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金属の鳥は幸運をはこぶか。

 僕がデスクに戻ってくると、彼は窓際の黄色い椅子に座って外を眺めていた。先週から降り続いていた雨が上がり、朝から雲ひとつない穏やかなお天気だった。中庭を囲むように正方形のドーナツ型をした建物は、お昼前後になるとどこを見渡してもすっきりと明るく、窓ガラスはキラキラ光る。景観を壊さないように外側からは透明に映る素材で作られた中央廊下は、人が歩くとまるで魚が薄水色の水面を泳いでいるみたいだ。それが一番良く見えるのが彼の座っている黄色い椅子のある位置だった。なかなかいいセンスをしているとは思うけれど。
 ああ、僕の特等席が。
 ちょっぴり切ない気持ちになりながらも近づいて「いいよね、ここの席」と気さくに話しかけてみる。彼は二カッと音のしそうな笑顔で「うっす」と返事をした。
「ところで今朝お願いしてたファイリングの仕事だけど」
 ファイリング、のあたりですでに顔が曇り始めていた。言い終えた頃には見事なしかめっ面。また「うっす」と返事をした。うっす、というのは肯定の意だと思っていたけど、どうやら僕が考えている以上に汎用性の高い相槌なのかもしれない。
「便利だね」
「なにがっすか?」
 きょとんとした表情はまだ幼く、おっさん臭さなどまるでない。今朝鏡の前で髭を剃っていたら「平助の枕カバー洗うからね」と妻にさらりと言われた僕とは大違いだ。
 とは言えど、仕事はしてもらわなくてはいけなかった。人手が足りないと騒ぐほどの忙しさではないが、猫の手ならぬ犬の手なら借りたいのが常なのだ。
「ファイリングね。そんなに難しく考えなくてもいいんだよ。とりあえず取り出しやすいようになっていれば、あとは打ち込み作業に進めるから、」
 説明を再開するとまたぶすくれた顔になる。ちょうど飼い犬がいたずらを叱られたときにこんな顔をする。とはいえその顔もいたずらも、電子制御とAI学習で導き出されアンドロイドペットの仕草なのだけど。その割に僕にはさっぱり懐かないから、やっぱり自我というものがあるのかもしれない、と僕は睨んでいる。
 余計なことを考えているうちに、吉田君の顔が急に交戦的な表情を持った。
「俺があのスイッチ持ってたらどうするんですか」
 僕はなんのことかわからず首を傾げる。やれやれ、とでも言いたげに吉田君が説明しはじめた。
「最近SNSで話題になってるんですよ。今よりもずっと科学の発達していた古代文明が残したスイッチの話。誰がなんの目的で作った、どんな形状のものかもわからないらしいですけど。それを押すと氷河期にも匹敵するほどの冷害が起こるとか、世界各国の巨山が次々に噴火するとか、とにかく文明が滅びるような大災害が起こるんです。そんなスイッチがこの世のどこかにあるんですよ」
 なんと、世間はそんなことになっていたのか。生まれてこのかた最先端に置いていかれっぱなしの僕はもちろん初耳だった。
「だからはじめは一過性の流行で終わるって言われてた月への移住希望者も未だにあとを絶たないわけです。スイッチは老若男女問わず様々な人の手を渡って、あるときは大富豪の秘密の金庫の中に、あるときはヨーロッパの古い納屋の屋根裏に。どこへいくかは誰にもわかりません。金属の鳥、なんて言われたりもしてますね」
「なんだかゴッホの絵画みたいだね」
 吉田君は一瞬疑問符を浮かべたがすぐに振り払い、あの交戦的な笑みで僕に語りかける。
「そのスイッチがですね、今は日本の、それもこの東京にあるっていう噂なんです。つまりここにいる人間はすべて、世界を滅ぼす力を持っている可能性があるってことです。もちろん、俺にも」
 にやりと笑うと、吉田君の綺麗に刈り込まれた坊主頭が光を受けてキラキラする。お昼頃の陽気な日差しだ、と思いつつ、僕は吉田君に聞く。
「僕にも可能性があるってこと?」
「当然です。でも知らなければただの汚い廃棄部品に見えるかもしれないし、ガチャガチャの玩具って線もありますね。知識がなければ無用の長物ですけど」
 極め付けるように肩をすくめて
「だから無闇に人を責めたりしたら危ないんですよ」
と締め括った。
 僕の世界は狭い。なにせ生まれてこのかた故郷の街以外に住んだことがないのだ。旅行は好きだけれど、大型連休はいつも出遅れるから結局家で過ごす。引っ越しの予定も転勤の辞令も出ない。それなのに世界だなんて、あまりに規模が大きすぎるし、荷が重すぎる。
 僕が静かに慌てていると、吉田君の背後に小さな影がのぞいた。
「ご高説は結構だけどもね。君たち、仕事はちゃんとやってもらわなきゃ困るよ」
 幹谷課長はトレードマークの丸い眼鏡の真ん中をくいとあげた。綺麗に櫛の入った白髪が今日も光っている。吉田君の坊主頭とはまた違った趣だ。
 吉田君は一段と不貞腐れた表情で立ち上がり、幹谷課長のほうを振り向く。
「ちょっと雑談してただけなんですけど。もうお昼なんで」
「あらそう。それならいいけどもね」
 そう言いながら幹谷課長は僕の目の前に散乱した資料に目をやる。若干の沈黙のあとで「…昼飯行ってきます」と出て行く吉田君。なぜか僕だけが課長と一緒に残される。
「難航してるみたいね」
 一瞬なんのことかわからなくて首を傾げる。数秒置いて、思い出す。
「平介君、私は"君たち"って言ったのよ」
「僕と吉田君のことですよね」
「わかってるなら簡単な手に引っかからないでちょうだいよ。君はうちのエースなんだから」
 ね、と肩を叩く背後が徐々にざわつきはじめる。今日のお昼ご飯は妻が持たせてくれたのり弁当だと思い出して足がそわそわする。
 幹谷課長は何気なく口にするけれど、僕はいつも反応に困ってしまう。エース、だなんて。僕のことをそう評するのはこの世で幹谷課長だけだと思う。
 コの字型をさらに丸めたビルの一角に位置する小さな小さな部署。大学を卒業してしばらくぼうっとしていた僕がようやく辿り着いた場所だ。
 一言でいえば保険を紹介する仕事だ。世にある様々な保険会社の情報を集め、相談者に合ったプランを提案する。といえば聞こえはいいが、予想もできない様々な自然災害に加えて、宇宙人の襲来や月や火星への移住計画が話題になる今、なにをやるにも保険への加入が必須になる。火星に行くなら炎災保険と氷災保険の両方が必要だし、まだ未知の惑星で車両を走らせるなら未確認物損保険なんかもいる。「この保険への加入手続きをしてくれ」という要望に応えることのほうが多い今日この頃だ。
 はじめは吉田君と同じくアルバイトだった。やっていたのも資料のファイリング他雑用全般、暇なら掃除をするくらい。特に窓拭きの掃除が好きで、これだけはよく褒められたものだ。
 バイト生活も二年をすぎ、当時課長だった幹谷さんに誘われて社員登用の流れになった。「君、どうせ他で就職する気もないでしょう」
 まったくその通りだった。
 正式な部署名よりも、通称である"BIRD"と呼ばれることのほうが多い。入り口のプレートも作成資料の署名ロゴにも鳥のマークが使われており、僕らも他部署を含めた会議ではそう名乗る。
 歴史を辿れば、かつては宇宙進出計画の補佐業務の一端を担う優秀なチームの略称だったらしい。各種多様な有識者が集まり、今後誰もが宇宙に出られる未来になにか必要なのか、そこで話し合われた。
 しかし僕が産まれるよりも前に大抵の問題は解決してしまい、業務はマニュアル化され、切り分けられ、散り散りになった末に残ったのが今の保険案内業務だったというわけらしい。だから僕は"BIRD"がなんの略称であるのかも知らないけれど、いつも通りのほほんとしたまま訪れたひとの保険加入手続きをしたり、新たなプランに目を通したりする。
 特に世に出た新しい保険について調べるのがアルバイト時代から好きだ。世の中には一見誰も加入しないと思われるような保険がたくさんあって、しかし数年働いているとそれがひょんな形で現れることがある。久しぶりに再会する同級生みたいで、資料庫でちょっと涙ぐんだりもする。そこを幹谷部長に目撃されてしまったのだ。
「長年この部署で働いてるけど、こんな子がいるなんてねえ」
 はじめて宇宙人を見る子供みたいな目をするのはやめてください、と言うと幹谷部長はけらけら笑った。
「ところでなんの話してたの」
 そう尋ねられて、僕はさっそく吉田君を見習って切り出す。
「部長、知ってますか、世の中にはとんでもないスイッチがあるみたいです」
「その手のやつって定期的に流行るのよねえ。ノストラダムスの大予言とか、追崎予想、惑星定刻機関説。僕ほどナスカの地上絵に魅せられた小学生はちょっといないからね。簡単には引っかからないよ」
 しまった、僕よりも数枚上手だった。



 古書堂「月下美人」の良いところは、閉店時間は夕方六時でも、店主に用事さえなければ夜九時になっても開いているところだ。
 磨り硝子のスライドを開けると、灯油ストーブが空気を焼く匂いがする。電気式じゃない暖房器具なんてここ以外で見たこともないのに、この匂いを嗅ぐと不思議と懐かしい気持ちになる。
 雑然とした新刊コーナーを抜けて奥へ入る。福永はいつも通りの場所に、いつも通り腰掛けていた。木製テーブルには古いレジと開かれた分厚いハードカバー。丸眼鏡から覗く眼光は夜になるほど鋭い。
「やあ、福永」
「うるさい。あとにしろ」
 ぴしゃりと言い放ったまま目は文章を追う。今いいところだから少し待ってくれ。そう優しく言えばいいものを、独裁者みたいな言葉を使う。僕はしかたなく雑誌コーナーで旅の情報誌を眺める。行きたいところがあるわけでもなかったので何気なくこの街の周辺地域の誌面をめくると、行きつけのパン屋が小さく乗っていた。なぜか僕が得意げになる。
 五分もすると、福永が「おい」と声をかけてきた。絶対に名前を呼ばないあたり、結婚したら絶対に亭主関白だと確信している。
「終わったのかい」
「でくのぼうに居座られても困るから仕方なくキリのいいところで閉じたんだ。早く要件を言え」
 店主の悪態には慣れっこなので、そのまま今日の出来事を話す。
「なんだお前、そんなことも知らないのか」
 表情が読めないことで定評のある僕でもさすがにムッとした。しかし福永は気にも留めず、
「古代文明が科学の粋を尽くして作成した兵器とも、地球外生命体が仕掛けた爆発物を起爆させるタクタイルスイッチとも言われている。都市伝説的に有名になった逸話だが、その実、日本のみならず世界各国で似たような話がある。なにせ文明を滅ぼす力だからな。社会のパワーバランスをひっくり返すために秘密裏に捜索部隊を配置している国もあるという噂だ。前に日本で流行ったのは確か半世紀前くらいだったか」
「僕らが生まれるずっと前じゃないか」
「こんなの基礎教養だろう。それだけポピュラーな話ということだ。何度も燃え上がる場所には火種の存在を疑わざるを得ないしな」
 そう言って再び本に目を落としかけた福永のもとに、一匹の猫が寄っていって抱っこをねだる。険しい顔のまま猫を抱き上げて膝に乗せた。これは喜んでいるときの顔だ、と僕はこっそり思いながら話を続ける。
「福永でもそういう話を信じるの?」
「すぐに白黒つけたがるのは愚か者のすることであり、度を過ぎると信仰になる。必要なのは知識だ。だから本を読めとあれほど。いい機会だからここ百年の時代史を紹介してやる。全千ページというコンパクトにまとまった良書で、価格は二万三千円だ」
「わかったよ、わかったから」
 それにしても半世紀前の流行を基礎教養というのは度が過ぎているんじゃないか。と思ったものの、僕の小遣いに二万三千円は痛すぎるので口には出さなかった。
「ところで、今日はその話をしに来たんじゃないんだ。僕が紹介してほしいのは教育とか、もしくは社会人の心得とか、そういうやつなんだ」
「じゃあさっきの話はなんだったんだ」
「言ったじゃないか、吉田くんのことでって」
「まずお前は要点を絞った話し方を学ぶべきだ、粗放者」
 ほとんど怒声に近い声を出しながらも、福永はぽんぽんと目的の本を棚から取り出していく。時々「これなら読み物としても面白いからでくのぼうにも最適だ」などと暴言を吐いているが気にしない。
 こういうところが月下美人の流行るゆえんなんだろう。言われてみれば僕は福永に出会ってから、ネット上でも別の本屋の検索機械でも、彼以外に本を紹介してもらったことがないのだった。
 これでなんとか吉田君にやる気を出してもらうのだ。そして僕のお気に入りの席を返してもらう。そこまで考えたところで凶暴な店主から店を追い出された。
「ねえこれ、しばらく借りていても…」
「勝手にしろ」
と言われたので大人しく諦めた。
 店の前の誘蛾灯の下で渡された本のラインナップを見る。借りたうちの一冊に話術に関する本が入っていた。さすが福永、抜かりがない。
 意気揚々と妻と愛犬の待っている家に帰ろうと踏み出すと、「あの」と控えめな声がした。立ち止まって振り向くと、若い男の子が立っていた。歳は中学生くらいだろうか。なにか小さな機械みたいなものを、両手で掬うように胸の前で差し出している。



「どうりで、いつにも増してぼーっとしてると思ったよ」
 幹谷部長が机に両肘をついて呆れたように言った。
「ぼーっとなんてしてません。切羽詰まった顔です」
「僕には違いがわかんないよ」
 なんてことだ、とポーズしてみるけど、僕の表情筋は日頃からあまり仕事をしてくれないので諦める。
 今日は朝から幹谷部長とミーティング、そのあとすぐに別の部署と打ち合わせと会議。いつもなら粛々と予定をこなすところだけど、今日ばかりは思考があらぬ方向へ行ったり来たり。最終的には鞄の内ポケットに着地して、頭を抱える。
 月下美人を追い出されてまもなく、中学生くらいの男の子に呼び止められた。目深に被った野球帽はこのあたりのチームのもので、野球にまったくもって詳しくない僕は、特殊な造形をした筆記体になんて名前の球団だっけ、と首を捻っていた。そうしているうちに大した会話もないまま、それを受け取ってしまったのだ。
 まさか、僕の元へ回ってくるなんて。
「奥さんには言ったの?」
「言いました。元の場所に返してきなさいって」
「そりゃそうよねえ」
 ほっほっ、とフクロウのような声で幹谷部長が笑う。僕は目の前の機械に気が気でないというのに、やはり部長たるもの肝が据わっているのだろうか。
 形状はメタリックな緑色の板で、スイッチというよりはリモコンなどに近い見た目をしていた。上半分には小さな黒い画面と、下半分の中央についた丸いボタン。調べたら、中にはこういった形状をしているという目撃情報もあった。おかげで今朝からバッグを持つ手がそわそわして仕方がない。
「それにしても、こんなものがねえ」
 あろうことか、幹谷部長は何気なしにスイッチを手にとった。表面を眺めて、ひっくり返して。観察するというよりは、どこか感心しているみたいな様子だった。豪胆を通り越してもはや危なっかしい。広い歩道よりも、なぜか道路のヘリばかり歩きたがる子供みたいだ。
「失礼します」
 突然がちゃりと会議室のドアが開いた。微塵も失礼だなんて思っていない顔で、吉田君が中へ入ってくる。
「どうかしたの」
 幹谷部長が尋ねるけれど、吉田君はにやにやしているだけでなかなか用件を言わなかった。ようやく口を開いたかと思えば、今もっとも会議室でホットな話題が繰り出される。
「ついに手に入れてしまったんです」
「まさか、君も?」
 幹谷部長が顔をしかめる。吉田君も同じくらい怪訝な顔で「君もってなんのことですか」と首をかしげた。右手にはシルバーの小さな機械があって、真ん中に四角いボタンがついている。僕が持っているのとはずいぶん形状が違うけれど、これも確かにスイッチと呼べなくもない。
「揃いも揃って。仲のよろしいことだよ」
 それ貸して、と幹谷部長は吉田君に向かって手を差し出した。少し躊躇いながらも、若い手が皺の多い分厚い手の中に小さな機械を置いた。ほんの一瞬の出来事だった。
 右手に吉田君のスイッチ、そして左手に僕が持ってきたスイッチを持ち、迷うことなくボタンを押し込んだ。吉田君は「ひっ」と小さな声を上げた。

「いるもんだねえ、未だにああいう子」
「なんの話ですが?」
「吉田君だよ。昔もいたのよ、まるで地雷原で育ったみたいな男の子。彼、できないとかわからないって言わないでしょう」
「わかるんですか」
「わかるよお、じじいを舐めちゃいけないよ」
 ほっほっ、とまた鳥みたいな声で笑った。僕は吉田君の少し丸まった背中を思い出す。
 幹谷部長はボタンを押したあとで、「世界を滅ぼすだなんて大層なものじゃないよ。どっちも古い機械だけど、僕くらいの世代の人間なら使ったことのあるものだ」と説明した。それならそうと先に言ってくれれば良かったのに、と思ったけれど、その前に吉田君が大きく舌打ちをした。
「俺にこれを押し付けてきたやつも知らなかったんですね、きっと」
「同年代の子なら、そおね。だって君も知らなかったんでしょ」
 ぎゅ、と音が鳴りそうなくらいに吉田君の唇が引き結ばれる。
「平介さんだって知らなかったんじゃないですか」
「僕は機械に弱いからなあ。でもあやこも知らなかったなあ」
「あやこって誰ですか」
「僕の奥さん。すごい美人でとっても可愛いんだ」
「立てば芍薬、座れば牡丹ってやつですか」
「うん、笑った顔はラナンキュラスだよ」
「なんですかそれ」
「あやこの一番好きな花」
 吉田君は大きくため息をつき、昼飯行ってきますと告げて会議室を出て行ってしまった。元通りに僕と部長だけが残される。
 幹谷部長は適当な椅子を引いて腰掛けた。
「男の子の世界にはね、少なくないのよ。人を蹴落としたり貶めたりすることでしか登れない世界が。弱みを見せたら、はい、ゲームセットって内側から蹴り出すの。外側から見たら大したことじゃなくても、内側からの景色しか知らない者にはまるで地獄よ。いや、地獄ならまだいいかもね、ぷつんと切っちゃったらそこで終わりだもの」
 幹谷部長の丸い眼鏡がなにかを反射する。一日で一番明るい時間がやってくる。
「あれ、本当はなんだったんですか」
 尋ねると、部長は大して興味もなさそうに机の上に目をやった。
「君が持ってきたのは、僕が学生の頃に流行った音楽プレイヤーだよ。これに直接データを入れて、側面の差込口に繋いだ音響変換器で聞く仕組みなの」
「じゃあ吉田君のは?」
「ちょっと古いタイプの空調リモコンだよ。君の年齢なら似たようなのみたことあるんじゃないの」
 そう言われてみれば、実家で昔使っていたのがこんな感じのだったような。どっちも今ではガラクタだけどね、と幹谷部長は付け足した。
 なにはともあれ世界は大洪水によって洗い流されることも、巨大隕石によって消滅することもなかった。
 誰も本物を見たことがないから、偽物と本物の区別がつかない。考えてみれば当然のことだけれど、いざ手にしてみるとそう簡単ではなかった。だって月下美人の前で会った男の子の声も、表情も、確かにとても怯えていたのだ。そして幹谷部長がスイッチを押した瞬間の吉田君も同じ顔をしていた。
「僕が若い頃にね、こんな言葉が流行ったのよ。持っていても平気でいられる人のところにスイッチは回ってくる、って。その男の子には、平介君なら大丈夫に見えたのかもね」
 僕は無造作に置かれた機械を手に取り、左右の手の中で行ったり来たりさせる。気まぐれに真ん中のボタンを押してみても、なにか感動的なことが起こる気配はなかった。
「疲れること言っちゃったじゃない」
「今の話がですか?」
「そうよ。君ね、おじさんはみんな説教したい生き物だって思ってるでしょ。僕くらいになるとね、おじさんじゃなくて、もうおじいさんなの。説教なんてし飽きてるの。だからそれ読んでいっぱい勉強してちょうだいよ」
 それ、と幹谷部長が指さしたものを目で追う。僕の鞄の中には社会人一年目の教科書、新人教育読本が二冊、ついでに話し方の教本も。しかし僕は首を傾げる。
「これは全部吉田君に貸すために持ってきたんです」
「貸すためにって君、ほとんど教育する側のための書籍じゃない」
「はい。だからこれを読んで、どんなふうに教えてもらいたいか吉田君に教えてもらおうと思って」
 そのために本の知識に関してはこれ以上ない福永のところへ行って選んでもらったのだ。
 幹谷部長は呆れたように眼鏡を白く艶のある布で拭いた。豊かな白髭でもあったらますます優雅だけど、部長は顔をつるりとさせたまま「まったく君というやつは」と目尻だけで笑った。

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