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極私的メンタルヘルスの記録2020-2021

もう何年も前のこと、鎌倉へ旅行で訪れたついでに禅寺の座禅会に参加したことがあった。
それまで禅に興味はありながら、実際に体験する機会はなかった。調べてみると、事前予約も必要なくその場へ行くだけで参加できると知り、軽い気持ちで参加する事にした。

「両足で座禅が組めない人は片足だけでもいいですからね」
そう告げられても、体の硬さは自覚していたからすでに両足で組むことは諦めていて、片足だけそれっぽい形になればいいかなんて思っていた。

しかし、実際に片足の足首を持ち上げて、反対の足の腿上に乗せてみると折れるんじゃないかと思うほど痛く、しかもその位置をキープできずに乗せた足はすぐに落ちてきてしまう。乗せる足の位置を変えたりして何度か試してみてもダメだった。

愕然とした。いくらなんでもそこまで自分の体が硬くなっているとは思ってもいなかったから。禅寺まで来て片足すら座禅ができないのが発覚するなんてことがあるだろうか。

周りを見渡せば、数十人いる参加者のうち、三割くらいの人はしっかりと両足で座禅を組み、残りの人はみな片足で組んでいるようだった。
自分だけが独自のあぐらスタイルで参加する異教徒のようで、ひどく恥ずかしかったことを覚えている。

もちろんそこでは座禅が組めないことを咎められることはなかった。けれども姿勢の悪さや曲がった座布団の向きなどは正されて、普段の生活での雑な部分を指摘されるようでもあった。

こういうところからなんだろうなと思った。
心を安定させるには、まずは土台となる身体を安定させなければならないし、身体を安定させるにはその身を置く環境や生活のリズムを安定させなければならないと。
身体が揺らいでいれば、心はいつまでたっても安定しない。

心に着手するにはまだ早すぎる。まずはこのガチガチの体をなんとかするために、とりあえずは毎日のストレッチから始めよう。そう強く思ったのだった。

そして今、心の問題に着手するときがやってきた。
といっても、身体や生活が安定したからというわけではなかった。
むしろその反対で、心のあまりの不安定さに緊急の対応を迫られていた。
このコロナ禍という社会も生活もすべてを不安定にしてしまう激震に、自分の心は高層ビルの屋上ほどに揺らぎに揺らいでいた。

発端となったのは、おそらくマスクの着用に起因する。
それはまだ春先のこと、当時の報道でコロナウイルスに感染すれば肺がダメージを受け、悪化すれば自力で呼吸が出来ない程に苦しくなる、という大まかな情報だけは得ていた。

仕事中、たまたま急いで階段を駆け上がり、その直後に人と話をしようとしたとき、普段の運動不足とマスクの呼吸のしづらさとが相まって、ものすごく息苦しさを感じた。

苦しいのはただの運動不足のせいなのに、なぜかそのとき頭に浮かんだのは報道されていたウイルスの感染情報だった。
こんなに苦しいってことは、もしかしたら……と思い始めてしまったらもうダメで、頭の中は感染の不安と恐怖でいっぱいで、半分過呼吸のような状態で咳き込んでしまった。

ただ、それは数分で落ち着いて、それ以降はそんな問題は起きなかったから、そのときは特別気にすることもなかった。

心の問題は本当に何がきっかけになるかわからない。
メンタルが強いとか弱いとか、人は簡単に言ってしまうけど、心がそんな単純なものではないことは誰しもわかっていると思う。
あることには抵抗力があったとしても、別のことになるとからっきしダメだったり、その日の体調や、場所や環境、相手によってもそれは違ってきたりする。
そして、当人にとっては深刻な問題でも、心の中までは見えない他人からはほんの些細なことのように扱われてしまったりもするから、わかってもらえない苦しさにも当人は傷つくことになる。

自分にとっての心の問題の始まりも、他人から見ればそんな、ほんの些細なことだったのかもしれない。

季節は冬になっていた。気圧変化の大きい毎日が続くせいか、その日も熱こそないものの朝から体調は思わしくなく、仕事中、マスクを投げ捨ててしまいたくなるほど、ときおり呼吸の苦しさを感じていた。

目前では揉め事が起きていた。同僚が冗談のつもりで言った一言が嫌味に聞こえたらしく、別の同僚はひどく憤慨していた。そして、そのことを聞きつけたまた別の同僚が自分の目の前で言った本人を問い詰めていた。

正直、自分にとってはそこまで問題になるような言葉だとは思わなかったし、自分でも言ってしまうかもしれないくらいの軽口のようなものだった。みんな疲れているのかもしれないなと思っていた。
それに、どちらかと言えば、正義感を振りかざして事を荒立てる同僚の方に、なにもそこまでしなくても、という思いの方が強かった。
パワハラだとか立場的に反論できないような関係ではない当人同士の問題をみんなに知らしめて、公開裁判のような形で他人が首を突っ込むのはどうなんだろうと。

でも、同僚はそんな自分の気持ちとは裏腹に相手の同僚を攻め立てる。そして、味方が欲しくなったのか、すぐそばにいた自分に対して「どう思います?」と賛同を呼び掛けてくる。
本当のことをいうとそれどころではなかった。そうでなくてもマスクの息苦しさに頭はクラクラしていたし、勘弁してくれよという気持ちでいっぱいで、他人のことを思いやれる余裕はなかった。
それに、どう答えたとしてもどちらかを否定することになる。戦線を拡大しないでくれ……というのが切なる願いだった。

同僚の問いに、こう答えたらどうなるだろう、こんなことは言いたくない、と自分の想いや周りの人の様々な感情がぐるぐると頭を巡る。この場から逃げてしまいたい気持ちと逃れられない状況がもどかしくてたまらない。
そんなことを思っていたら、息苦しさは更に増してきて、もはや立っていられないほどのめまいに襲われる。ぐらつく視界の中、慌ててトイレへ駆け込んだ。

個室トイレに腰を下ろし、脂汗びっしょりの顔を拭きながら、自分の体がどこかおかしくなってしまったんだろうかと内心怖くなる。それでも、このめまいもしばらくすれば落ち着くだろうと思っている部分もあった。

人生も半ばを迎える今頃になって気づいたことだけど、これまで自分は貧血気味なのだと思っていた。親もそうだったのでこれは遺伝なんだと。
でも、思い返してみると、それは貧血ではなく過度なストレスから来る発作だったんじゃないかと思い当たるふしも多い。
過去に、満員電車で倒れ込んだことも、立ち見になるほど満員の映画祭で、主人公が暴行を受けるシーンで気持ちが悪くなり座り込んでしまったのも、思い起こせば一種のパニックの発作だったのだろうと今なら想像がつく。

そのときの職場での発作もしばらくすれば治まり、自分の席に戻ると何事もなかったようにみな黙々と仕事をしていた。
隣の同僚に事の顛末を尋ねると、軽口を言ってしまった同僚が本人に謝って事は収まったようだった。
まぁとりあえずば良かったと思ったが、これで一件落着、とはならなかった。
同僚たちにとってはそれが冷戦の始まりとなったし、自分にとっては心に不安を抱える日々の始まりでもあった。

今は本当にあらゆることに心が過敏な反応をするので、日々の仕事や生活で何がストレスになっているかがよくわかる。それから、日々何が心を癒しているのかも。

突然する大きな物音や大きな声にはドキッとしてしまうし、恫喝する声なんてもってのほか。
そもそも、自分の思い通りにならないことに怒りが生じるのは仕方がないとして、その怒りを相手にぶつける必要などあるのだろうか、と思うことは多い。

例えば仕事で何かミスをした人がいたり、うまく意図が伝わらずに齟齬が生じたとき、そこでやらなければならないのは、今後どうすべきかを理由とともに相手に伝えてやってもらうことであって、個人的な怒りを相手にぶつけて精神的なプレッシャーを与えることではない。
恫喝のようなことは円滑な仕事をする上でも、働く人のメンタルヘルス上もマイナスでしかないのに、立場を利用して半ば相手を脅すような形でコントロールしようとする人は少なからず存在する。
成熟した世の中というのは、感情的にならず相手に意図や理由をしっかりと伝えてスマートなやりとりをすることだと信じて疑わないが、そこに行きつくにはまだまだ障壁は多い。

それから視線の問題。これはずっと以前から気になっていたことだけど、仕事場で机や機器類を並べたとき、どうしても対面に誰かがいる配置になり、視線の圧迫感が生じてしまうということ。
狭いスペースを有効利用するにはしょうがないことだし、些細な問題でもあるけれど、一日中ずっと視線が合うか合わないかのような微妙な向き合い方で過ごすとなると、割と大きなストレスとなる。

仕事中、ふとした瞬間に視線がぶつかっても、ZARDの歌にあるような幸せのときめきは訪れない。むしろマスク姿の無表情な眼差しから来る威圧感に「負けないで」と心を奮い立たせる日々。

こうしてマスク着用を義務付けられることになった今、多くの人がそのことでストレスを感じたり働くことに支障を来しているであろうことは想像に難くない。
(表情が)見えない、(声がよく)聞こえない、(相手に聞き取ってもらえないから)話せない、というマスクの三重苦(呼吸のしづらさを合わせれば四重苦)は、感染から身を守ってくれる一方で多くのストレスを生んでいる。

あの同僚の揉め事以来、職場では自分の席に行くと、またあの発作が起きるのではないかと息苦しさや不安が押し寄せるようになっていた。
しかしマスクを外せない以上は、それに対抗する手段を模索するしかなかった。

これまで自分の働き方として、今日中にこの仕事を終わらせるとか、何時までにこれだけのことを終えようというような、自分で自分を追い込むようなやり方で仕事をすることが多かった。
それに自分の体が対応できるうちは良かったが、今はもう自分にプレッシャーをかけること自体がつらくて耐えられない。

いわゆる交感神経が優位になるような状態はなるべく避け、できるだけリラックスした副交感神経優位な状態を心がける。
そこで、深呼吸はリラックスするためのひとつの解決策ではあるけれど、不安が押し寄せ息苦しいときには、深呼吸をしようとしても苦しくて息を吸おうとばかりしてしまう。
なので、呼吸は長くゆっくり吐くことだけを意識する。息を吐き切れば自然と吸うことはできるから、さほど意識をせずに深い呼吸になっていく。

でもやはり一番重要なのは、自分の体の内から湧き上がる不安感に意識を集中させないこと。これに意識を向けてしまうと不安が不安を呼びパニックになってしまう。
この不安は身体のちょっとした変化に対する脳の過剰な反応、誤作動であると知ってから、可哀想だができるだけ無視するように努めている。
ただ、それが本当に難しい。一度心に生じた不安はなかなか消えてはくれないから、その不安に向き合わないための方法を日々模索することになる。

こうして毎日の人体実験のような試行錯誤を繰り返していると、結局これって座禅とか、今に集中するというマインドフルネスみたいなことなんだなと思う。

そして、現時点での試行錯誤の結果として、今に集中する最良の方法は歌だった。
もちろん仕事中声を出して歌うわけにはいかないから、脳内で音楽を鳴らし脳内で歌う、想像するだけの脳内カラオケではあるが。

これの良い所は歌詞も思い出さなければならないし、歌う歌手の映像や、アニメやドラマのテーマ曲だとその映像も浮かぶから、より意識を不安や雑念から遠ざけて歌のみに集中させることができる。

よく音楽番組など言われる「歌の力」、「音楽の力」みたいなものをそれまで実感したことはなかったけれど、今は確実に歌に救われている。
それも、今まで自分が聴いてきた、脳内に蓄積してきた曲を再生することで救われるという、果実の収穫期を迎えたようなそんな心持ちですらいる。

今に集中するのには何かに熱中すればよい。
一病息災という言葉もあるけれど、例え何らかの不調、病いを抱えていても、何かに集中、熱中している間は不安も苦しさも遠ざけてくれる。
「夢中息災」というのが今時点での自分のモットーで、幸せのただなかにあるときは自分が幸せだと気づかない、というようなことなのかもしれない。

心の状態を心で操作しようとするのはほとんど不可能で、スポーツにおけるイップスもそうだし、好きな人の前では意識しすぎてうまく話せなくなってしまったりもする。

自分にとって心の問題とばかり思っていたことも、実際には仕事中目の前のモニターを見続けていたり、前傾気味の姿勢を長く続けていたせいで、首のこり、後頭下筋群の硬さがめまいを引き起こしていた。
そして、そのめまい、脳への血流の悪化が不安を引き起こすひとつの要因となっていたんじゃないかと今では推測している。

人は歳とともに身体も硬くなっていくが、心もまた固くなっていく。
こうあるべき、とか、こんなことはありえない、といった思いばかりが強くなり、固定観念に囚われて柔軟な考えが持てなくなっていく。
今必要なのは心と身体の柔軟性。双方で程良いバランスを取り、折り合いをつけること。

あの揉め事の一件以来、冷戦状態にあった同僚は今も仲良く話すことはないけれど、それでも険悪な雰囲気になるわけでもなく、淡々と仕事をこなしている。
苦手なら苦手で良いし、無理に仲良くしたり距離を近づける必要もない。
結局、人それぞれその人にあった距離を見つけていくしかないのだ。

人の心は難しい。心は目には見えないし、思い通りに操作もできない。
私たちが心を扱うにはまだ早すぎるのかもしれない。
とりあえずできることといえば、今に集中し、何かに夢中になり続けること。
そして、このガチガチの首まわりと後頭下筋群をなんとかするために、まずはストレッチから始めてみようと思う。



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