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『砂城に夕立ち』 #月刊撚り糸



あなたの声がして、ドアノブにかけた指が躊躇う。まるで初めて訪れる場所のように身体が強張り、鈍く光るノブからは不気味に冷たさを感じない。爪先にまで走った緊張で凍てついた手は死人のよう白かった。

中では男の先輩ばかりが数人集まって盛り上がっているらしかった。誰かが付き合っている彼女の愚痴を面白おかしく話している。時折どっと湧いたように笑い声が高くなって、あなたの気配が色濃く交じる。他愛のないお喋りをだった。

しかしひとり廊下に突っ立ったぼくは呼吸が止まる。自分に向けられた言葉でもないのに、折れたカッターナイフの刃が飛ぶ交差点に身を投げ出したような感覚だった。細かな刃のひとつひとつが肌の一番柔らかい部分を削いではフツリと赤い血の玉を作り、硬質な床に落ちていく。何度も、何度も、確かめるようにそれを繰り返す。しかしいつまでたっても致命傷を与えてはくれなかった。

黄味の強い古めかしい電球の明かりが足元を照らしている。あまり手入れをしていない革靴の先端には薄っすら埃と削れたあとがあって、中に入ることも立ち去ることもできないぼくはそれをじっと眺めていた。頭の中にはあの夜の、唇で触れた首筋の冷たさが蘇ってくる。

乱暴に触れた肌はとても滑らかで、かすかに産毛の柔らかさを感じた。押し入った内側は想像よりもずっと温かくて、受け入れられているような錯覚が克明に残る。まるで想像もしていなかった感覚に支配されかけた瞬間、突き飛ばされた衝撃と共にあなたの怯えた目がぼくを見た。

薄くいびつに開いた唇が「信じられない」と無言で訴えかけてくる。

唐突に我に返って、自分が全て壊したことを自覚した。それは衝動的であると同時に、確かに自分が願ったことでもあった。相手の同意もなく肌に触れるということは、あなたが寄せてくれていた信頼のすべてを泥舟に流すということだから。それがたとえ友達であっても、同性であっても。

これ以上望んではいけない。十分すぎるほどに幸せだったと思って、薄暗い廊下の隅で唇が擦り切れるほどつよくこする。

長い廊下の入口側から何人かの生徒の話し声が聞こえて、ようやく賑やかな部屋を離れた。

冬の終わりの気配が寒くて、ぼくは両手を強く握り合わせていた。


❇︎❇︎❇︎


二階の講義室の窓から外を眺めていると、真下にある出入り口からわっと人が出てきた。4時限目の講義が終わったあとの人だかりは、次の講義へ向かう人とサークルやバイトへ行く人で散り散りに別れていく。

曇り空の寒々しい学内が束の間忙しくなって、静かに閉じていた気持ちがにわかに騒ぎ出すのがわかった。

20人分の机と教卓、黒板があるだけの講義室は大学というよりも小学校の教室のようだった。前の時間の講義をとっていないぼくは、まだ誰もいない部屋の窓際の席にもたれて何をするでもなく待っている。あなたが窓の下を通るのを眺めるために。

まるでストーカーのようだけど、それを教えてくれたのは紛れもないあなた自身だった。

出入り口に人だかりができるのと同時に、手狭な教室も徐々に埋まり始める。その中には同じ学科の友人も何人かいて、テキストも出さずにいる呆けていたぼくの席の周りを陣取った。

「律希、誰か可愛い子いた?」

「ここからじゃわかんねーよ、バーカ」

隣の椅子を引いた山下が外を指差しながら言った台詞に、表情を強張らせながらもおどけた調子で言葉を上塗りした。すると短い笑い声とともに話題は自然と別の方向へと移っていく。

思っていたよりもずっとうまく取り繕えていたことに安心を覚えながら、山下の話に耳を傾けた。

「絶対にいけると思ったんだよ」「思わせぶりなことしやがって」。言葉こそ物騒な響きだったが扱う口調は軽く、みんなが笑っているからぼくも笑う。別のやつが「あたしはそんなつもりなかったのにぃ」と裏声で合いの手を入れると更に場が湧いた。背筋に冷たい汗が走った気がした。

誰かに気持ちを伝えるのに勝算が必要なら、あのときのぼくはなんだったのだろう。小指の先ほども受け入れてもらえるなんて思っていなかった。

ただ、もう耐えきれなかった。

夜のサークル室であなたとふたりきりになるなんて、珍しいことではなかった。だけどあの日の暗闇はやけに濃くて、静かで、前触れもなく胸騒ぎがした。突然今まで抑えていたものが吹き出してしまいそうな予感がして、あなたの少し上気した頬が怖かった。

誰の足音もしない部屋で、簡素なパイプ椅子に腰掛けたあなたは言った。右の眉を下げて「俺って、女の子にとって都合がいいみたい」。

視線を漂わせた横顔に見惚れる前に、目の前のノートパソコンに集中したふりをする。あなたがぼくを試すはずも、そんな必要もないのに、ふくらはぎの裏から背筋にかけてがじわじわと熱くなった。

その熱をどうにか誤魔化そうと、一行も進まないレポートに視線を落としながら「男からは愛されますよ、大地さん」と言うとあなたの拳が飛んでくる。骨ばった指の関節が柔らかく肩にあたった。

それらの何気ないひとつひとつが距離感を狂わせたのかもしれない。あなたにとっては適切な距離でも、ぼくにとっては近すぎた。これ以上近づいたら勘違いしてしまうと警告音が聞こえたが、ぼくは従うことができなかった。

次の瞬間には身勝手にあなたの首筋に触れ、愛おしさのようなもので満たされると同時に憎らしさに支配されていた。あなたはなにも悪くないと思うのに止められず、突き飛ばされるまでに薄っすらと赤い痕をつける。

それを見た自分がどれだけの満足を得るだろうと想像していたのに、現実にはただ胸の奥が空いただけだった。混乱した頭の隅で、ぼろぼろと崩れ落ちる音がこだまする。

どうして築き上げてきたものを壊してたくなってしまうのだろう。

ぼくには山下の言葉が無神経だと感じるのと同じくらい、その溌剌さが切実に羨ましくもあった。

黄色味がかった西陽が顔の横をすり抜けて黒板にあたる。あと数分で次の講義がはじまろうとしていた。みんなの笑い声に調子を合わせながらも、鼓膜は小器用に「大地」と呼ぶ誰かの声を拾ってしまう。振り向きそうになって、こらえる。

どうしてぼくに教えたりしたんですかと、音もなくぼやいた。

このままの状態に耐えられなかった。無意味にそばにいることを許されて、まるで友達みたいに「大地さん」なんて、呼んではいけなかった。結局はあなたが出ていった湿っぽい部屋で「壊さなければ明日もこのまま、」なんて無責任なことを考えて、あなたの近くにいたことばかり強く自覚する羽目になる。

だからぼくは何度も思い出す。もはや再生しすぎて細部がグズついた映像を狂ったように見返しながら、下まぶたの縁が赤く粟立ったあなたの瞳を焼き付けていく。もう痛いのかもわからない色が油性ペンのように滲んで、まだらに痕を残した。

それは小さな子ども用のスコップで作った砂の城を壊すときの、あの泣き出しそうな気持ちに似ていた。

影のばらついた公園、五時を知らせる夕焼け小焼けのノイズ、背の高いススキ林がざわりと帰宅を急かしてくる。振り返った砂場のだらんと平らかな景色にいずれ終わりが来ることを、子どもたちは怯えながら学んでいくのかもしれない。そうして最後には砂遊びなんかには見向きもしなくなるのだ。すべては時限爆弾だった。

あれ以来あなたには会っていない。

面倒くさがりのあなたのことだから、短かった襟足はいくらか伸びただろうか。窓の真下から楽しそうに両手を振るあなたが蘇ると、周囲には必ず誰かの顔が点滅する。そのことが堪らなく不公平な気がして、一番好きなのに、一番遠い。理由は、もう擦り切れるほど反芻したのに。

これ以上何も言わなければ辛い思いをせずに済むんだろうか。時間がすべて解決してくれたりするんだろうか。いずれ訪れる別れを少し早めただけにすぎないと自分に言い聞かせる。

チャイムと同時に教授が入ってきて、それぞれが自然と席に落ち着いていく。小さな教室の中は半分ほど空のままで講義が始まろうとしていた。

スマホをマナーモードにしておこうと鞄の口を開くと、ぽこんと電子音とともに新着メッセージが届き、なかったことになどできないと思い知らされる。

あなたの好きだったところが、容赦なくぼくを追い詰める。少し近すぎる距離も、いつもの満ち足りた笑顔も、誰にでも優しいところも、正直すぎる性格も、あなたのすべてが残酷に変わるなんて、好きにならなければ知らずにいられたのだろうか。

マナーモードに設定しながら目を通し、反射的に西陽の眩しい外を見る。誰のどんな話を聞いていたって抗いようがなく、そういう自分の女々しさが心の底から嫌だった。

もう一度スマホが鳴る。「来週の木曜の午後、時間あるか」。あなたからだった。


❇︎❇︎❇︎


電車を降りるとホームには人が少なく、冬の終わりの冷たい風が全身を打った。同じ車内から降りた数人が寒そうに背中を丸めて階段を降りていくのを眺めながら、ゆっくりと歩き始める。

人の出入りの少ない駅で待ち合わせをするのは知り合いの目を避けるためだけじゃなかった。大学もお気に入りの店も友人の家もない歩き慣れた街は、不思議といつも理性的でいようと思える。

改札横の自販機で温かいレモンティーを買ってから外へ出ると、少し前に流行った映画のポスターの前に恵介がいた。

「よ、一ヶ月ぶり?」

「そんなことよく覚えてるな」

ろくに挨拶もせず通り過ぎるように歩くと後ろから恵介がついてくる。「相変わらずきっついね」と少しの傷ついた風もなく応え、当然のように車道側を歩きはじめた。

彼氏かよ、と言葉にせずに毒づき、しかしそれ以上は無理に踏み込んでこない距離感にほっとした。これから行く先は誰が見たって関係を疑うようなところなのに。

普段都内でも一等地にある大学に通っていると、電車でたった20分の郊外もずいぶんと遠くまで来たような気になる。

はじめて駅に降りたときは誰もぼくを知らないのだという安心があって、それでもやはり人目につくことが怖くて、隣に恵介がいてもどこか心細くて、自分の混乱に正しい判断がつかないままホテル街へ進むとどうでも良くなった。

代わりに帰り際は妙に腹立たしくなって八つ当たりして別れ、三ヶ月は会わなかった。遠いところへ行くというのは目まぐるしいことなのかもしれない。

今でも道行く人たちに自分の姿がどう映るだろうと考えれば恐ろしくなるけど、この街でだけ、と思えばやはりどうでも良くなった。「律希、いい?」と少し遠慮がちに聞かれるのも、薄暗い気持ちが重なり合うのも、あからさま過ぎるホワイトローズの芳香剤も、この場限りのことだ。あなたのことだって、きっといつかはそうなる。

華奢な体が嫌だった。男らしく、と他人に言われるまでもなくそうありたかった。でも自分の性が嫌いだった。矛盾し合う感情が自分の芯の部分に絡みついて離れなかった。性別という生き物の大きな枠組みに嫌われている。何度も吐き気が腹の中を揺さぶった。

人を好きになったところでその気持ちに始末がついたりはしない。そんなことは痺れるほどわかっていた。でも楽しそうに話す横顔が少し上にあること、「似合わないだろ」と言いながら煙草を挟む指先、それらひとつひとつが特別に思えた。

ちぐはぐだったものが、あなたといるとひとつになるような、曖昧だけど確かな輪郭のある手触りを感じた。

いや、でも、だから、

「これ以上は望まない」

そうつぶやくと煙草の煙を吐き出した恵介が振り返ってこちらを見た。すっきりと肉付きの薄い背中は彼の陽気さとは不似合いに繊細そうだった。

「大地さんはこっち側の人じゃないんだよ。それなのに、これまで十分すぎるほど優しくしてもらったんだ」

「だから振られるために好きでいるって?」

ふられるためにすきでいる。喉に詰まったような異物感を無理やり飲み込んだ。窓のない部屋の息苦しさは換気ができないことだけじゃないらしかった。

「なんか身も蓋もない話だな」

恵介は短くなった煙草の火を灰皿に押し付け、ベットの下に落ちていたカーディガンを羽織った。

「そうやって物分りの良いふりして、苦しくね―の」

「ぼくは恵介みたいに強くないんだよ」

言い終えてからはっとした。ベッドに浅く腰掛けた恵介は苦笑いするだけで何も言わない。

「ごめん」

「良いって、俺は好きでやってんだから。付き合わせてるのは俺の方だって言っただろ」

そうは言っても、と口にしかけて止めた。どう見たって都合のいい身体の関係でしょ、なんて言葉を投げたところで何を変えられるわけでもない。

ぼくは恵介の優しさに甘えている、いや付け込んでいるのだ。どうなれるわけでもないくせに、落ち着かない朝の陽光に嫌気が差したときばかりに頼って、会いに来させて。そのうえで「強いね」なんてぼくが言っていい台詞ではなかった。

恵介とふたり分の距離を開けてベッドに深く座り、顔を見ないまま小さくつぶやく。

「でも、苦しくないの、こんなの」

毛足の短い絨毯の模様を目で追っていると、恵介がスローモーションみたいにゆっくりと体制を変えるのがわかった。ベッドのスプリングがわずかに軋んで頼りない音がする。

「そう思うなら俺にもちょっとくらい優しくしてほしいもんだけどな」

「、ごめん」

「ちょ、バカ、本気にするなよ」

そう言いながらふたり分の距離を詰めずに腕だけでぼくを抱き寄せる。しかし手触りの良い生地越しの肌は少し震えている気がして、顔を上げる。

蝋燭のように弱々しい灯りの浮かぶ恵介の顔には、何もなかった。悲しみも、切なさも。ただ少しの諦めがあって、肩越しにぼくだけが飲むレモンティーが寂しげに2本並んでいた。

それが恵介が努力をして手に入れたものなら、いつからこんな風だったんだろう。強いと思っていた彼も、かつてはぼくみたいだったんだろうか。それとも恵介が強いんじゃなくて、ぼくが弱いんだろうか。

「身体の関係だっていいじゃん」

耳元で囁かれた空虚な台詞に甘えてしまわないように、ぼくは恵介が気に入って吸っている煙草の強いメントールの煙が嫌いだと思い直す。大地さんが、あなたが吸う煙草の香りには安らぎすら感じるのに。

しかしこの気持ちすらも明日粉々になるためにあるのだと思うと、自分の不毛さに少し呆れた。

中途半端に隙間風の通る肌の間が冷えないようにエアコンの温度を上げ、もどかしさを抱えたまま眠った。夜はいつも短くて長くて、うんざりした頃にようやく朝が来る。あなたの待つ朝が来る。


❇︎❇︎❇︎


ふたり並んでもたれかかったベンチの前をスーツ姿の女性たちが横切る。服に着られているようなぎこちなさから、きっと就活がはじまったばかりの3年生だろうと思って眺めていた。

「大地さんはいいんですか。こんなところで油売ってて」

「嫌なこと言うなよ」

あなたは深くため息を吐くと同時にわずかに眉間に皺を寄せた。

そう言っている間にまたスーツ姿の大学生たちが通り過ぎていく。今日は大学主催の就活生向けセミナーでもやっているらしく、広場を抜けた先の講堂に質素な色味の学生たちが次々と吸い込まれていく。まだ春の兆しの見えない曇天はしばらく続くと朝のニュースが言っていた。

「そんなこと言って、大地さんなんにもしてないんでしょ」

ダメですよ、とぼくがどうでもいい話をするのを遮るように、あなたの眼差しが緊張の色を帯びた。

「お前、最近俺のこと避けてただろ」

「、気づいてたんですね」

「当たり前だよ、アホ」

大地さんは少し背中を丸めて言った。コートに付いた荒っぽいファーに顎が埋まって横顔が幼く見える。

「つか寒いわ。どっか入ろうぜ」

「いいですよ。どうせすぐ終わる話なんだから」

自分でもわかりやすく投げやりになっている。いや投げやりになったふりをしていた。

あなたは一度視線を落としてから言う。

「もしかして、後悔してんの」

核心を突くのが早すぎですよ、と茶化してみせようと思ったけど、緊張が移った頬におどけた言葉はうまく乗ってくれなかった。

「当たり前じゃないですか、そんなの」

代わりに恵介にするような悪態をついて、ひきつる喉をどうにか動かした。これ以上望んではいけないのに、諦めと期待の間で引き裂かれそうだった。

どうして人は絶望の淵に立たされても明るい方へ目を向けてしまうのだろう。あなたの答えなんてはじめて会ったときから知っていて、今更自分と同じじゃないことを悲観するはずもないのに。

「もういいんですよ、こんなことで悩まなくて。もういいんです」

茶色く濁った芝生が風に揺れ、ぼくはそればかり見ていた。いつかはあなたの表情を目に焼き付けなかったことを後悔したりするんだろうか。もしそうだとしてもそれはずっと、ずっと先だろうと思って想像もつかなかった。

「ぼく、次の講義があるので」と、最後の切り札のように何度も練習した一言を告げて腰を浮かす。

しかし上手く立ち上がれず、痺れたようにふらつく足でどうにかバランスを取った。身体が嫌だと言っている。北風に細かな埃が舞った。必死で積み上げてきた砂の城。その真ん中にスコップを当てただけで心臓が酷くうるさい。一欠、二欠と崩れるたびに、自分の後悔と脆さが目頭を焼く。

身体がまた、嫌だと言った。

不意に、腕を引かれた。わずかに食い込んだ爪はすぐに離れ、代わりに左の手首を強く掴まれる。そのことに心の底から安堵してしまう自分にえづきそうになった。

「次があるって言ったじゃないですか」

「律希、木曜日の6限は何も取ってないだろ、知ってんだぞ」

「なにそれ、ストーカーですか」

噛み締めた奥歯から尖った鉄の味がして、冬だと言うのに冷たいスポーツドリンクを飲み干したくなる。

もう何もかもやめてしまいたいと思うのに、必死で悪態をついてみせるのに、そんなことはお構いなしに引き止めるあなたが、もはやどうしようもなかった。ぼくがそうであったように、あなたもぼくのことを同じように知っていた事実が容赦なく胸を締め上げてくる。

あなたがこんな去り際に納得しないことくらいわかっていた。しかし引き止めてほしくて腰をあげたのかは自分でもわからない。鋭敏になりすぎた意識で遠視のように手元が見づらく、ただあなたが少し傷ついたような顔をしたことが嬉しいと思ってしまう。

何もかもぐちゃぐちゃで、みっともなくて、あなたの手が熱すぎて、そういう愛がほしいと喚き出しそうだった。

「ダメですよ、引き止めたりしたら、」

同時に叩き割るような甲高い警告音が心臓を刺して、ぼくはあなたの手を振りほどいた。

これ以上、望ませないで。

「だって、ぼくのことなんて好きじゃないでしょう」

「それは、」

「わかるんですよ、だってずっと見てたんだから。馬鹿にしないで」

向かい側の人が訝しげにこちらを見た気がしたけど、もはやそれすらも気にならなかった。

万にひとつもあなたと付き合えた可能性を想像しなかったわけじゃない。あなたは優しいから、本気で望めばただの後輩のぼくを受け入れてくれるかもしれない。

だけどあなたがくれる言葉も、触れ合いも、そのすべてが慈悲めいたものだとわかったら、きっとぼくは狂ってしまう。

人がまばらになった構内は段々と闇に飲まれていく。戻っても、進んでも、苦しいなんて。このまま真っ暗になって、全部なかったことになればいいのに。

「馬鹿になんてしてない、」

崩れそうになった瞬間、仄明るいものに包まれた気がした。あなたの発光した熱が首筋に触れている。恵介よりも体温が高いのだなと頭の隅で考えて、それ以外のことが静かに渦を巻いて混乱していた。あなたの声だけに鼓膜が震える。

「逃げてるのはお前のほうじゃないの」

「そんなこと、」

「嫌だって言うなら、おとなしく引くから」

あなたの顔が見たくて肩を押すけど、思いがけずぴったりと重なった場所からはうまく動けない。そのうちにあなたの言葉が血管を通って内側を這い回り、抗おうとする感情が丁寧に慰められていく。

「突き放してくれたら、さっさと終わりにするから」

どんな顔をして言ってるんですか、そんなこと。

言葉を選んだところで変わらない響きに目眩がした。

どうしてぼくがあなたを振るみたいに言うんですか。

あなたは無邪気で、主体性がなくて、素直で、都合が良すぎて、憎らしさすら感じている。もう一度「ぼくのことなんて好きじゃないくせに」、そう言いかけて、肩に落ちたあなたの額が酷く無防備なことに驚く。

どう転んだってぼくらは幸せになんてなれない。そう言い聞かせてきたのに、あなたの体温ひとつで絆されてしまう。許された気持ちになってしまう。

なにが『身体だけの関係』だ。好きな人と身体だけの関係なんて、ぼくには無理だ。夕立ちのような幸福が降り注ぐ砂地に立って、ぼくはスコップを手放した。

手首を捕まえていたあなたの手がゆっくりと降りてくる。その仕草にはなんの迷いもないように見えたのに、手のひらに触れてみればかすかに震えていた。ぼくはまたどこまでも怖くなって、吸い付くように繋がった手の中に確かな絶望を見てしまう。

いつ振られるだろう、いつ「やっぱり無理だった」と右の眉を下げて言われるだろう。あなたは女性を好きになる人だから、ぼくを突き飛ばした時のあの目がきっと、一番の本心だ。

こんなの施しと変わらない、とけたたましい警告音が絶叫する。ぼくは騒がしい脳内で、必死に息をする。

「苦しみますよ、絶対に」

「いいよ。その代わり、お前も責任持って苦しめ」

この人はこんなにもずるい人だっただろうか。あれだけ温かく人の心を掻き乱したくせに、最後の最後になって一番暴力的なことを言う。

そんな言葉で惹きつけるのはやめてほしいのに。せめて計算であってくれとすら思いながら、ぼくは汚くもあなたに「都合がいい」という言葉を投げつけた女性に感謝する。

たとえばこの先ずっと警告音が鳴り止まないとしても、「好き」とは言わない誠実過ぎるあなただとしても、それでも不格好に積み上がった砂の城を壊さないことが、きっとぼくの愛だ。

「土曜日、どこかへ出かけませんか、ふたりで」

「なんだそれ。どっか行きたいとこでもあるの」

「別にないですけど」

「それ、デート?」

「、違いますよ。ただ男同士でつるむだけ」

「なーんだ」

「あの、やっぱ、デートで」

笑わないでくださいよと言ってもあなたが背中を丸めて震えるから、ぼくは無防備な首筋を人差し指でなぞった。





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