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優しい薬の飲ませ方

 ブレッドと連れ立ってファミレスに入ると、ガサついた入店音がするだけで人の来る気配はなかった。仕方なく適当な席で背負っていたギターを下ろしていたら、レジの奥から男の店員がようやく顔を出し、やけに小さな声で注文の説明をする。僕がそれに苛々しはじめると、ブレッドは「いつも来てるんで」とやんわりと断り、そのまま店員が厨房に消えるのを待ってからハンカチを差し出した。
「ほら、拭きな」
 自分も濡れたままでいるブレッドからそれを受け取って髪や服についた雨粒を軽く払う。悪いとは思ったものの、苛立ちが勝ってお礼を言うことすらできない。「ああ、この革ジャンか? 大したもんじゃないから」
と察しのいい返事をしてテーブルの端にあった注文用のタブレットを引き寄せた。
 僕が髪を拭いている間、ブレッドはブレンド珈琲を二つ頼んだ。その後で僕がハンバーグのプレートとセットでライスを注文すると「よく食べれるなあ」と感心したように笑った。
「夕飯食べ損ねたんだよ。ブレッドは食べないの」
「俺はいいよ。今食うと明日が辛いから」
「どうして?」
「カオルにはまだ早かったか」
 濁したブレッドと僕のもとにさっきの店員が珈琲を運んできた。カップと細いスプーンを乗せたソーサーをガチャガチャと音を立てて置く。僕はため息をついてから熱い珈琲をすすった。
「ていうか今日なんで二人も欠席なわけ。せっかく集まりやすいように一番遅い時間でスタジオ取ったのに」
「最初に言っただろ。華本は転職前で忙しいからもともと来られないかもって言ってたし、智也は普通に先約。急に集まるって決めたんだから仕方ない」
 ブレッドは宥めるような調子で言った。約束をすっぽかされた立場は同じなのに、スタジオに入った時から今まで終始いつも通りの穏やかさだった。知り合ってもう数年になるけれど、僕は彼が感情的になっているところを見たことがない。
 運ばれてきた料理を食べる僕に、ブレッドは話題を変えるように訊ねる。
「そういえば今度、ワタルの婚約者家族と顔合わせなんだって」
 僕はハンバーグを切り分けながら頷いた。
「あんなに結婚に反対してたのに、結局顔出すことにしたのか」
「向こうの家がわざわざ足を運んでくださるんだから、ってさ」
「それ、ワタルがか?」
「ワタルはそんなこと言わない。母さんと父さん」
 ああ、と納得したように首肯しながら珈琲をすすった。古風な丸メガネが湯気で曇る。
「私と仕事、どっちが大事なの」
 一瞬ブレッドは目を丸くしたが、すぐに
「って言ってたんだっけ?」
と付け加えた。
「そう。そんなこと冗談でなく言うような女との結婚を祝福できると思う?」
「カオルには無理かもな」
「僕じゃなくても無理だよ」
 鼻を鳴らして最後の肉の塊を口に放り込むと、ブレッドが呆れたように笑った。
「でも実際に会ったら悪い人じゃないかもって言ってたじゃないか」
「そうだけど、わからないじゃん。他人の前ではいい人でも、二人になったら最悪かも」
「普通逆じゃないか? 私だけが本当のあの人をわかってる、なんて台詞が生まれるくらいなんだから。というかカオルの曲にそんなのなかったっけ」
「ぎゃー、思い出させないでよ、黒歴史」
 僕が悲鳴を上げて非難してもお構いなしに続ける。
「いいだろ、俺は好きだよ、あの曲。あと同じ頃に作ってた『セックスの似合わない女』とか」
「本当によく覚えてるな。僕でも忘れてるのに」
 十二時手前になってラストオーダーを取りに来た店員を愛想良く断り、ブレッドは残りの珈琲を飲み干した。僕は膨れた腹を撫でながら窓の外を眺める。雨はまだ止みそうにないのに、店のほうが先に閉店時間になりそうだった。
「だいたい比べるときに『仕事』よりも『私』が先に出てくること自体、すでに自分を優先しろって言ってるようなものじゃん。ワタルもそんなアホみたいなやり取りを普通のことみたいに話すしさ」
「はは、ワタルだからなあ。あいつは滅多なことじゃ怒らないから」
「ワタルも、でしょ。僕はまだ二人が来なかったこと納得してないからね。ブレッドはすぐに良い顔するから」
 僕が当てつけるように言っても、ブレッドは凪のように笑うだけだった。
「僕に対しても。気に入らないことがあったら言いなよ」
「ないよ、そんなの。華本と智也にも、俺は本気で怒ってないんだよ」
「なにそれ、感情死んでるんじゃないの」
「そうかもな」
 間延びした言い方に余計に腹を立てそうになったが、席を立ったブレッドに「そろそろ出よう」と言われて時計を見ると、時刻はすでに日付を越えていた。小雨に濡れた街はスタジオを出たときよりも格段に冷えて凍えるようだった。



年下の兄弟に向けて大事な弟や妹というのに対して、年上の兄弟には『大事な』という形容詞は使わない。「それっておかしいよね」と言ったら、ブレッドは「お前は本当に」となにかを言いかけてやめた。僕が怒ると思ったからではなく、その言葉が蔑称のようにも聞こえるせいかもしれないし、まったく別の理由からかもわからないけれど、とにかくブレッドはそれ以上言わなかった。
 終電を待ちながら携帯を開くとワタルから着信が入っていた。以前ならどんな時間でもかけ直したけど。僕は通知を消さずに携帯をポケットにしまう。
 あの人と付き合ってから、ワタルは電話に出なくなった。正確には、夜遅い時間や明け方などにかけてもつながらず、日中になってから折り返すようになったのだ。以前は在宅で仕事をしていることもあって深夜でも容易に連絡がついたし、むしろクライアントと打ち合わせの予定を入れている日中のほうが繋がらないことさえあった。
 それ以外にも僕を一人暮らしの家に呼ばなくなり、たまに会うのは実家かどこかの安い居酒屋ばかりだった。焼き鳥も揚げ物も好きだから文句はないけれどどこか釈然としなかった。
 ワタルは僕が物心つく頃にはすでに「兄」だった。弟や妹ができれば自動的につく役割としてではなく、たぶん根本からそういう性分なのだ。そう振る舞おうとしなくても自然と年下には優しくできるし、おもちゃやお菓子にもあまり執着がない。僕はそういう兄にずいぶん甘えていたと思う。
 思い出すのはワタルが中学生の時のことだ。
 あの頃、おそらくワタルは同級生の中で少し浮いた存在だった。優しく面倒見の良い性格だから特定のいじめの対象になることはなくても、その性質ゆえに中学生らしい反抗や葛藤もないように見えていたのかもしれない。仲間意識の内から自然と外されてしまうところがあって、それは両親からも同じだった。僕はどちらかといえば活発な子供で、年頃の子供らしい興味を認められていたけれど、ワタルはどうだっただろう。年相応の欲が薄いとみなされることは、それなりに辛かったんじゃないだろうかと今では思う。
 変化が訪れたのは中学二年の終わりの頃だ。突然、ワタルがギターを背負って帰ってきた。僕が学校で借りてきたのかと聞くと、ワタルは嬉しそうに首を振った。あとでワタルにくっついて楽器店を覗くと、店の棚に同じものが飾ってあった。ワタルがはじめて手にしたギターは、下町の古い楽器店とはいえ当時の中学生が持つには相当に高価な、一番目立つショーケースに飾ってあるやつだった。
 それからワタルの背中にはいつもギターがあった。平日、休日の別なく、暑い日も寒い日も、高校受験の前日に新譜の試し弾きをしていたことも僕は知っていた。それくらいワタルは音楽というものに没頭していた。
 僕に音楽を教えたのもワタルだった。歌うように言ったのも、ブレッドと引き合わせてくれたのも、全部ワタルだ。兄から教わるだけだった音楽から、別の仲間内でライブをするようになったときは必ず駆けつけてくれた。
 ホームに凍えるほど冷たい風が滑り込んできて、一歩遅れるように電車が目の前に停まった。乗り込むと思いのほか人が乗っていて、腕組をしたまま眠っているサラリーマン風の男の向かいに腰を下ろした。
 こういう夜は誰にも会いたくないし、誰にも僕を認識されたくなかった。向かいで眠る男は電車が走り出す瞬間だけ頭を上げかけたが、すぐにつむじを僕の方へ向けた。窓の外の夜がやけに低く感じる。
 僕もワタルも高校を卒業してすぐに一人暮らしを始めていて、久しぶりに荷物を取りに実家に帰った折にようやく気がついた。唐突に聞きたくなったキリンジのシングルベストを借りようと部屋に入ると、薄布のカーテンから差した西陽に白い壁紙がぼうと光る。ひどくがらんとして寂しい光景に思えた。なにもない。その部屋には機材も、懐かしい教本も、楽器さえも、音楽をやる者特有のすべてが取り払われていた。
「ワタル、音楽辞めるの」
 久しぶりに会ったファミレスのソファに座るなり、我慢できずに聞いた。店内にはまばらな人の気配と、大して流行ってもいないアイドルの声の店内放送が流れる。
 注文用のタブレットをいじっていたワタルが「あ、そうだ」と思い出したように言った。
「あのエフェクター、取っといたよ」
「取っといたってなに」
「他の機材は欲しいってやつに結構あげちゃってさ。でもあれだけはお前が使うと思って」
 言い終えたところでピロリン、と間抜けな機械音が飛び出す。ワタルが指を滑らせるたびに鳴るその音は店内のいたるところから聞こえていた。惨めさは、同時に間抜けさでもあるらしかった。



 雑然としたレジ横に座って伝票をめくっていると、自動ドアの開く音がして「いらっしゃいませ」と手元を見たまま声に出した。大抵はすたすたと奥の棚を眺めに行く足音がするのに、その人はまっすぐレジに向かってきて思わず顔を上げる。
「なにも買う気がないならお引き取りください」
「もうすっかりここの店員だな」
 小声でしゃべるブレッドを睨みつける。僕は途切れかけた集中の糸を自ら切ってカウンターに投げ出した。どうせ急ぎでもないし、と言い訳しながら我が物顔でカウンターにより掛かるブレッドの顔を見る。
「どうだ、ここのバイト」
「お陰様で。さすがブレッドのお下がりの椅子は居心地いいよ」
 ボロいパイプ椅子がか、とブレッドが控えめに笑った。
「それで、わざわざどうしたの」
「これを渡しに来たんだよ」
 革のトートバッグから取り出したのは二枚のチケットだった。それぞれにバンドのロゴと会場、日時だけがダークグレーの下地に白抜きされている。今度デビューが決まった知り合いのバンドがお披露目的にライブをすると聞いていたのを思い出す。
「僕ひとりに二枚?」
「なんでだよ。ワタルの分、いるだろ」
「あー、どうかな」
「なんだあいつ、そんなに忙しいのか」
 怪訝な顔をしたブレッドの言う忙しい、が仕事のことを指しているのはわかっていた。片方が黙ってしまうと店内は古い建物特有の静けさに包まれる。
 返事を濁す僕の様子になにを察したのか、ブレッドは「他にも関東圏のハコでいくつかライブするらしいぞ」と言った。
「すごいな、ツアーなんだ」
「人の集まりそうなところ中心にな。千葉と神奈川と、あとは茨城だったかな」
「茨城なら水戸のところかな。あそこのハコ、僕も好き」
 手元のボールペンでリズムを取るようにコンコンとテーブルを叩くと、それを合図にしたみたいに気持ちがせり上がる。音楽が、というよりもライブの感覚が日常に溶け出してくることがある。独特な足音のリズム感、横断歩道の電子音、規則的な打鍵。圧力のかかった蓋がなにかのきっかけで外れるみたいに。
「僕たちもやろうよ、ライブ」
「カオルが新曲書いてくれたらな」
「書く書く、書くからやろう」
「ずいぶんやる気だな」
「ライブが嫌いなバンドマンなんていないでしょ」
 ブレッドもそれは同感、とうなずくけれど、具体的にやるとは言わなかった。その原因もわかっているだけに歯痒くて「僕はブレッドとふたりでもいいけどね」とつぶやくと、彼は困ったように笑みを浮かべた。
 自動ドアがぎこちなく開いて客が入ってくると、ブレッドは「じゃあ行くな」とカバンを持ち直した。背が高く細身だからかフォーマルな格好が似合う彼だが、今日のようなデザインの効いた開襟シャツも程よく身体に馴染んでいた。
「ブレッドって結構お洒落だよね」
「それ褒めてるのか」
「褒めてるよ。自分に似合うものを知ってるって感じがする」
「そりゃ全く興味のないやつ比べたらな」
「でも最後にやったライブのときの僕の衣装もブレッドが決めてくれたよね」
「それはお前がコンビニ行くみたいな格好で来ようとするから、それならせめてこの組み合わせで来いって言っただけだろ」
「でも好評だったよ。僕は背が低いから畏まった格好全然似合わないのに、あれはすごくウケが良かった。これからも全部ブレッドが決めてよ」
 ね、と言いながら両腕を広げて今日の格好を見せる。ブレッドが笑い混じりに溜め息をつく。
「カオルなら、そうだな、かっちりした格好するにしても多少緩さのあるセットアップとか、形はカジュアルでも艶っぽい素材にするのほうがいいかもな。若い頃のスーツなんて馴染まないのが普通だから」
 話しているうちに客がレジ前に来て、ブレッドはトートバッグをかけていないほうの手を振った。僕は何度かうなずいて、すぐにレジに入った。



『みんなには適当に言っとく』
 ワタルからのメッセージに返信を打っていると、ちょうどよく目の前にバスが停まる。僕を含め数人が乗り込むと、ダイヤが遅れ気味なのか低い唸り声をあげてすぐに走り出した。
 深緑色の座席に座るやいなや急激に足が痛んだ。久しぶりに履いたパンプスの踵を見ると薄っすらと血が滲んでいた。逃げ出した代償だ、と脈絡もなく思う。
 母親曰く、食事会は生憎の曇り空の中、穏やかに執り行われた。以前から予定されていたワタルの婚約者家族との顔合わせだった。今どきそんなことまでしなくちゃいけないのかとバイト先で愚痴ると、僕よりも若い女の子が「当たり前じゃないですか」と笑っていた。
 昔から祝い事のときには必ず連れて行かれたフレンチの店に到着すると、すでにワタルも相手の家族も揃っていた。母親に小言を言われながら席につく。
 顔合わせ、とは言ったものの、雰囲気に緊張感のようなものはほとんどなかった。僕らの実家にあの人がたびたび顔を出していることは知っていたし、その逆も当然あったのだろう。ワタルとあの人を橋渡しに、両親同士も話が弾んでいるようだった。
 僕だけが場違いだ、と思ったけれど、相手の一家の中にも落ち着かない様子の女の子がひとり端の席に座っていた。あの人の妹、という割に全然雰囲気も顔も似ていないその子は、僕らが席につくとわかりやすく目を泳がせた。大人しくて人見知りそうな子だな、と思ったのは外れていなかったが、予想は別のところで裏切られた。
「あの、以前よく町田のライブハウスで歌ってましたよね」
 そうだけど、と咄嗟に肯定したことを後悔した。あの人の妹はわかりやすく目を輝かせる。
「私よく通ってたんです、あのライブハウス。最初は友達に誘われて行ったんですけど、あの、そのうちひとりでも行くようになって」
 彼女の目がなにか期待めいた色に光るが、僕に物覚えを期待するだけ無駄だ。
 初対面の相手の手前「ああ、あの頃の」と適当な返事をすると、話に興味を持ったあの人が会話に割り込んでくる。
「ライブハウスって、海香子よく通ってたところ?」
「そう、そこで一番好きだったバンドの人」
「ええ、そんな話聞いてないよ!」
 唇を摘まれたような顔をしてあの人がむくれてみせる。全体的な雰囲気は落ち着いているくせに、仕草だけがやけに子供っぽくて作り物めいている。
「よかったね、海香子。こんな格好いいお姉ちゃんができて。カオルちゃん、今日の黒のパンツドレスもすっごく似合ってて素敵」
 僕が返事をしあぐねていると、先に母親が反応した。
「あら、ありがとうね。でもたまにはスカートにしなさいって言っても聞きやしないのよ。誰にでもすぐに噛み付くし」
「別に、誰にでもじゃない」
 咄嗟に言い返しても、母親は僕の話など聞きやしない。
「仕事もしないでいつまでも音楽なんてやってふらふらして。ワタルは瑛子ちゃんと結婚するって決めてきっぱり辞めたのに」
「それは関係ないことじゃん」
「あるのよ。全部つながってるの。瑛子ちゃんも海香子ちゃんも、この子になにか嫌味言われたら私に言ってちょうだいね」
 僕は否定する代わりにがちゃがちゃと汚らしくナイフとフォークを皿に置いた。母の視線が自分に向かうのをわかって、すぐに「トイレ」と席を立った。
 短い廊下を抜けてお手洗いに入ると、芳香剤のむっとするような匂いが鼻をついた。手洗いのそばに飾られた薔薇の造花と、小綺麗に磨かれた大きな鏡。躱したつもりでいても、映り込んだ僕の顔は青白く、頬には薄く影がさす。似合わないパンツドレスの光沢が貧相で、僕は個室に駆け込んで白い陶器に向かって口を開ける。
 昔からそうだ。いつだって耐えられなかった。母親にも、この店にも。
 祝い事というのは、いつも僕でないものを好き勝手に祝うものだった。行きたくもなかった私立中学への入学祝いも、見知らぬ客にまで聞こえるように初潮という言葉を使うことにも、腹が立って仕方がなかった。眼の前がチカチカするほど腹が立つと、決まって次に吐き気がした。前菜のスープも、パスタも肉も、全部トイレに流れていくことを母は知らない。そんな人に、自分が「女」として扱われるのが嫌だなんて言えるはずもない。
 脈が落ち着いてくると、鞄から携帯を取り出した。何気なくSNSを眺めていると、ワタルからメッセージが送られてきた。『みんなには適当に言っとく』とだけ書かれた吹き出しに自然と息をつく。鞄を持ってきておいてよかった。僕は母親たちがいるのとは反対のテーブル席の間を通って店を後にした。



最後にワタルとご飯を食べたのは、スタジオ近くのファミレスだった。あのときもやはりワタルはあの人の話ばかりしていた。その熱の入りようは、ワタルが音楽をはじめたばかりの頃に似ていた。
 僕が裏通り沿いの焼鳥が食べたかったと文句を言いながら注文していると、ワタルが不意に「明後日、瑛子の誕生日なんだ」と言った。僕があの人を嫌っているのを知っているくせに、と思ったけれど、ワタルはただ思いついたことを言っただけという様子だった。嫌味のないところが嫌味、だなんてワタルにぴったりの言葉だ。
 僕は届いたドリアをぱくつきながら、弛んだワタルの声を聞き流す。あの人とは、そのときはまだワタルの家で一度ばったり出くわしただけで、顔も雰囲気もどこかおぼろげだった。ただ僕を見下ろす目線の高さがワタルとそう変わらなくて、ただ背が高いというだけで堂々とした威圧感が肌に残った。あとになって思う。あれはおそらく劣等感だった。
 ワタルと別れたあと、遅くに呼び出したのにも関わらずブレッドはかっちりしたジャケットとパンツ姿で現れた。ちょうど出掛けた帰りだと笑っていたけれど、ブレッドの言うことだからあまり信用はできない。
 僕が気分転換に散歩したいと言うと、ブレッドは「じゃあ大学の向こうの公園まで」と言って歩き出した。気が紛れるような程よく遠い距離を選ぶあたり、やはりブレッドはわざわざ家から着替えて出て来たのではないかという気持ちが膨らんだ。
「そういえば前言ってた曲、完成したのか?」
「ああ、うん、一応ね」
 平日の夜で人の少ない繁華街を歩きながら話す。
「タイトルは?」
「笑わない?」
「はは、笑ったことないだろ」
 秒針くらいゆったりとした歩幅の足音に気の抜けた笑い方が重なる。もう笑ってるじゃん、とブレッドの背中を叩いたあと
「『優しい薬の飲ませ方』」
とつぶやいた。ブレッドが笑わなかった代わりに、通り過ぎた居酒屋から出てきた男たちが下品に高笑いをしていた。
「それはまたカオルらしいね」
「そう思うならブレッドが決めてよ」
「褒めてるんだよ。俺はお前のセンスが好きなんだ」
 ポケットに突っ込んでいた手を出して、今度はブレッドが僕の背中を叩いた。
「で、どんな曲なんだ」
「別に、くだらないことだよ」
「いいから」
 意図せずもったいぶるほど舌が上滑りしそうで、僕は観念して唇の裏を緩く噛んだ。
「…はじめての薬飲むときって怖いでしょ」
「怖いか?」
「怖いよ。特に錠剤が大きかったり粉薬だったりすると余計に身構えるし。それで一気に飲もうとして失敗して、喉痛めたり気管に入って咳き込んだりするじゃん。あれ、苦しいよね。もう二度とこんなもの飲んでやるかって思う。でもさ、薬なんて楽になるために飲むものなんだから本当はそんなに気負わなくていいんだよね。舌に乗せて、息をして、そうしていつも通り喉が開いたら水を流し込めばいい。そういうことを、書いたつもり」
 尻すぼみになる自分の声を押し出すように、夜の空気に胸を開いた。言っていることとやっていることが違うなんていつものことなのに、音楽のことになると途端に緊張する。
 ブレッドはしばらく咀嚼するように歩幅を緩めた。背の低い僕でも鈍いと感じるスピードは時間の流れをほんの少し滑らかにする。
「どうしてそんなこと思いつくんだろうなあ」
 ブレッドがようやく口を開いたとき、公園を抜けたところだった。街路樹の下で大学生らしい集団がぽつぽつとたむろしていた。
「そんなことって?」
「そんな、手に取れないようなこと」
「僕はこういうこと考えてる自分が嫌いだけどね」
 ブレッドが目を細めた。これは答えに困っているときのやり方だとわかったけれど、構わず続ける。
「新しい曲も、『セックスの似合わない女』も、ああいうことを書く自分はみんなすごく嫌なんだ。女々しすぎるよ」
「別に、関係ないんじゃないか」
「ないね。でも僕がそう思っていることを変えられるわけじゃない」
 言い捨てるように語気が強くなる。吐き出したことで僕はようやく自分の気持ちの高ぶりに気づくことができる。
 駅のホームに電車が滑り込んでくる。風が一瞬だけ吹き荒れ、すぐに寂しい夜に戻った。
 昔から女として扱われるのが嫌だった。決して男になりたいわけじゃない。それならなんだと言われても説明するすべがない。他人だけじゃない。僕は僕でいたいのに、自分の内側からそうじゃない部分が漏れ出してくる。僕でさえ僕を否定するときがあるのに、誰が僕のなにを説明できるだろう。
 帰ろうと言ってもブレッドはしばらく黙って動かずにいた。「なんか言ってよ」と言うのが簡単な分、彼から引き出せる答えの軽さを想像して僕は辟易する。ワタルならわかってくれるのに、と以前は思っていたけど、それすらも今はわからなかった。
 今にも発車ベルが鳴ろうとしているのに、ブレッドはすぐ戻ると言って売店に向かった。僕は仕方なく先に電車に乗り、扉のそばの手すりにもたれる。車内は珍しく無人だった。
 こういうとき、僕の中に浮かぶ言葉。どんな顔で、どんな仕草で、なにを言えばよかったのか。なにを言えば人を一番傷つけられるのか。ブレッドは優しくて、感情の起伏が少なくて、その代わりに曖昧なことしか言わない。あんたみたいなやつらが一番人を傷つけているんだ、と。
 僕は反射的に身体を折った。胃を圧迫するようにして吐き気をせき止め、規則的に息を吐く。あれほど穏やかな人相手でも、僕はこんなことを考えてしまう。
 少し吐き気が薄れてきた頃にブレッドは戻ってきた。息を切らして上下する喉と、手に提げたビニール袋に入った二本の缶ビール。そのうちの一本を差し出される。
「なんで今?」
「なんとなく、必要だと思って」
 ブレッドは空になった袋をくしゃくしゃにしてポケットにしまった。他人に対しては余計なほど丁寧なくせに、こういうところは雑で荒っぽい。
 誰もいないのを良いことに、僕たちは座席でプルタブを引いた。若干ぬるくなっていたのかやけに泡立ちが良い。
「俺はそんなふうに思ったことがない」
「さっきの話の続き?」
「そうだ。でもな、たぶんだけど、そういうやつがそうじゃないやつをずっと傷つけ続けているんだろうなって思う」
 わかりやすく心臓が跳ねた。見透かされるはずのないことが目の前に転がり落ちていく。
「な、んでそんなこと、思う必要ないよ」
「そうだな、これももしかしたら俺がそう思いたいだけかも。でもそうしなきゃ空っぽじゃないか」
 ブレッドが缶を傾けたのにつられて自分もビールを喉に流し込む。電車の揺れで投げ出した両足が一瞬宙に浮くと、身体が傾いてブレッドの二の腕に触れた。
「ブレッドって、実は結構多血質だよね」
「たけつ?」
「ヘモグロビンの量が多そうってこと」
 電車はゆっくりと走り始める。ホームの明かりが遠ざかるとなぜか取り残されたような気持ちになるけど、ブレッドがいると電車は正しい方向に進んでいくような気がした。



 よりによってこんなところで、と思いながら眺めた花束は白い花びらの端が萎れていた。人間でさえ押し潰されてしまいそうな満員電車の中では無理もなかった。むしろそんな壊れやすいものを持ち込む人間のほうが悪いのだ、と思いながら中途半端に水気を抜かれた緑から視線をそらすと、まるでそれが自然であるかのように花束の持ち主と目が合った。サラリーマン風の線の細い、どこにでもいる若い男だ。身だしなみ程度に癖づけたワックスが萎び、前髪がバラバラと落ちている。細く黒い髪の間から目が覗いて、僕ははっと視線を逸らした。困惑と後悔が鉢合わせたような眼差しが一瞬僕を見る。窓の外は夕暮れに染まっている。
 夕方、電車を降りると改札を抜けた先でブレッドが待っていた。近づいてもこちらに気付かないブレッドに「お待たせ」と呼び掛ける。
「なにか急用?」
「全然。行こうか」
 ブレッドは何事もなかったかのように持っていた携帯の電源を落とし、近くのライブハウスに向かって歩き始めた。声をかけたときどこか動揺したような不安定さを感じたけれど、閉口した彼からワケを聞き出すのは容易なことではないと思って黙って横に並ぶ。
 会場に到着すると中はすでに人で溢れ返り、ドリンクひとつ受け取るのも一苦労だった。飲む前から酔いそうな雰囲気にはアルコールのひとつでも入れなければ馴染めない僕は、濃い目のチューハイを頼んでいた。隣で知り合いに声をかけられていたブレッドも、合間に同じ濃さのチューハイをちびちび飲んでいた。
「珍しいね、普段あんまり飲まないのに」
「明日休みだからな」
「それ、ワタルも時々言うけどちょっとおっさん臭い」
 ブレッドが低い声で笑った。すでにだいぶ酔っているようだった。彼が僕よりも先に酔うことがこれまでに何度あっただろうか。
「そろそろやろうよ、僕たちも」
 僕が言うとブレッドは「ライブか」と呟く。
「もうどれだけやってないと思ってるの。集まり悪い状況っていうのはわかってるけどさ、目的があれば少しは根性出すんじゃない、あいつらも」
 軽く嗜められるかと思いきや、ブレッドは視線を前に向けたままなにも言わなかった。それがかえってざらついたように舌に残る。
 ライブが終わり、僕らは人の波がすぎるのを待ってから外へ出た。アルコールと音の熱が冷めきらない僕に対して、ブレッドの相槌は巧妙にどっちつかずだった。ライブの途中まではしっかり酔っているように見えたのに、その気配はまるで目を盗んだように消えてなくなっていた。
「今日なに、なんか変じゃない」
「はは、そうかもしれないな」
 そう返事をしたブレッドの笑い方が嫌に艶を含んでいて、僕はすっと立ち止まる。
「なにか言いたいことがあるなら言いなよ」
 夜風に冷えていく指先を頬に当てて酔いを覚ます。かつて兄に対する気持ちがそうだったように、僕はブレッドに隠し事をされると苛つくようになっていた。そのせいでこんな尋ね方しかできない。
 ブレッドは一瞬背の低い僕の目を見て、何事もなかったようにそらす。やはりなにかある、という確信が波々と注がれて一方的に彼を睨みつけると、観念したように口を開く。
「いや、なんだ、俺たちが悪かったのかと思って」
「なにそれ、はっきりしないな」
「カオルにとっては大したことじゃないよ。でも、お前のそういう言葉が、お前が思っている以上に人を痛めつけているんだと思って」
 ちょうど日付を越す頃だからか、道路沿いの店の明かりが消えて、振り向いたブレッドの顔が急激に翳る。目の黒い部分にだけタクシーの空車の緑色が走った。
「覚えてるか。初めて今のバンドでライブした日、セットチェンジの時に女性客と揉めたことあっただろ」
「覚えてる、けど」
 そんなこと、と口にした瞬間にブレッドが眉を下げた。
「あの後しばらくしてから彼女に会って謝ったんだ。気にしてないって口では言っていたけど、そういうわけにはいかないよな。泣いてたんだから、彼女。カオルのことすごく応援してくれてたんだろうな。お前にとっては些細なことだろうけど、相手にとってはそうじゃない。それほどカオルには影響力があるんだよ。あんな繊細な音楽作るんだから、少し考えたらわかったんじゃないか」
 明らかに糾弾するような言い方だった。ブレッドからそんな言い方を突きつけられたのははじめてだった。
「それがブレッドの言いたかったこと?」
「言いたかったってほどじゃないけど」
「それとも僕のそういう部分を理由に、辞めたいってわけ?」
 僕はひゅ、と息を吸った。自分で言ったことに首を締められるみたいだった。僕はいつもそうだ。ブレッドが視線をそらしながら言う。
「他のメンバーとはこの間会って話した。華本も智也も、環境が変わったやつも多いし、この辺りが潮時だと思う」
「へえ、練習には来ないのに、解散の話し合いには顔出すなんて社会人の鏡だね」
 そう言いながら僕は言い淀んだブレッドの口元が見られなかった。なにか、とても決定的なものが形になってしまう予感がした。それなら、と心臓が軋む。
「みんなが辞めるなら、僕も音楽辞める」
 単純なことだ。先に口に出してしまったほうの勝ちだ。
 ブレッドの顔は明らかに困惑していた。
「…そういうの、勢いで言うのは良くない」
「決めつけないでよ。僕がやりたいのはバンドの音楽だし、もともとワタルがいたからはじめたことだ。それができなくなるなら、ひとりきりになるならやる意味もない」
「そんなの、だってお前は、カオルは違うだろ。ひとりでもやっていける力があるんだ。なのにこんなことで」
「こんなことって、ブレッドが言ったんでしょ。解散するなら僕の勝手じゃん」
「そうだけど、そうじゃないだろ。なんでお前はいつもそうなんだよ、どうしてわからないんだよ」
 生まれてはじめてブレッドの怒鳴る声を聞いた。衝撃よりも驚きが膨らんで破裂したような景色だった。急に大声を出したせいか、咳き込んだブレッドが胸を押さえる。小さい頃は喘息気味で、夜はいつも誰かに手を握ってもらわないと眠れなかったと聞いた時には想像もできなくて、僕はふうんと相槌を打つだけだった。
 呼吸するたび白い息が目の前を横切る。冷たく飽和した空気が硬直した僕を一層固く押さえつけていた。



 あの日はブレッドと組んでからはじめてのライブで、僕にとっても久しぶりに人前で歌う機会で、自分でも気が昂ぶっている自覚があった。演奏直後に喉に流し込んだレモンサワーが水みたいに美味くて、その日出演していたどのバンドよりもうちが最高だと叫んだりもした。僕にしては珍しく、周囲のことなんてなにも気にならない夜だった。
 薄暗い室内の後方で知り合いと話していると、栗毛の見知らぬ女が話しかけてきた。長い前髪を掻き上げながら「今日も最高だった」と言われて、僕はよくわからない返事をした。たぶん喜びさえ伝わればそれでいいという返事だったと思う。
 その女はおそらく仲間の友達の、その友達みたいな人で、前のバンドで歌っていた頃から僕のファンだと言った。氷で薄まった酒を煽りながら、その場で軽く話をした。
「あのギタリスト、ブレッドくんだっけ」
「本名は塚本」
「ああ、塚本くんね。全然ブレッド関係ないじゃない。正直前のギタリストのほうが断然良かった思うけどな。彼、上手いけどそれだけって感じじゃない。それとも、恋人だったりするの?」
 女は真っ赤な爪に持たせたドリンクを小気味よく飲み干した。相当に酔っているのはわかっていた。僕の手元のドリンクももうとっくに空だった。
「『あの頃のまま』って曲のジャケット写真見たことある?」
「は?」
「はじめて会ったときその写真に格好が似てたんだ。だからブレッド」
 なにそれ知らない、と女が半笑いで僕を見た。僕はようやく冷めかけた気持ちが、急激に燃え始めるのを感じた。
「私を好きって言うならそのくらいわかりなよ、バカ」
 その後どうなったかはよく覚えていない。ただその直後にブレッドがやってきて、相手になにかを謝って、女はどこか引きつったような顔をしていて、僕は訳の分からない悪態をついたまま、まだ中途半端な時間の街に連れ出された。
 近くの自販機から戻ってきたブレッドから水を受け取ると、キャップがすでに緩められていた。柔らかすぎる軟水を飲み下すと、自分からアルコールの匂いが漏れる。
「私、自分の声好きじゃない」
「ボーカルなのに?」
「ワタルが歌えって言ったからはじめただけ。私よりうまいやつがいるなら全然譲ったって良いんだ。そう思ってるはずなのに、時々ああいう風になる。気が昂ぶって、訳わからなくなって」
 ガードレールから立ち上がると、目の前のネオンが霞んでその場にしゃがみ込んだ。そばの高架から電車の発車ベルが流れてくる。
「そりゃそうだろ。大してうまくもない俺だってそうなんだから」
 ブレッドは僕が地面に落としたペットボトルに蓋をしながら言った。中身の水がいつの間にか目の前に水たまりを作っていた。
「ブレッドは、私が今まで会ったどのベースより上手いよ」
「今だけだよ。これからカオルはもっとすごいやつにいくらでも会うはずだから」
 自嘲気味に笑って、僕の背中を優しく擦った。手のひらの温かさが少しワタルに似ていたけど、似ているだけでこの人はワタルとは違う。
「…こういうとき、ワタルなら僕をひとりにしてくれる」
「はは、ごめんな」
 そう言いながらも、ブレッドはしゃがみ込んだ僕の背中を撫で続けた。まだ人通りの少なくない目抜き沿いをいくつもの足が過ぎていく。このときから僕は、ブレッドの前で「僕」になった。



 ワタルがブレッドを連れて来たわけを長いこと考えていた。はじめは単純に僕を受け入れて一緒にやれる相手なら、ベーシストでもドラムスでもいいんだと思っていた。
 ひとつの曲が完成して、ふたつ、みっつと作り終わっても、その疑問だけがいつまで経っても頭の片隅にあった。どうしてブレッドなんだろう。ワタルは、僕に、なにを知れというのだろう。
「ブレッドもそうだった?」
 自分の声が震えていた。なにもかもに動揺しているみたいだった。
「ブレッドも、傷ついてたの?」
 変わらない信号を待つように立ち止まった男の顔は、なぜか僕よりも動揺していた。そもそも「考えたらわかるだろう」なんて言葉を聞いてはっとしたのは、僕よりもむしろブレッドの方で、その時の怯えを引きずったまま彼の顔が夜に染まっていく。
「ちが、違う、そうじゃない。俺はこんなふうにカオルを責めたかったわけじゃないんだ。そんなのじゃなくて、」
 右手で口元を覆いながら言う。次の言葉を探しているようだったけれど、それ以上はただ呼気が漏れるだけだった。
 後ろから何人かの通行人が過ぎていった。僕がガードレールに寄り掛かるとブレッドものろのろと隣にもたれかかる。折り曲げた大きな身体の上の顔がひどくうなだれている。こういうとき何も隠しようがない彼を、僕は可哀想だと思う。
「カオル」
「なに?」
「悪い、少しの間だけでいいから、手を、握ってもいいか」
 僕はできるだけ驚いたことがわからないように、すぐに左手を差し出した。ブレッドはそれに大きく湿った手を重ねる。躊躇いからなのか握る力はほとんどないに等しかった。ただ、重ねただけ。しかしそうしたことでようやくブレッドの呼吸が整い始める。
「俺は、もうずっと前から音楽で食っていくのを諦めてる。俺よりも若くて上手いやつが俺の知ってる範囲だけでも数え切れないほどいるんだ。自分ではどれだけ努力してるつもりでも、そういうやつを見てるとつくづく虚しくなる。才能やセンスにじゃない、俺の時間だけが蛇口を捻ったみたいにどんどん流れていくのを、自分の怠惰のせいであと一歩のところで止められないみたいな、そういう感覚がずっと離れないからだ」
 僕は目の合わないブレッドの横で頷いた。安易な慰めは邪魔になるだけだった。
「その感覚は今でも変わらないけど、変わらないんだけど。ワタルに誘われてお前と会ったときから、時々、忘れちゃうんだよな」
「忘れちゃうの」
「そう、忘れてちゃうんだよ、現金だよな。でも、だから、それが心地良くて」
 そう言ってブレッドが誤魔化すように笑った。なんのためにこんなところで、こんな話を、という答えはすでに僕の中で出ていた。
「ブレッドが辞めるって言ったら、暴れてやろうって思ってた」
「…それは、ワタルに? 俺に?」
「ブレッドに決まってるじゃん。僕の力じゃたかが知れてるけど、一発くらい覚悟してたんじゃないの」
 僕は左手の拳でブレッドの肩を押した。もう手は重なっていなかった。
 つなぎとめる方法はいくらでもあったかもしれない。空中分解しかけていたグループが最後のライブと銘打ったあとしばらくして復活するなんて、割とよくある話だった。音楽性の違いは音楽でしか上書きできないし、離れてわかることと同じくらい、隣にいなければわからないこともある。
 僕は途中のコンビニでビールを二本買って、そのうちの一本をブレッドに渡した。
「これ一本で送別会なんてこと言わないよな」
「まさか。これから僕忙しいんだから、そんなんやってる暇ないよ」
 夜が段々と暗さを増して、街の明かりがぽつぽつと消え始める。ビールの泡がやたらと甘くて、僕は残り半分を一気に飲み干した。



 新宿で打ち合わせをした帰りだというワタルは、珍しく上下スーツ姿で現れた。薄いグレーの細身のスーツはワタルによく似合っていて、僕は「いつでもサラリーマンになれるじゃん」と茶化した。
「今だってサラリーマンだよ。命令されれば自分で掘った穴も埋めるしな」
 ワタルにいつもの調子で「なに食べたい」と聞かれ、僕は以前に行き損ねた焼き鳥屋を挙げた。
 店はほとんど満席に近い状態で、狭いカウンター席以外空いていなかった。僕は仕方なくそこへ腰掛けたが、ワタルはなんでもない顔をしていた。映画は両端の席で見るし、風の冷たい日に出口付近の席を案内されても嫌な顔ひとつしないところがワタルだった。
 適当に串盛りとビールを注文して一息つく。ネクタイを緩めるワタルの横でなにから切り出したらいいかと考えていたのに、おもむろにワタルが「瑛子が妊娠した」と言った。
「もう母さんから聞いてるか」
「うん、一昨日に電話かかってきた」
 ワタルは運ばれて来た串を適当に取りながら言った。
「少し前に病院で検査してわかったんだ。今ちょうど三ヶ月目を過ぎたところ」
 ワタルは淡々と言った。でも淡々としているように見えて、これはちゃんと喜んでいる時の言い方だ、と思う。
「ワタルならいい父親になれるよ」
と言うと、ワタルはジョッキを片手に「どうかな」と笑った。
「お前ならわかるだろ」
「他人の気持ちがわからないから?」
 ワタルは薄い笑みを浮かべ、舐めるようにしてビールに口をつけた。僕ばかり心臓が早鐘を打って、動揺しない兄を眺めている。
「誰が言ったんだろうなあ、俺と塚本が似てるだなんて。そんなのはあいつが可哀想だよ。あいつは見かけよりもずっと繊細なのにな」
 まるで居酒屋の隅で間に合わせに鳴っているテレビに話しかけるみたいだった。僕はできるだけなんでもない顔をして、ワタルが食べたのと同じ串をとって食べた。程よい脂とアルコールの匂いに少し意識が遠くなる。
「本当は子供は作らないはずだったんだ。というより、色々あってできないはずだった」
「それ、母さんたちが許したの?」
「許すわけないだろ。小さい頃から跡継ぎがどうのって言い続けてきた人たちだぞ」
 ワタルは綺麗な指についた脂をおしぼりで拭ってからまたジョッキを持った。ゆっくりと嵩が減っていく。
「言わなかった。瑛子は自分で説明したいって言ったけど、嫌な目に合わせるだけだってわかっててわざわざ言う必要もないよな。俺から言うって嘘吐いて、母さんたちのほうにも適当に辻褄合わせて、結婚した。でもそれで本当に子供ができるんだから、神様っているのかもしれないな」
 そう微笑んだワタルの顔が一瞬皮肉めいて見えたのは、僕がそう思いたいだけなのだろうか。
「音楽辞めて、後悔することとかないの」
「あったらいいんだけどなあ」
 ワタルは静かにビールを飲み干し、カウンター席から一番近くにいた店員にお冷をふたつ頼んだ。喧騒の中運ばれてきた薄っぺらいグラスに口をつける。
 言いたいことはいくらでもあった。内緒なら良いなんて奥さんに対して裏切りだとか、そのままのワタルが受け入れられなくて悲しいだとか、人を傷つけないために自分を傷つけるなんて自慰だとか。しかしそれは僕が思っていることであって、ワタルが思っていることではなかった。僕には僕だけの願望があるように、ワタルにはワタルだけの願望がある。その全貌など、一ミリだって見えたことはなくても。
「僕のこと、瑛子さんには言ったの」
「言ってないよ。カオルが言ってほしいなら言うけど」
 少し意外そうな顔でワタルが僕を見た。僕は小さく首を振った。
「ううん、どっちでもいいよ。それよりワタル、知り合いにソロでやってる人結構いたよね。今度紹介して」
 もうあの時ほどは美味くならないビールも、飲み干せば喉が潤う。店は客が出入りするたびに喧騒と夜の匂いを半分ずつ垂れ流す。それがいつしか規則的なものになって、僕を誘うかもしれない。ひとりきりで歌う僕を。


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