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噛みたい、噛みたい

 願い事は二度唱えること。
 小二のときに行った初詣でお母さんに教わってから、私はずっとそうしている。
 学校からの帰り、前を歩いてくるスーツの男の人とぶつかった。駅前の大通り沿いを流れる川には橋がかかり、街と街とを結んでいる。通勤・通学でごった返す夕方五時頃のことだった。手元のスマホに気を取られていたのは男の人のほうなのに、眼がぎょろりとこちらを向くから、私は小さくなって道の端を歩く。泥と吸殻の溜まった排水溝が汚かったけれど、その上をまたぎながら小さく唱えた。
「噛みたい、噛みたい」
 家のそばにある商店街の八百屋さんでお使いの長ネギを買っていると、三軒隣の古いカラオケ屋にクラスの女の子が入っていくのが見えた。人数が多い、と思って数えてみると、私以外の女の子がみんな揃っていた。これは偶然、と口の中でわざとらしく呟いてみたけどあまり効果はない。やっぱりまた噛みたい、と思った。
 最近は特についていなくて、先日も髪を切りに美容室へ行ったら、いつもと全く違う髪型にされた。「こっちのほうが可愛いでしょう」と言うくるくるパーマのおばちゃんになんと返すのが正解かわからなくて、とりあえず笑っておくことにした。内心では噛みたい、噛みたいと繰り返していたのに。

 噛みたい、と言ってももちろん食べ物のことではないし、かといってサラリーマンの男の人やクラスの女の子たちを酷い目に遭わせたいのでもない。言うなれば、まだ一歳にもならない子犬がなんでも噛みたがるのと同じだ。あの年頃の犬はそれが自分らの仕事だとばかりに骨ガムを噛み、家の壁紙を噛み、怒られながらも飼い主の手を噛む。
 昔近所の人が飼っていた犬のソロもそうだった。年老いた彼は人の手に過剰な興味を示したりはしない。しかしペットショップで売っている薄い緑色の骨を前にしたときだけ、優しかった目を燃えるようにたぎらせてそれを噛んだ。削って砕いて、小石程度の大きさに粉砕するまで気が済まない。私も同じだった。粉砕は言い過ぎだとしても、噛むことで満たされる気がするのだ。
 試したことはある。使っていたお箸やスプーン、手近な棒状のものは一通り咥えてみた。それでも駄目ならとお小遣いをはたいてペットショップで骨を買ってみたことも。しかし私には犬のように骨を噛み砕く強さも根気もなく、また瞳を煮えたぎらせたソロとは違ってちっとも満たされやしなかった。焦燥感。目ぼしいものの中で試していないのは、もう人間の肉だけだ。だがそう簡単に試せることでもないので、私は静かに我慢をする。
 今はこんな風にじっと黙っているけれど、小さい頃は怒るとすぐに手が出る子供だった。覚えている。五歳のとき、はじめてお母さんを殴った。たまたま手が当たってしまったとかでもなく、明確に殴ろうと思ってグーで殴った。夕ご飯が食べたかった冷凍食品のハンバーグじゃなくて、なにかが絶対的に嫌だったのだ。
 だからといってお母さんを傷つけたいわけではなかった。当然お母さんのことは大好きだった。それでも殴ってしまった。この怒りをわかってほしくて。
 その頃からお母さんは私に対してほんの少しだけ冷たくなった。休日に公園へ連れて行ってくれなくなったし、夕ご飯前に五百円玉を渡されることが増えた。お母さんは夜になると綺麗にお化粧をしてどこかへ行く。お父さんは私が一歳になる前に消えたらしい。全部私がお母さんを殴ったせいだから仕方がない。今度は私がお母さんに優しくしてあげなくちゃ。
 小学校に上がってからは、お医者さんの勧めで思っていることを紙に書いてみたり、友達に話してみたりしたけど、あんまりうまくはいかなかった。書いた日記はお母さんや看護師さん、待合室に他の患者さんがいるところで読み上げられたりしたし、相談した友達がそのまた友達に話して、私の知らないところであの子変だねってことでまとまったのか、いつの間にかひとりになった。
 中学生になったら友達なんか作らない。小五のときに誓った。そのときにはもうとっくに友達なんていなかったのに、なぜかそう強く誓った。もちろん口の中で二度唱えた。
 だから中学生になっても状況は変わらず、私はいつもひとりでいた。その頃にはひとりで給食を食べるのも、教室を移動するのも慣れていたから苦ではなかったけれど、張り合いはなかった。小学生の頃は「中学生になったら」って考えてひとりでもわくわくできたけど、小学校でも中学校でもひとりきりなのだから生活に変わり映えはしない。これが高校でも大学でも、果ては社会人になっても続くのかと思うと軽く絶望を覚える。
 しかもその頃の私はなにがあっても笑ってやり過ごしたり、言われていることの意味が一切わからなくても、さも「委細承知」という顔をすることができるようになっていた。苦手な国語の授業でも委細承知、毎度掃除当番を代わってくれと言ってくるクラスメイトに対しても委細承知。家でもおんなじだ。今日は帰って来ないでちょうだいと言われれば裏の物置小屋で眠った。小屋には幼稚園の頃に園で使っていたお昼寝セットがあるから、体を丸めれば十分に寝られる。最初はどういう意味かわからなくて、お隣の井上さんのおばさんに泊めてもらえないか頼んだけど、そのあと井上さんにお母さんが怒られて、怒られたお母さんに私が怒られたから、人に迷惑をかけてはいけないのだと知った。委細承知。私は四六時中この顔だ。
 しかし日々の楽しみがひとつくらいないだろうか、と考えて、私は好きな人を作ることにした。友達はいらない。でも好きな人は人間としてのジャンルが別だから、好きな人ならいてもいいかもしれない。ちなみにクラスの女の子からだけでなく、私は男の子からも嫌われている。「おもしれー女」なんて言って男の子が変わり者の女の子を好きになるのは、所詮漫画の中だけの話だ。

 窓際の席に座って、突伏するふりをしながら教室内を見渡す。ちょうど目の前を三人の男の子たちが横切った。噛んだら脂肪が甘くて柔らかそうな風飼くんみたいな人もいいし、噛んだら骨に歯がコツコツ当たって愉快そうな矢祭くんもいい。それで言えばクラスで一番華奢で、噛んだらバリバリと噛み砕けてしまえそうな猿渡さんもいいかもしれない。なかでも猿渡さんは小学校の頃から同じクラスで、最初に私を除け者にしようと言い出した人だから、噛んだら気分だっていいだろう。猿渡さんこそ百点満点の人かもしれない。
 でも私はキイロくんが好きだった。頭の中で勝手に”キイロくん”なんて呼んでいるけれど、本名は林くんだし、もちろん本人に向かって言ったこともない。でもキイロくんはキイロくんであって、それ以上でもそれ以下でもない。
 しかしなぜキイロくんが好きなのかと聞かれると答えに困ってしまう。なぜなら彼はとても普通だからだ。身長は背の順でギリギリ前から数えたほうが早いくらいだし、顔立ちは綺麗だけど眉毛がなよっとして頼りない。声変わりの途中なのか国語の音読のときはいつも掠れている。どこか物足りなくて、でもそれが普通な男の子。嫌われるところなんてないけれど、せいぜい八十点ってところだ。
 でも世の中は全部平均点を取れる人の勝ちなのだ。そういう人が結局は一番人に好かれるし、一番偉くなるのだとお母さんは言った。だからあなたもそうなりなさい、と言われて私が思い浮かべたのがまさにキイロくんだった。
 確かに猿渡さんはクラスで一番可愛くてお家もお金持ちだけど、そのせいで「調子乗ってる」と言う子もいる。キイロくんは八十点だけど、言うなれば八十点を武器にして百点満点を取れる人なんだろう。
 それにキイロくんなら、頼んだら二の腕くらいは噛ませてくれそうなところもよかった。たとえ拒否されたとしても、無理やり噛んでしまえば無抵抗そうなところも。
 そんなことを考えていたら、好機は案外すぐに来た。
 肩を揺さぶられて目が覚めると、机の前にはなんとキイロくんがいたのだ。私はと言えば、HRの途中で寝落ちしたまま誰にも起こされず今まで眠ってしまっていた。オレンジ色の陽の光が差し込む教室に私とキイロくんのふたりきり。彼は怪訝そうな顔をして、もう一度私の肩を揺さぶった。
「ねえ、進路調査票」
「しんろちょうさひょう?」
「今日までなんだけど。俺、先生に集めてこいって言われてて、箒木さんが最後なんだけど」
 なんだけど、の”ど”の部分にやけに力を込めた言い方だった。もしかして怒っているのかもしれない、と思って反射的に笑うと、キイロくんの眉間の皺がより深くなる。
「あるの、ないの」
「ある、あるけどまだ書いていない」
 正直に白状すると「じゃあ早く書いたら」と言いながらキイロくんは唇を引き結んで前の席の椅子に腰掛けた。舌打ちしようとして、でもやめてくれた。自分は一切悪くないのに、人を責めきれないところがキイロくんらしい。
 私はぐちゃぐちゃのスクールバッグの中からくちゃくちゃの進路調査票を取り出し、一応手で皺を伸ばしてみる。なんとか字がかけるくらいになって、考えるふりをしながらそっぽ向いたままのキイロくんを盗み見る。
 やっぱり顔は普通で、さっき目の前に立っていたときも喋るのに首が痛くなることはなかった。声は、前よりも落ち着いてきたかもしれない。日焼けした喉仏が少し出っ張っていた。ああ、噛みたい、噛みたいなあ。
「え」
 キイロくんが目を丸めて私を見た。案外まつげが長いな、と思う。
「箒木さんもしかして、あの噂マジ?」
「噂って?」
「箒木さんは吸血鬼の末裔だって、同小だったやつらが」
「きゅうけつき」
 って、あの血を吸うやつ? 昼間は眠っていて、十字架とにんにくが苦手な。
「だって今、噛みたいって言ってたじゃん」
 違うよと言いたかったけれど、じゃあなんなのって尋ねられたら困るので口を噤んだ。噛みたいと思ってたのは本当だけど、それをうまく説明するのは難しい。世の中にはたくさんの言葉があるけど、そのどれも正確に私の気持ちを表してくれるものはない。嬉しいも悲しいも、私にはどんなものなのかよくわからないのだった。
 そのうち吸血鬼だと思われていたほうが便利なんじゃないか、と考えていたら
「もしかして俺の血って美味しそうなの?」
と予想外のことを聞かれた。でもキイロくんの目は真剣で、その目に私まで真面目に答えなくてはいけないのではないかという気持ちになる。
 美味しそう、と言えば美味しそうなんだけど、キイロくんが思っているのとはたぶん違う。噛もうと思えば噛めてしまえそうな、手が届きそうでまだ届かないことに対する誘惑というか。八十点で、百点満点のその喉仏を私は噛みたい。しかしそれを馬鹿正直に言ってはいけないことはなんとなく知っている。
 ところで、吸血鬼というのは人間の血液を吸って生きているらしいけれど、血液を摂取するということはその昔、持ち主の能力を貰い受けることだったらしい。貰い受ける、と言うと聞こえはいいけれど、ようは他人を喰いちぎって取り込んでしまうということだ。欲しければ喰らえばいいだなんて、なんとも単純で明快で、明朗快活だとさえ思えた。
 もしもキイロくんを噛んだら、私にも八十点を取る能力が身に付いたりするんだろうか。そうしたらテストでは平均点が取れて、友達も五人くらいはいて、もっとお母さんの役に立てるのに。
「ねえ、どうなの」
「んあ、ええっとねえ」
 キイロくんにもう一度尋ねられて、私は急激に閃いた。
「お父さんに似てるから」
 ぽかん、とした顔が私を見た。キイロくんは目も綺麗だな、と思う。
「俺が、箒木さんの親父さんに似てるの?」
 親父という呼び方がキイロくんには似合わなかったけれど、こくりと頷いた。
「箒木さん家って親父いないの?」
「小さい頃にどっか行っちゃって、それからはお母さんとふたり暮らし」
 そう言うとキイロくんは丸かった目をきゅうっと細めて考え始めた。キイロくんには腕組みも似合わなかった。
 実際、キイロくんがお父さんに似ているかどうかなんてわからなかった。一歳の時に消えちゃってから一度も会っていないし、写真だって一枚もない。でも他の家にそういう人がいるなら、うちにだってお父さんにあたる人がいたのだろうと思っただけだ。その点に関して私に特別な感情はなかった。お母さんに「お父さんいなくてもいいよね?」と聞かれて「うん」と言った以上、気にしてはいけないのだ。
 でもお父さんがいないことを言うと、急に人が優しくなることがある。病院の看護師さんも学童にボランティアで来ていたお爺ちゃんも、はじめはつんとした態度だったのに、うちにはお父さんがいないと言うとこっそり飴玉をくれたり、私の好きな絵本を読んでくれたりした。頑張ってねと言われることに対しては、なんと答えたらいいかわからなかったけれど。
 もう十分に伸び切った進路調査票を指でいじっていると、キイロくんは神妙な顔で言った。
「腕とかでもいいの」
「なにが?」
「その、噛みたいのって」
 キイロくんが学ランの袖を捲ると真っ白な腕があらわになった。肘の裏側は青い血管が通って、さらにその上へ伸びているがワイシャツが邪魔で見えない。
 キイロくんは教室の外を伺うように目をやってから、静かに話し始めた。
「だってそれ、頼りたいとか甘えたいってことなんじゃないの。うちも母さんいないからさ。俺が幼稚園入る前に病気で死んだんだ。父さんが在宅ワークで家にいるし、ばあちゃんとじいちゃんも一緒だから困ることはないけど、でもやっぱり人ん家とは違うなって思うときはあるよ。男の友達はみんな母親なんてウザいだけとか言うけど、そんなの俺たちにはわからないじゃんね。…噛みたいってのは、ちょっと、わからないけど」
 私はキイロくんが言ったことの半分も理解できなかった。だってキイロくん家はお母さんじゃなくてお父さんがいて、それにお婆ちゃんやお爺ちゃんもいる。うちは親戚なんていないし、近所の人にもたぶん嫌われてるし、たまにお隣の井上さんは作りすぎた肉じゃがとか煮物のタッパーくれるけど、キイロくん家とは全然違う。でも。でも、なにかわかろうとしてくれているのは、ちょっとだけわかった。
「だから、そういことならいいよ。噛んでも。俺、注射とか平気なほうだし、十六になったら父さんと献血行ってみたいって話してるくらいだし。血だってちょっとくらいなら、ほら、大きめの蚊に刺されたと思っとけばいいんだし」
 今度はやけに語尾の"し"を柔らかく丸めた声だった。怒っているときでも気遣っているときでも、キイロくんの眉毛はいつもなよっとして頼りないのに、今はほんの少しだけキリリとして見えた。大きめの蚊だと思われるのはちょっとだけ嫌だけど。
 私がぼうっとしている間にキイロくんは学ランを脱いでいた。のりの効いたワイシャツの第一ボタンを外すと細い首筋が見えて、袖を捲ってあらわになった二の腕は別人のように白い。
「噛まないの?」
「か、噛みたい、噛みたいっ」
「はは、二回も言わなくてもいいよ」
 吸い寄せられるようにキイロの肌に触れる。二の腕ってこんな感触なんだ。人の肌ってこんな柔らかさなんだ。ペタペタ触っているとキイロくんが顔を顰めるから、私は慌てて唇を開いた。
 遠くのほうで聞こえたのは五時を知らせる、夏は来ぬ。これはね、来ないんじゃなくて、夏が来たって意味なのよ。あのときのお母さんの顔が得意げだったか、それとも寂しげだったか、私は思い出せなかった。

 その日、家まで飛ぶように帰って一目散に物置小屋に駆け込んだ。今夜は帰って来ないでって言われていないけど、そうしなくては気が済まなかった。
 結局、私はキイロくんの血を飲めなかった。そもそも吸血したかったわけではないのだけど、でもせっかくならって気持ちもあったのに。
 歯のギザギザがキイロくんの肌に当たったとき、控えめに言っても感動した。指で触るのとは段違いのドキドキが駆け巡って、心臓が破裂しそうだった。
 でも次の段階へは進めなかった。滑らかすぎて皮膚の感触は、どう歯を立ててみても食い破れなかい。何回か試してみたけれど、どうしてもそれ以上歯が入っていかないのだ。だから私は諦めて、代わりに舌のザラザラを肌に滑らせてみたら、キイロくんが急に飛び退いてそばにあった机に頭をぶつけた。
 でもキイロくんはそんなの気にならないみたいに顔を真っ赤にして、唇もわなわなさせていたから、私はなにかとんでもないことをしてしまったような気がして逃げ帰ったのだ。
 明日キイロくんに会ったら謝らなくちゃ。でも一体なにを。わからないけど、とにかく謝らなくちゃいけない。それにしてもあのときのキイロくん、目をぎゅっと瞑って可愛かったなあ。
 その夜は夕ご飯も食べずに眠って、深夜に起き出したらまだ家の明かりがついていた。声も聞こえる。お母さんと、知らない男の人だ。男の人が家にいるのはしょっちゅうだから気にしないし、家へ出入りする人はよく変わるから顔も覚えていない。けど今夜は覚えていないその人の顔を想像してみた。声も影も全然違うけど、なぜか最後は自然とキイロくんに似ていく。あれは大人になったらキイロくんかもしれない。それならいいな、と微かな話し声を聞きながらもう一度眠った。
 次の朝、物置小屋からそっと家へ入ると、もうお母さんが起き出していた。いつも私が学校に行く頃にはまだ寝ているのに珍しいな、と思っていると、お母さんは「居間に来なさい」と優しく腕を引いた。
「こちら、佐伯さん。あなたのお父さんよ」
 挨拶なさい、とお母さんが私を正座させる。テーブルを挟んだ反対側には体格の良い、短髪の男の人。日に焼けた浅黒い首筋にシルバーのじゃらじゃらしたアクセサリーをつけていた。
 よくわからないまま座り込んで、脚をさすりながら頭を下げる。お行儀悪いわよ、と言われてもそれどころではなかった。
 だってお母さん。この人ちがうよ。お父さんじゃないよ。お父さんってもっと、なんか、細くて、頼りない感じの人だよ。
 おろおろと身体を揺らして説明しようとしたけど、その前にお母さんが私の頬を叩いた。
「なんて失礼なこと言うの! 佐伯さんに謝りなさい! 大体あなた、本当のお父さんの顔なんて覚えていないでしょう!」
 叫ぶような金切り声に、私はイヤイヤと子供みたいに頭を振りながら全速力で逃げ出した。逃げ出すと言っても、私には裏の物置小屋くらいしか行くところがないのだけれど。
 仕方なく小さな布団が折り重なった小屋へ駆け込んで、ぐちゃぐちゃになった顔を枕に押し付ける。ちょっと据えた匂いがして慌てて鼻から遠ざけたけど、匂いは鼻の奥の奥に残ったままだった。鼻が変だと、目も耳も口もみんな変な感じがする。それでも目や耳は仕方がないと思える。でも口は、歯は、舌は嫌だった。歯にはキイロくんの肌の柔らかさが、舌には肌の滑らかさと塩っぱさが残っていたから。血は飲めなかったけど、舐めたってことはその人の一部が私の中に入ったってことで、それって私が誰かに一歩近づけたってことかもしれなくて。キイロくんにはなれなくても、それなら悪くないな、と思ったのだ。
 そろそろ学校に行かなくてはいけない時間になり、のそのそと物置小屋を出た。お隣の井上さんがなにか言いたげな目をしていたけど、無視してリュックを背負って家を出る。
 通学路の川沿いは芝生がさらさらで、水面もキラキラしていた。地面の照り返しが暑い。もうすぐ夏になる。
 噛みたい気持ちはちょっと小さくなっていた。


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