいんだ。

ということ。

その違いに上下も、優劣もない。
自分ができないことは、担当の人が必ずいるから、安心しながら進む。

それを知った上で、自分の領分については、プロ根性で取り組むんだ。
これは仕事とか役割とかの話じゃなくて、この名前を持って、この世界に生きている自分自身の話。

今日も最後まで読んでくださってありがとう。
すてきな一日を🌈

感謝と祈りを込めて。

明日美

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