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あの頃、誰かに言って欲しかった言葉を言える自分に、貴方ならなれる

「次の休みはいつかなぁ」
8月31日の夜に、わたしが考えていたことだ。

31日が木曜日なら、1日学校に行けばすぐに休みが来る。でももしも土曜日だったなら、9月1日は月曜日になるから、5日間も頑張らなければ休日は来ない。

それがひどく、わたしを絶望させていた。

8月31日という日に、学生たちは何を考えているだろう。どんな気持ちで、立ちはだかる9月1日に必死で向き合おうとしているのだろうか。

わたしは学生の頃、とても臆病だった。だから色々なものが怖くて、学校に行くのも嫌だったけれど、かといって休むこともできなかった。

休めない、休んだらいけない、休んだら自分はダメな人間だと思われる、そう思うから行くほかなかった。

だからわたしには、"学校を休みたくても、休めなかった" 人の気持ちしかわからない。8月31日の夜、わたしとは別の選択をした人の気持ちを、軽率にわかってあげられるなんてことは言えない。

だから何かの参考程度になればいいと思って、ここからの文章を綴っていきます。



休みっていうのは、一種 ”ゴール” のようなものなのかもしれない。平日の間はずっと走り続けなくてはいけないけれど、ゴールまで辿り着けば苦しいことや辛いことは一時的に減ってくれる。息切れを整え、疲れた手足を投げ出しても、ゴールに辿り着いていれば怒られたりしない。

そんな免罪符のようなものなのかもしれない。

しかし免罪符の効果はたったの2日間だけ。それ以上を自分で手に入れようとしたら、その対価として ”痛み” を負わなければいけない。少なくとも、当時のわたしはそう思っていた。

痛みとは言わずもがな、病気じゃないのに人から心配される罪悪感、仮病だとバレるのではないかという恐れ、そして何よりも「このままではダメな人間になるのでは」という途方もない不安感。

それらすべてを負わなくってはならない。それを何よりも恐れ、現状を変えることができずに苦しんでいた人、今苦しんでいる人がどれだけいることだろうかと思う。

その痛みはやがて体の内部にまでやってきて、じわじわと血肉を侵食していく。どうすることもできない、学校に行かないなんて、そんな大それた選択を出来るはずがない。そんな自分の本音が自分を傷つけ、追い詰めていく。

ストレスからくる頭痛、腹痛なんて容易に片付けられることではない、その痛みはそう簡単に表現できるものではなかったと、わたし自身は記憶している。



それが「夏休み」になったらどうか。何もしなくても長い”ゴール”の期間を得ることができる。こんなに嬉しいことがあるだろうか。家にいたって誰にも何も言われない。友達のこと、勉強のこと、あなたが息苦しく感じている一つ一つから解放される充実感は計り知れない。

約一ヶ月半くらいの間、そんな休みの切符を渡されたあなたはそれを喜んで受け取っただろう。しかし何事にも終わりはある。どんなに願ったって延長はない。強制送還、もとの日常に戻らなくってはならないのだ。

それが幾人かの人たちにとっての8月31日というものなんだろうなぁ、と私は想像するとともに昔を懐かしく思っています。



正直に言えば、わたしはその当時なぜそこまで「休み」に固執していたのか、よく覚えていない。これは決して「過ぎてみれば大したことない」なんてことを言いたいのではなく、本当によくわからないのだ。

だから社会人になった今でこそ、学生の頃が懐かしくって、戻りたくなったりもすることができる。そのことがなんて幸せなんだろう、そして、なんて残酷なんだろうと思った。あんなに辛かったこと、苦しかったことを覚えていないなんて、人間の脳はなんて自分に都合がいいんだろう、覚えていなかったらまた繰り返すのではないか、と思うことが幾度かあった。

ネガティブな方のわたしが言うのだ。幾つになったって同じ、小学校、中学校、高校、大学を卒業し、学生という立場が終わったとしても、いずれ就職して仕事に就くことになる。そこでもまた、何がしかの悩みに苛まれるのでないか。

そんなことを言えば、また未来ある若者(わたしもまだ20代だけれど)の気分を落ち込ませてしまうかもしれないけれど、夏休みを終わろうとしているあなたの気持ちに似たようなことを、わたしも感じたことがある。

しかし結果がどうかと言えば、今わたしは比較的おだやかに、そして何事もなく暮らしている。特別幸せと言えるほどの身分ではないが、特別不幸だと感じることもない。そんな暮らしを人がどう思うかはわからないが、自分自身はなかなか満足している。

だがこれも決して、「未来は明るい」なんてことを言いたいのではなく、むしろその逆を言いたいのだ。今は平穏な毎日では、ほんの少しのことで暗転するだろう。そんなことはわたしよりもこれを読んでいるあなたの方がよく知っているかもしれない。

だからあえて言いたい。わたしの言葉で人を救うことはできない。大それた説得なんてできないし、将来の希望を語ってみせることもできない。なぜならわたしも同じように、同じ不安を抱えているから。

虚勢を張って若者に道を示すのは、わたしの領分ではないと思う。でも、この場を借りて一つだけ言えることがあるとしたら、「今の自分が将来の自分を救うだろう」ということ。

小さい頃、誰だって悲しいことや痛いことがあったら両親に慰めてもらっただろう。傷を手当し、頭を撫でてもらって安らかな眠りにつけば、次の日には傷が癒えていたかもしれない。

それが年齢とともに傷を手当するのが自分になり、人に傷口を見せることが減っていく。成長するっていうのはそういうことなのかもしれないけど、みんながみんな同じように成長できるわけではない。まだ誰かに絆創膏を貼って欲しかったのに、消毒をしてもらいたかったのに、いきなり放り出された先には使い方もわからない救急箱が一つ。こんなに理不尽なことはないと嘆いたこともあっただろう。

しかし周りの同年代にできて、自分にできないことが恥ずかしい、早く成長しなければと急いでしまう。痛くってたまらないのに、何事もなかったように振舞ってまた走り始める。そんな感覚もあるだろう。

だが幸いなことに、生きていると次第に自分の傷の手当の仕方を覚えてくる。絆創膏を貼らなくっても消毒して乾かしておけばいいだとか、これは薬を飲んだ方がいいだとか、一つ一つの傷口に対する処置がわかってくる。

これはとても厄介でとても喜ばしいことだけど、傷の手当の仕方は人それぞれだ。だから人と同じやり方ではダメなのと同時に、人と同じやり方をしなくたって傷は治る。それをわたしは素晴らしいことだと思います。

人と同じにできなくっても、人から何を言われても、自分は自分だけのやり方を選ぶことができる。それで自分が癒されるならそれでいいんです。



わたしには人の癒し方なんてわからない。どんな言葉をかければいいのかなんてわからない。自分の気持ちをわかってあげられるのは、自分だけ。将来何か辛いことがあった時、そして今辛い目にあっている自分に、一番言って欲しい言葉をあげられるのも、自分だけ。

どこからともなく現れるヒーローを待つよりも、誰かの救いの一言を待つよりも、自分で自分を癒してあげる方がずっと健全で、ずっと強いと思いませんか。

自分を助ける方法も、これからを生きる理由も、自分の中に見つける方がずっと優しいと思いませんか。

なんだかバカバカしくなるようなことだっていいんです。どんな方法で傷を治しても、どんなことが生きる理由であっても、誰もあなたを笑ったりすることはできません。だってあなたは強いんだから。



わたしに言えることはそれくらい。他には特に言えることがありません。学生を終えて、何年から社会人をやったとしても、すぐにはそんな大それたことが言えるようになるわけじゃない。根本的にはそんなに変わらない。性格も生き方も、もちろん考え方も。

しかし環境だけはいくらでも変えられるから。少しでも自分の好きな場所、好きになれそうな人を選んでください。

あなたには選ぶ権利があって、あなたのことはあなただけが自由にできる。

そのことを忘れないでいてください。


また、無理を承知で教育に関わる方に言いますが、できることなら少しでも子供たちが緩やかに成長できるようにしてあげてください。

ここは助けてあげるべきか、それともあえて突き放すべきか、悩むことがたくさんありますよね。でも信頼する人から突き放される経験は、成長のキッカケであると共に、子供からしたら明確な絶望にもなり得ます。

できるなら温かく守り、体勢を崩しそうな状況になったならゆっくりリハビリさせてあげてください。学生時代のわたしは、夏休み終了初日が金曜日だったならどんなに救われたことだろう、と思っていました。そんなことすら一つの命綱なんです。


それでは良い8月31日を。


#8月31日の夜 #コラム #エッセイ

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