不確かな時代の確かな笑い

おそらく今までの人生で一度だけ、朝、大爆笑しながら目覚めたことがある。

もう何年も前のこと。普段は夢を見るといっても、覚えているのはほとんどが怖い夢だから、目が覚めた後も口角に笑いの余韻が残ったままの圧倒的な幸福感で目覚める朝はとても新鮮なものだった。
その心地よさをいつまでも反芻していたくて、しばらく布団から出られなかったのをよく覚えている。

ただ、目覚めきっていない頭でもひとつ気になることがあった。
夢の中ではあんなに笑っていたけれど、何がそんなに面白かったんだろうかと。

たしか、何人かの友人たちとふざけて冗談を言っていて、何か笑える言葉をひたすらみんなで言いあっては爆笑する、そんな夢だった。
深夜のよくわからないテンションで何を言っても笑ってしまうような、大人になってからは中々味わえない空気だった。

でも、夢の中では笑い転げるほど面白かったはずのその言葉は、目覚めた後で思い返してみても、何が面白かったのか、そこに笑える要素は何ひとつ見つからなかった。

夢の中だから面白かったのか、深夜のテンションのようなその場の空気がそう感じさせたのか。その言葉自体もまったく意味のわからない言葉だった。

そのときの言葉が何だったのか、今はもう忘れてしまったんだけど、たしか「ハナモゲラ」といったような意味のないカタカナ言葉の羅列だったと思う。
あれだけ笑っていた理由が急になくなってしまい、呆然とするようだったけれど、それでも旧友との楽しい時間を過ごしていた実感や懐かしい感覚、幸せの余韻のようなものは依然残ったままだった。

夢はいつだって特別なこと。時間が止まったままのような夢の世界では、今はもう失われてしまった場所へも行くことができ、会えなくなった人、同じ時を過ごしていない人同士でも、同じ場に居合わせ会話をすることができる。
そんな本人にとって人生のオールスターゲームのような体験が特別でないはずはなく、夢を語る人はつい熱く語ってしまい、聞く方は聞く方で、そりゃあ特別だろうけど、夢の中の話だしね。と話半分に聞いてしまう。
夢の話は現実であっても、話す人聞く人の熱量がまったく釣り合わないアンバランスで不条理なものなのかも。

でも、今は現実の世界がバランスを失ってしまい、不条理なものに変わってしまった。
時計の針が止まってしまったかのように街は静まり返り、むしろ今のこの現実の方が覚めない夢なんじゃないかと思ってしまうほど。
本来なら最も心躍るゴールデンウイークの時期に、人の往来も活動も止まってしまえば、喜びや感動といった心の動きまでもが止まってしまう。

テレビをつけてみても、そこにあるのは危機感や不安感をこれでもかとあおるワイドショーばかり。
「こんなときだからみんなで一丸となって頑張りましょう」と普段なら何のことはない言葉にも、いつもとは違うささくれ立った心には、言葉のわずかなトゲが突き刺さってしまう。

どんな言葉のやりとりでも、人と人は本来傷つけあいながら生きているんだと気づかされる。
普段気づくことがないのは、それに気づけないほど世の中のスピードが速く、次々と起こるできごとに素早く切り替え、対応していかなければならないから。ひとつひとつのやりとりに、言葉の意味を振り返っている時間がない。
それに、言葉は人を傷つけると同時に、それ以上に人を癒してもくれる。
傷に気づくこともなく、回復していく傷。

これは笑いについても同じことが言えると思う。
笑いは常に誰かを笑うわけで、笑われた誰かは多かれ少なかれ傷つくことになる。
最近言われる「誰も傷つけない笑い」というのも、まったく何も傷つけないわけではなくて、笑われている対象をボヤけさせ、自分が笑われていると感じさせないような配慮がなされているからこそ、誰も傷つくことなく笑えているんだと思う。

いつ頃からだったか忘れてしまったけど、自らボケて笑いを取りに行くような笑いより、誰かの言動や失敗を笑いに変えるつっこみが増えたと感じるようになった。
もちろん多くの場合、失敗した人を馬鹿にするような意図はなく、それが失敗のショックを和らげたり、円滑なコミュニケーションのための優しさから来ているのはわかっている。
ただ、何かのできごとに反応して笑いにする、イベント待ちの笑いが笑いの基本になっていくことに、少なからず違和感のようなものを感じていた。

たとえばラグビーのワールドカップ期間中、何か物を落としでもすれば間髪入れずに、「ノックオン!」と周囲から総ツッコミが飛んでくるような状況はどうなんだろうか。
つっこまれたくて物を落としたわけではないのに、準備もできていないのにそこをつっこんでこられたら、それはもう違法タックルのようなもの。

獲物を狙う猛獣のように虎視眈々とツッコミの機会をうかがい、辺りに目を光らせる様には恐怖すら感じてしまう。
ラグビーで日本中が湧く最中、これはうかつに物すら落とせないぞ、とワールドカップさながらの緊張感で生活を送るのは、稲垣選手でなくとも笑えない体になってしまいそうだった。

人をつっこみへと駆り立てるのものは何なのか。

自分の中でも笑いに対するスタンスが確実に変化するきっかけはあって、今でも覚えているのは中学へ入学したばかりの頃のできごと。
担任の教師は教室で、生徒みんなに向かって説教のような注意を始めていた。

「ちゃんとやらないんなら、終いには怒るからな!」

怒りの理由が何だったか忘れてしまったけど、すでに怒っている教師に向かって、その目の前、最前列の座席にいる自分はここぞとばかりに矛盾点を指摘した。

「もう怒っている」
ふいな言葉に、顔色をさらに赤くする教師。

「あたりまえだ!!」
赤ら顔の教師は一喝する。

しまった、と思うと同時に、あれ?おかしい、と思ってしまった。
小学校のときだったら、これで教室は大爆笑で包まれていたはずなのに。緊張と緩和ってこういうことじゃないの?

その場にそぐわない場違いな発言をすれば笑ってくれた小学生の頃のような笑いはいつしか許されなくなっていた。
大げさなことを言ったり、逆に必要以上に細かいこと言ったり、場に不釣り合いな発言や、前に出て来たワードを繰り返したり、そんなことをしているだけで周囲を笑わせることができた。
しかし、当時と違って、許されない笑いがあることを次第に覚えていく。

ちなみに、この頃身に着けた笑いは、今でも変わっていないような気がする。多少語彙力が増え、倫理観が増しただけで、やっていることはほとんど変わらない。
たぶん、成長過程のある時期に運動能力が著しく発達し、定着するスポーツのゴールデンエイジというものがあるように、笑いの能力、感覚が定着する笑いのゴールデンエイジもあるんだと思う。

中学のときのその事件だけがトラウマになったわけではないだろうけど、だんだんと人前でスベる恐怖心とか、羞恥心を覚えるようになって、心を許すごく限られた人の前以外ではボケることはなくなっていった。

それからは、誰かの言動に茶々を入れるだけのつっこみをするばかりで、それでウケなかったとしても、別に笑わせるつもりで言ったんじゃない、という体でいさえすれば良かった。
以前とは違う、完全に守りのスタイルに変貌を遂げる。

そして、そんなスタイルで中学での学生生活を過ごすようになってしばらくした後、決定的な一言を小学校のときのクラスメートだった友人に言われることになる。

「なんか真面目になったね」

意外な言葉だった。ふいをつかれて何も言い返す言葉が見つからなかった。
当然、ここで言われる”真面目”という言葉が良い意味であるはずもなく、言外に、なんでボケるのやめちゃったの?と言われているような気がした。
人前でボケるのをやめると、真面目になったと思われるんだとそのとき気づいた。
自分の中では何ひとつ変わっていないのに、それを表に出さなければ他人には何も伝わらないのだと知った。

つっこみという行為のすべてがそうだとは思わないけれど、そのときの自分にとっては、つっこみというのは自分が傷つかないための笑いだった。
ボケはその発言に対して色んな角度からつっこみにさらされるけれど、つっこんで誰かを笑っている間は自分が笑われることはなかった。
つっこみが笑いを支配するヒエラルキーの頂点にいるような安心感。完全な誤解ではあるけれど、そのときはそんな安心感を感じていたかったのかもしれない。

笑いが人を傷つけることもあるのは、そこには少なからず毒のようなものがあるからで、時にはつっこみという名の冷笑やあざ笑うことが、相手を罵倒するのと同等かそれ以上の意味を持つことさえある。
だからといって、笑いは毒を含むから笑いで人を傷つけてもしょうがない、と開き直るのではなく、だからこそ人を傷つけかねない鋭利な道具であることを自覚すべきなんだと思う。

よくある政治家の不謹慎な発言も、それによって傷つく誰かに対する視点が完全に抜けていることが多い。特に笑いの毒の部分だけを利用しようとする政治家のジョークはなおのこと質が悪く、欧米の政治家でもマネているのかわからないけれど、欧米の文化でもわりと危険なブラックジョーク(というか完全にアウトな発言)を、笑いのセンスと配慮に欠けた政治家に使いこなせるはずもない。
毎度のニュースのたび、そんなことを思ってしまう。

今さらだけど、ここまで書いてきて、ひとつ気づいてしまった。
笑いについて真剣に書けば書くほど全然笑えないことに。
笑いというものを面白おかしく書くつもりだったのに、笑いを誤解されたくないがばかりに真剣になってしまった。こんなことでは、真面目だね、と言われても返す言葉もない。
ましてや他人にとってはどうでもいい夢の話までしてしまっているし。

まぁでも、笑わせようとして書いたのではなかった。
ボケることをやめてしまったあの頃の自分に向けて書き始めたようなもの。
なので、最後にあの頃の自分に向けて。

ボケることをやめてしまった君へ。

といっても、実際にはたぶん中2くらいのときに、もう一度人前で大スベリするときが来るはずです。
でも、ボケることをやめないで欲しい。

自分の笑いに固執して、相手に面白いだろ?と押し付けるのではなく、相手の笑いも尊重してあげてください。
相手がどんな笑いを好んで何を嫌がるか、それも考慮に入れてその場にあった適切な笑いを提供してあげてください。
そうすることが最も誰も傷つけず、自分も傷つかない笑いのような気がします。

なぜ笑っているのか、明確な理由がわからなくても楽しい時間を共有することはできるはずです。
あの日爆笑しながら目覚めた夢は、笑いの言葉や研ぎ澄まされたセンスが面白かったからではなく、みんなで笑いあえたその時間が何より楽しかったからです。

面白いことがあるから笑うのか、笑っているから面白くなるのか。
たしかなのは、必ずしも理由があって笑うわけではなく、笑っていたいから笑うだけなんだという単純な事実です。
自虐的な笑いだからと卑下になるのを恐れずに、誰かがつっこんでくれるのを期待するのでもなく、ひとつの笑いが次の笑いを生んでいく、そのことだけを信じて笑ったり笑わせたりしてください。

最後に、オチは当然笑いで締めるのがベストだと思いましたが、そんな勇気もセンスもなく、ましてや面白いことがまるで思い浮かばない現状にいまだ愕然としているので、何も気にする必要はないです。
がんばってください。

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